第4話
熱を帯びた、ランナーをゴールに導く張りのあるアナウンスが聞こえる中、翔太はそれに背を向けて、会場裏から出ている帰りのバスに乗った。座席に腰掛け、バスが出るまでの間、心にぽっかりと大きな穴が空いたようになってぼんやり時間を過ごした。寂しい。後から乗ってくるランナーの首からかけられた完走メダルがあまりにかけ離れて遠く思えた。
バスは、まもなく座席を埋め尽くして会場を後にした。でも、直江津駅に向かう途中、走ったマラソンコースの一部をバスは通り、窓から見やる翔太の胸に暗い影を落とした。ただ、ただ悔しい、その想いだった。
二年に一度の大会、再来年に目を向けることができなかった。
アルバイトを終えて、南海ちゃんと別れて、翔太は一人、田舎に帰った。夏休みの残り一ヶ月あまりを過ごすためだ。
お盆で、小さな温泉街も賑わいを見せていた。盆踊り会場にもたくさん温泉客が見られた。
翔太も一日だけ会場に足を運んだ。踊りを楽しむためではなく、幼馴染みに会い、お互いの近況を話した。お互い二十歳で、堂々とお酒を注文できたものの、二十歳を過ぎたばかりで、"堂々と"までには行かなかった。緊張して声が震えた。それに、それほど飲めなかった。瓶ビールをコップに二杯で翔太は酔った。飲むより食べる方がまだよかった。
四日間の祭りは、花火が盛大に打ち上げられ終わった。
祭りが終えれば、秋がすぐそこまで近づいていた。日中は暑くも、夜になると暑さが和らぎ、涼しい風が感じられるようになる。秋がそこまで来ていた。
翔太は、毎日本を読み、原稿に小説らしきものを書き、新作映画を二本観て過ごした。映画は、大学に入ってから、友人の勧めで観るようになった。
それなりに時間を過ごす翔太だったが、胸につかえるものがあった。
南海ちゃんから手紙がないのだ。翔太は、田舎に帰ってすぐに手紙を書いた。アルバイトをして楽しかったこと、田舎で何をして過ごしているかなどを書いてポストに投函した。
投函してから十日余り、八月も終わろうとしていた。翔太は、次第に苛立ちを覚えるようになっていた。本を読んでも内容が頭に入ってこなかった。小説を書いてもすぐにペンが折れた。
重いため息を何度も吐いた。何をするにもやる気がでない、きつかった。
(どうして返事がないんだ)
待つしかなかった。
待って、待って、待って…。
一度も、南海ちゃんから返信がないまま九月中旬になり、下宿に帰る日が来てしまった。
マラソン大会からの帰りの普通列車の中。百キロの長い距離を、まだ多くのランナーが必死にゴールを目指していた。だが、過酷な大会とはかけ離れた静かで穏やかな空気がここ、普通列車の車内には流れていた。
学生服に身を包み、参考書らしきものを開いて目を落としていたり、部活からの帰りだろうか、学校名が入ったジャージを着た数人が、向かい合わせに座席に座って、何やら楽しそうに会話に花を咲かせている。他に、お年寄りの姿が数人あるばかりだった。
窓の外は雲が垂れ込み、今にも雨が振りだしそうな天候で、夜がすぐそこまで近づいていた。翔太は、窓から外を見ながら、どしゃ降りに遭わなくてよかったと思った。
六十キロの長い距離を走るうちには雨にもあった。寒さは感じなかったが雨をウエアが吸い、疲れた脚に、体にじわじわ負担が重くのしかかった。
有難い声援が聞こえても、応える元気も気力も失せた。ただ、ただ、足を前に押し出した。
高田の繁華街に入り、ミサンガを手首に巻いてもらった。
「がんばって、完走を信じています」
背中を押された。
それなのに…。
ミサンガが、気落ちする翔太の左の手首に巻かれていた。
普通列車が走り出して、二つ先の宿泊先のある谷浜駅に着いた時には、辺りがすっかり暗くなっていた。
落ち込んだ心持ちから立ち直れないで一人宿に向かっていた翔太は、途中の道で、ふと立ち止まった。そして駅の方角を振り返った。
一日のアルバイトの後、夜道を民宿のご主人の自宅に南海ちゃんを送って何度となく手をつないでこの道を歩いたっけ。
ふと、そんなことが脳裏によみがえった。すると、繋いだ手の柔らかな感触が思い出された。はにかんだ笑顔も、頬のえくぼも、前髪に隠れた瞳も、彼女のすべてが、ゴールができずに沈んだ気持ちを押し退けてよみがえった。
ジャンパースカートの似合う、笑うとえくぼが可愛い女の子、南海ちゃん。
ちょうどこの辺りで、南海ちゃんと向き合って立ったんだ。
"翔太"
向き合うと南海ちゃんは、何か言いたげにした。
"明日お別れだね…"
ようやく出た言葉。でも、まだ言いたげに翔太を見つめていたが、何も言わずに恥ずかしげにうつむいた。そのまま"行こ"と言って、再び手をつなぎ歩いた。
翔太の心につかえがあった。何が言いたかったのか、伝えたいことは彼にもあった。でも、伝えられないままになった。
翌日、南海ちゃんは帰っていった。
翔太は思った。
叶うならば、アルバイトをしていた二十歳に戻りたかった。伝えられなかった言葉を南海ちゃんに告げたかった。
それを三十年経った今、口にしたら、ひょっとしてあの時に戻れるだろうか。ジャンパースカート姿の南海ちゃんが隣に現れるだろうか…。
翔太は、今度こそ伝えたかった。
「好きだ」
誰もいない道の真ん中で声に出してつぶやいた…。
何も起こらなかった。
南海ちゃんは現れず、三十年前と変わらぬ街並みだけが、駅の方までずっと続いていた。
「ただいま」
宿に戻り、二階に上がるとまだ誰も帰ってきてはいなかった。皆、百キロに参加のランナーで、制限時間まで一時間を切っていた。午後七時がタイムアップだった。
朝五時から午後七時まで、その時間の長さと道のりに気が遠くなりそうだった。途中、過酷な上りを四つ越えなければならないことを思うと気持ちが萎えた。
ゴールしてくる百キロのランナーを見ていた時、もしまだこの先があっても走れるのではないかと思えてしまうほどしっかりした脚に見えてしまった。
どこにそれだけの力があるのか、過去に百キロを完走したランナーの記手記を読んだことがあるが、わからなかった。実際に話を聞いたこともあるが、とにかく走る、走り込む必要があると教えられ、真似をして通勤ランを入れ、往復二十キロ程度を毎日走った。休日はプールに通い、心肺機能を鍛えた。
食事は、豆腐を毎日摂るようにした。それらのお陰であろうか。脂肪が減って筋肉がついた。走りも、二十キロマラソンで一分ほどタイムが縮まった。それなりに成果が出ていた。
いつかは百キロを走ってみようか、という気持ちが芽生えるようになった。ただ、芽生えたところで足踏みしていて踏み切れないまま、五十キロの距離を大会で走って完走を重ねていた。そして今回、六十キロを走り、リタイヤの結果だった。走れたのはフルマラソンに足りない距離。六時間以上かかっている。足の痛みに悩まされた。
二年後があまりに遠かった。
喉に流し込んだビールがうまかった。走り疲れた体に染み渡った。リタイヤの悔しさが薄れていった。ほのかにだが、二年後の大会に心が動いた。
走るだけでなく、ジムに通って筋肉を鍛えようか、プールを利用して心肺機能を鍛えようか、そんなふうに考えた。
「はい、お疲れ様でした」
背中で声がして振り向くと、女将さんがビール瓶を手にして立っていた。
「宿からの一本ね」
嬉しい一言が頭に降ってきた。
「すみません、いただきます」
一本では物足りないと思っていたタイミングで差し出された冷えたビール。とくとくと音が立ってコップに注がれていく。そうして新たなビールが、ごくごくと喉に流し込まれて、あっという間にコップがからになった。
(終わったことはもう忘れよう。またこの宿に予約を入れよう。大会に戻ってこよう)
新たなビールに完走の願いを込めて一気に飲み干した。
翌日の朝、宿を出た翔太は再び、アルバイトをした民宿の前に立った。脳裏によみがえる思い出の一つ一つ。
暑い暑いと言いながら、汗だくでお昼のラーメンを作った狭く縦に細長い小屋。南海ちゃんと二人で海に出た手こぎのボート。料理を運んだ二階の客室が通りから見えた。屋根が今にも崩れ落ちそうだった。ぼろぼろだった。
(こんなになっちゃって)
いつまでも前に立っていたかったが、直江津行きの普通列車の時間が迫っていた。
後ろ髪を引かれる思いで後にした。
講義が始まる間近に下宿に戻ってからも、南海ちゃんから手紙はなかった。やがて十月を迎え、十一月を過ぎ、冬が来ても、翔太に手紙は届かなかった。
翔太は悩み、再度手紙を書いて投函した。八月に投函してから四ヶ月が過ぎていた。その間、翔太は、苛立ち待つだけだった。手紙を書こうと思わないではなかったが、しつこくして嫌われたくはなかった。
(どうして…)
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