第3話

 きつい、きつい上りをなんとか、なんとか上がりきった翔太は、大きく息を吐いた。

(ああ、きつかった。短くないじゃないか)

 後ろを振り向きたくはない苦しめられた長い坂に背を向けたまま、逃げるように再び走り始めた。坂を下り、平坦な道を走った。思うような走りにはほど遠かった。脚に痛み、痺れが生じて付きまとった。それでも走れた。走れる以上、歩く選択肢はなかった。とにかく、関門の前島記念館を越えたかった。

 前へ、前へ、ひたすら前へ。

(ミナミちゃん、力を貸してくれ)

 祈っていた。背中を押してほしかった。それに答えるように、沿道の声援が翔太にとんだ。

「がんばれ!がんばれ!」

 ミナミちゃんが声援を送ってくれているように感じた。

"翔太さん、がんばって!"

 嬉しかった。会いたかった。


 アルバイトの日々は、あっという間に過ぎた。八月の十日を過ぎ、海にクラゲが多くなって、賑やかだった浜辺に海水浴客の姿が見られなくなっていた。

「お別れだね」

 ミナミちゃんから言われ、翔太は、どきりとした。

 寂しい…そう思った。父親が車で迎えに来るのだと言う。

 一緒に働いた二人のアルバイト仲間も昨日までに帰っていた。残ったのは、翔太とミナミちゃんの二人だけだった。

「はい、これ」

 言って、翔太は一通の封書を渡された。

 スヌーピーのキャラが端に小さくあった。ミナミちゃんは、何も言わず、手渡すと窓辺を離れ、部屋を出て行った。

 それを目で追って一人になると封書を開けた。中に一枚の便箋が入っていて、これの端にもスヌーピーがいた。

 便箋の半分ほど、丁寧な文字でうまっていた。

"しょうたさんへ"

 ひらがなの名前を見て、苦笑いした。

 

"早いね、アルバイト、もう終わりだよ。とても楽しかった。しょうたさんに出会えて嬉しかった。ありがとう。

私もいつか、東京に行くね。できれば、しょうたさんに東京を案内してほしいかな。


住所、書いておきます。

お手紙ください"


 住所と名前が下に書かれていた。

"本庄南海"

 "南海"と書かれた名前。始めて知った。

 別れの時間が近づいた翌日、デートを続けた部屋の窓辺で南海ちゃんは、自分の名前が好きではないことを知った。

 父親がつけた名前で、南海ちゃんは海南のほうがよかったと話した。なんかいだよ、なんかい!センスがないの、言ってむくれた。

 そして、

「手紙、ちょうだいね」

 もうまもなくすれば、南海ちゃんはここから居なくなってしまう。仕方ないことだが寂しい。

「これ」

 住所と名前を書いたメモ紙を南海ちゃんに渡した。住所は二つ書いた。

「九月半ばまで長野の田舎にいるから。その後、東京に戻るんだ」

 言いたかった。

"好きだよ"

 でも、言えなかった。

 これが、南海ちゃんと話す最後になるとは知るよしもなかった。

「じゃあね、もう行かなくちゃ」

 南海ちゃんが翔太に近づいた。南海ちゃんに向けた顔に南海ちゃんの顔が間近に。

 不意だった。くちびるにくちびるが触れた。息がかかり、「好き」と声がした。くちびるが離れ、翔太の前から、南海ちゃんが足早に遠くなる。見つめるばかりの翔太、姿が見えなくなってからも、彼は動けなかった。

 やわらかなくちびるの感触…。

 足が震えた。

「オーイ、帰るよ」

 民宿のおじさんの声にハッとして、慌てて部屋から飛び出した。玄関を転げるように出ると、車が出た直後だった。

 車が、翔太の前から遠ざかってい行く。翔太は、車に向かって大きく手を広げて何度も振った。見えなくなるまで繰り返し何度も振った。

 南海ちゃんは、帰って行った。追いかけて行きたかった。


 三十キロの関門に近づいているはずが、走れど走れど見えてこない。足が痛く、思うような走りができない不安が、五キロの距離をはるか遠く感じさせる。余計に時間を浪費させていることに焦りを感じた。冷静な心理状態ではなかった。一キロ、二キロ…。

 距離を踏んでも一キロが遠く、重く気持ちにのしかかる。

「楽しい、走るのは楽しい」

 気を紛らせようと、声にした。繰り返し何度も呟いて走った。

「うっ!」

 いきなりだった。膝に、きつい痛みを感じた。堪らず立ち止まった。膝が痺れた。痺れが和らぐのを待って歩いてみた。痛みは感じられない。軽く走ってみた。少し痛みがあった。少しスピードを上げて走ってみた。脚を少し引きずるような走りになった。不安が募った。

(三十キロまで持つのか?)

 金谷山の関門までわずかな距離にまで来ていた。関門時間までは一時間弱あった。まだ、翔太に走る力は消えていなかった。

 不安に思っている間にも時間は過ぎていく。走りに染まりたかった。

 どこかでリタイヤするにしても今はまだ走れる。

 ちらつくリタイヤの四文字を振り切るように、気持ちは前を向いた。少しでも前へ。背中のすぐ後ろを追ってくるリタイヤから逃げるように前へ、三十キロを目指した。

「見えた」

 金谷山の頂きに続く最大の難所、上り坂が目の前に現れた。翔太は、足を踏み入れて行った。

 なだらかな最初だった。それが、すぐにきつい上り坂に変化をして牙を向けてきた。

 脚が重い。体がきつい。走れない。翔太の足が悲鳴をあげて緩んだ。歩きたくはなかったが、もう走れなかった。少しでも早く関門へたどり着きたかった。一歩を大きく、アスファルトを蹴って金谷山の頂きを目指した。

 時間との闘い、歩くことに焦りがあった。でも、走れば痛みが余計に重く、これ以上は走れなくなるかもしれない。まだ走りたかった。走る権利が残されている間は走っていたかった。ランナーの一人として残っていたかった。大会に身を染めていたかった。 が…。

 見えてこない。頂が見えない。急な上り坂がどこまでも続いていた。

(どこまで上ればいいんだ)

 くそっ!

 苛立ちを感じた。

(見えてこい、見えてこい、見えろ!)

 走った。ほとんど歩くに等しい速さだったが、気持ちは走らずにいられなかった。

(頼む、見えてくれ!)

 苦しめられた。本当に苦しめられた。もう、神頼みしかなかった。

 気持ちが切れそうになったそのときだった。

「ん?」

 人が一人、坂の下に目を向けて、仁王立ちのように立っているのが見えた。

(きっとあれだ!)

 さらに近づく。目の前に光が指した。審判員、関門に立つ審判員だった。

 関門に、苦悶の表情で近づく。ゼッケンが呼ばれた。そのことで、まだ先を走れることを実感した。飛び込んだ。二十分前、翔太は、最大の難所を突破した。

 曇り空が晴れるようだった。峠の頂きに立った。痛む足を前に向けた。レストステーションが目に入った。忘れていた空腹が襲った。ランナーに用意されたおにぎりに手を伸ばした。一口サイズで食べやすい。バナナ、梅干しにも手を伸ばした。が、ゆっくりしているわけにはいかない。前島記念館の制限時間まで二時間を切っていた。距離にして十キロあまり。痛む脚で走るには、あまりにも時間がなかった。

(脚は持ってくれるのか…?)

 不安の中、水分を補給して五分ほどで走り出す。天候は曇り。幸い、土砂降りの雨には遭っていない。このまま天気に持ってほしかった。

 坂を下った。きつい苦しめられた上りが嘘のように体が軽く下れた。痛みも少ない。

(大丈夫、次も通過できるぞ)

 そう思わせる走りで下れた。

 ところが、下り終えて平坦なコースに入ると、ガクッとスピードが落ちて走れなくなった。体が重い。鉛のようだった。鉛の体が脚に負担をかけた。再び痛みが出て、腿が痺れたまま走った。一キロが、途方もなく長く感じられた。二十分の貯金が削られていく。焦るものの、スピードが上がらない。無理を押して足を速めても、痛んだ脚ですぐにスピードが落ちた。

(くそっ!)

 喉が乾いた。あおぞら公園の給水で喉に水を流し込み、再び走り出す。関門まで三キロあまりだった。なんとか走り切れそうだ。ゼッケン番号が呼ばれるイメージが頭に浮かんだ。後は、どれほどの時間で通過できるかだった。歩いても変わらない速さで走った、走った、走った。とにかく、関門を越えたかった。越えて、後は、どこで走りを止められても構わなかった。

(通過するんだ)

 その想いだけだった。

 だが、どこまで行っても前島記念館が見えてこない。

(どこなんだ!)

 苛立った。

(間に合うのか?)

 そう思わせるほど、三キロの距離が遠かった。その間に一組のカップルが、翔太を追い抜いて行った。

「間に合わないかもしれないね」

 との言葉を残して。

 追い抜いて行ったカップルは、あっという間に見えなくなった。

 考えたくないリタイヤの想いが脳裏をかすめた。振り払い、前へ、前へ、ひたすら前へ。

(たどり着いてみなくてはわからないしゃないか)

 その想いで前を向いた。

 と、突然だった。カーブを左に曲がると、そこに前島記念館が現れ、そして、関門が目の前だった。

 ゼッケンは呼ばれなかった。テープが目の前に続くコースを遮断していた。

「時間です。ご苦労様でした」

 ねぎらう言葉をかけられた。

(終わったんだ…)

 思った瞬間、力が抜け落ちた。

 立ち尽くし、諦めきれずに前を見た。

翔太は訊いてみた。

「何分遅れですか?」

 聴いて耳を疑った。

「三分…?ほんとに?」

 なおも訊いていた。でも、返事は同じだった。三分。

 エイドで時間を削って、走りを速めていれば挽回できた時間ではなかったか?

 そう思えた。そう思うと悔しくてならなかった。もう一度、先に続くコースを見やった。

 リタイヤしたランナーを乗せた収容車の中、翔太は、気落ちした気持ちを立て直すことができないまま、ゴールの「ユートピアくびき希望舘」に運ばれた。

 ゴールテープを切るランナーを見た時、翔太は思った。

(また走ろう、戻ってこよう)と。

 三分遅れでリタイヤだなんて…。

 悔しいだけだった。


 

 


 

 






 











 

 


 



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