第2話 夜空の太陽

 店内に充満するごったな匂いが入ったときは気になったが、しばらく経った今ではまったく気にならない。夜が濃くなっていくと共に陽気な話し声やことあるごとに繰り返される賑やかな乾杯の掛け声が目立つようになり、窓の外に見える夜の闇から不穏な気配が抜けていくように思える。

「ふう……ザイキリが南地帯で暴れたらしい」

 カウンター席にいる俺の隣で酒を一口飲んでから、ロジカノは話を切り出した。よく話題にのぼるこの街の西地帯を支配している組織、ザイキリのことだ。そこのボスは喧嘩が好き、というか喧嘩に積極的で、よくもめごとを起こしてはこうして話のおかずにされている。それを本人がどう思っているかはわからない。

「また例のものを探して組員を送ったらしいがナンスリに感づかれて、その組員は家に帰れなかったって話さ、かわいそうに」

 その『かわいそうに』には、あまり感情が込められていない。そう思っていないわけではないだろうが、そこに傾きすぎてはこの街では生きていけない。

「つまりザイキリは暴れてないんじゃないか? 結局なにもできなかたってことだろ、あっさり捕まったなら」

「まあ……それもそうだな」

 とぼけた調子で答えた。

 ナンスリは南地帯を支配する組織で、ザイキリの組員が家に帰れなかったということは、今頃はナンスリの牢の中にいるか……土に還ったかだ。

「オレが言いたいのは、ハレルもそうならないように注意しろってことだよ」

 軽い口調で本気なのか冗談なのか注意をしてくるロジカノ。おそらく本気だろう。

「俺はどの組織にも属してないから気楽なもんだろ。もし怪しまれて捕まったとしても適当な言い訳で逃れられる。後ろめたさなんてない、本当に組織に属してないから」

 各組織間の緊張は無視できるものではないが、組織に属していない者からすればけっして深刻なものではない。

「真っ当に案内人をやってるハレルなら怪しまれる可能性は低いだろうが、それでも安心なんてねえ、この街では。疑わしきはとりあえず痛めつけるが常なんだ、気をつけろよ」

「……わかってるって」

 知った顔を急に見なくなることが珍しくないこの街だ、ロジカノは心配して言ってくれている。でも、酒の席で毎回のように言われることなので雑に受け止める。

「本当にロジカノって、ハレルのお兄さんみたいね」

 客に注文された酒を準備しながらあきれつつも嬉しそうなのは、この酒場、『夜空の太陽』の女店主であるトハだ。

「いい加減うちに入れってしつこく言ってるんだがよ、一向に折れる気配がねえ。この街で生きてくんなら絶対組織の力を得たほうがいいに決まってる」

 どこか愚痴っぽくトハに語るロジカノ。それに対してトハは、

「ハレルにはハレルの考えがあるんだろうから、ね」

 とロジカノをなだめた。

 トハに視線で礼を送ってから、いつもの決まり文句をロジカノに返す。

「俺はいつまでこの街にいるかわからないって、いつも言ってるだろ?」

「オレもハレルもこの街にきてもう六年だぞ、そんなこと言われても本気には聞こえないし、ただの断る口実にしか思えないっての」

 これは冗談ではないし、それを断る口実が必要とも思わない。ただロジカノからすればそう思えても仕方ないのかもしれない。俺は一向にこの街を離れる気配を見せていないし、予定もないのだから。この街に留まる理由を失っていない。

「俺のことはいい、おまえは奥さんと娘を大切にしろ」

「そんなこと言ったってよ、一緒にメルブートにきた仲じゃねえか!」

 酒をグビグビと喉に流し込んで、それが入っていたグラスを少し強めにカウンターに置いた。


 国家という枠組みに組み込まれない自由な街と言われるこのメルブートにきてから一年ほどは、四つある地帯で一番治安の良い南地帯で暮らしていた。そこに東地帯を支配するトウタリに属したというロジカノがやってきて、しつこく東地帯に住むよう誘ってきて、根負けをして結局東地帯に住むようになって、今現在も住んでいる。

 この街にやってくるのは簡単ではなかった。緩やかな丘の上にできたこの街の西には雄大な岩山・ゴンガレ山が鎮座していて、丘を下りれば広大な赤土の荒野・ガーレン荒野が続いている。食料、何より水に乏しいその環境はメルブートを目指す者を苦しめるが、その荒野のおかげでこの街は各国の影響を強く受けずに済む。道中で力尽きる者もいる環境だから、大きな力では関われない。

 俺はその道中で死にかけた。体力と気力でどうにかなると楽観的に考えていて、水の用意が不十分で切らしてしまった。乾燥地帯のガーレン荒野では川がなければ雨もそうそう降らないため水を得ることは困難で、簡単に体が動かなくなっていった。そんなときに現れたのが、ロジカノだった。見ず知らずの俺に対してロジカノはなんの躊躇いもなく水を差しだした。この街についてからしばらくは会うことがなかったが、久しぶりに会ったときは一段と大人びた印象を抱いたのを覚えている。


「ねえねえハレル、もしこの街を出る気分になったら言ってね? あたしも一緒に行くんだから」

 話に入ってきたのは店の手伝いをしているトハの娘のテキュ。後ろから俺の両肩に手を乗せ、馴れ馴れしいというか物怖じしないというか。数年前に初めてこの店で話したときは静かな少女という印象だったが、十五歳の今では立派な生意気娘へと成長した。

「おい、テキュ! ハレルをそそのかすな! それから自分の都合にハレルを巻き込もうとするな!」

 ロジカノはテキュに強く物言い表情も険しいが、テキュは怯む様子も動じる様子もない。ロジカノに慣れ切っているというか、舐め切っている。

「あたしとハレルの話だから、おじさんは黙ってて」

「……お、おじさんってオレはまだ三十だぞ⁉」

「あたしからすれば断然おじさんだって。ハレルはお兄さんって感じかな」

 そんな俺も七年後は誰かからおじさんと呼ばれるのかと思うと、複雑な気分になる。

「テキュ。三番テーブルのお客さんにお酒を運んで」

 話を切るようにトハは酒の乗ったトレイをテキュに預ける。テキュは「はーい」と軽く返事をして運んでいくと、今度はそこの客となにやら談笑し始めた。トハの夫はトウタリの幹部で、この店にはそこの組員の常連客が多い。テキュはそんな人たちに可愛がられてきた。物怖じしなくなるのも不思議ではないと思える。

「あの子、私たちが反対すればするほど、国への憧れを強くしていってるみたい」

 困ったようにトハが言う。

 国からやってきた両親はこの街を愛しているが、その子供は国に興味を持っている。メルブートは『世界最高の娯楽の街で、地上の楽園』と称されて多くの人々を引きつけていく街だが、そこで生まれ育った人からすればここは窮屈で、外が特別に映るのも仕方がないと言えるが、行き来するのが難しいだけに親は嬉しくないだろう。

「今はそういう年頃なのかもしれない。あと二、三年したら、また違うことを言ってる可能性も充分ある」

 励ましというよりは、本気でそう思って言った。

「いい男を見つけたりしてな」

 ロジカノがニヤニヤしながら言うが、トハはさらに困った顔は変わらない。

「それならそれで、あの人は悲しむわね」

 それを聞いたロジカノは、確かにといった反応。普段近くで見ているだろうから容易に想像できたようだ。もしそのときが来たら相手の男性は大変そうだ、トウタリの幹部に認めてもらう必要があるのだから。

「つーかハレル、おまえいつになったら浮いた話の一つや二つが出てくるんだ? それでも男か? おい!」

「残念ながら今のところ出てくる予定はないし、それでも男だろう、男は」

 そんな相手見つけたらこの街から出られなくなるかもしれないし、そういうのに積極的ではないというのもある。

「誰かこいつを、グイっとこの街に引き込んでくれるいい女はいないもんかねえ?」

 ロジカノは店内を見回すが、客は全員男だ。

「それなら、うちのテキュはどう?」

 トハがクスクスと笑いながら言ってくる。冗談だろうが、ここは真面目に返しておく。

「テキュが迷惑するぞ。あいつは俺を利用したいだけで、俺なんか眼中にないからな」

 トハは否定することなく控えめに声を出して笑った。

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