パルカンナの夜

森坂つき

第1話 薄闇の手招き

 茜色は瞬く間に薄れていって、夕闇が勢いをつけて濃くなってきた。

 いつも通りに夜はすぐそこに来ていて、いつもなら夕食のために行きつけの店に向かうところだが……不運と言えばいいのか、風に乗って女性の悲鳴が届いた。

 無視するのが得策だとは理解しているが、こんな人気のないところで聞いたため、無視をしづらい……というよりも、このまま無視をすれば後から一体あれは何だったのかと考えさせられことが嫌で、風がやってきた方向に向かっていく、誘われるように。


 人の気配がしたので小屋の陰に身を潜めてあたりの様子を探る。

 誰か倒れている。男性のようだが、もはや闇に沈み始めている。

 声が聞こえてきた。女性の声だ。

 女性は男と向かい合って立っていて、その声には敵意が滲んでいる。

「あなた、こんなことをして許されないですよ」

 対峙している男を見据え、凛として言葉を放つ女性。しかしその言葉はあまりに弱い、ここでは。とくに凶手に対しては。

「おめでたいやつだな、そんな言葉では自分の身は守れない。……とは言っても安心しろ、お前はすぐには殺さないよ、それはもったいない。わかるだろ?」

 おそらく血がついているナイフを握っている男の声音は余裕に満ちていて、舐め切っているのだろう、あまりに緊張感がない。女性の反応を楽しんでいるようですらある。

「血族や地位はこの街では関係ない、それに気づけない馬鹿はあっけなく死んでいくのがお決まりだ、お前らみたいに。でも心配はするな、オレの役には立つんだからな」

 男はなにかを中空に放り投げて、落ちてきたそれを片手で掴む。ズシッと、重そうというか、中身が詰まっている音がした。

「こいつもたんまり持ってたんだ、お前だって持ってるんだろ? そうだ、いいことを思いついた。もっと素直になるなら、それを使って一緒に楽しむのもいい。ちょうど夜が来たしな……どうだ、優しいだろ?」

 言葉とさっきの音から推測すると、どうやらそれは硬貨が詰まった袋のようだ。おそらく、倒れていた男性から奪った物だろう。その男性と女性は何か関係があったのだろうが、あまりに情報が少なく詳細はわからない。

「あなたのような醜い人に渡すものは持っていませんし、行動を共にするなど吐き気に襲われそうでとてもできません」

 恐怖に屈せず毅然と言い放つこの女性はずいぶん肝が据わっていると思うが、賢い判断とは言えない。

 男は無言で女性のもとに歩き出す。

 女性は動くことが、後ずさりすらできない。強気な言葉は出ていたためそうは見えなかったが、実は恐怖に縛られていたようだ。

「それ以上近づくと、容赦しませんよ!」

 強く言っても、女性に手立てがないのは明白。男の歩みに迷いは生まれない。

「それ以上近づかないで! 来ない——っ⁉」

 言葉が途絶えた。

 男に両手で首を絞められた。本当に容赦がないのだろう、全く声が出てこない。

「やっぱりここで殺す。せいぜい苦しんで死ねッ!」

 怒りか憎悪か、人を殺すには十分な感情が声に宿っている。

 女性は魔の手から逃れようとしているが、全く抵抗になっていない。もうすぐ意識を失い、次には命を消されるだろう。

 完全にこの場の優勢は男に傾いている。


 ただし、隙だらけ。


 ナイフを投擲する。それは男の足元、地面に突き刺さる。

「姿を出しやがれ、ザコがッ!」

 男は女性から手を放し、条件反射のようにこっちに向かって叫ぶ、怒鳴りあげてくる。ほんのさっきまで女性に向けられていた激情が、一気に向かってくる。

 仕方なく姿を出すと、まるで獲物を見つけた飢えた肉食獣のようにこっちに駆けてくる——駆けてこようとしたのだろうが、あえなく転倒した。

「なんだ……なんだこれはッ⁉」

 気づいたようだ、男の身体に絡まる、地から芽吹き伸びた無数の蔦の存在に。

「ちょっと待て、やめろ、やめろ、やめ……っ! 許してくれ!」

 蔦の意思なのか、それとも俺の意思か、男は地中へと引きずり込まれていく。

「許すも何も、まったく恨んでも怒ってもない」

「ありがとう! よかった、それはよかった。たのむ助けてく——」

 男の姿も声も消えた、完全に地中に引きずり込まれたために。


 急に静寂がやってきて、緊迫の空気もどこかへ消えて、知らない女性と二人きりになったことで居心地の悪さがやってきた。

「……えっと、大丈夫か?」

 地面に座り込んでいる女性に声を掛けた。呼吸は荒いが意識はハッキリしているようなので大丈夫だとは思うが、それ以外になんと声を掛ければいいのかわからなかった。

 女性は肩と胸を上下させながら呼吸をしていて、どう見ても俺を睨んでいる。視線が激しく静かにぶつかりあう膠着状態が少しの間続いたが、それを破ったのは呼吸が落ち着いてきた女性だった。


「この、化物めっ!」


 吐き捨てると、勢いよく立ち上がって駆け去っていく。追ったほうがいいのかと考えたが、よく考えると追う理由がない。

 どうすべきか考えているうちに背中が遠ざかっていき、とうとう女性の姿は薄闇の向こうへと消えた。

 しばらく女性が走り去った——いや、逃げたのかもしれない——方をぼんやり眺めていたが、すぐに飽きた。


 たった一人でここに立っていると、なぜ女性を助けたのか、なぜ男を埋めたのか、その理由がどこにあったのかわからないことを知る。

 助けたといっても、あの女性は本当に助かったのだろうか? 自分勝手な救済を押し付けただけではないだろうか?

 思考を重ねていけばいくほど複雑に絡まり、心は重くなっていき、さっきのことが幻だったと思い込もうとする。

「もう、今日は帰って寝よう」

 眠りから覚めた時にはあれは夢だったのではないかと考え、冴えてくるとやはり現実だっと思い知り、それでも少し忘れていて少し引きずりながらも『いつも』に戻っていく。

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