第2話
号砲一発、長い列が、遥か向こうのゴールに向かって走り出した。後方に位置した翔太は、数秒後に歩きだし、その後、ゆっくりと走り出した。
(始まったな)
緊張と、完走した自分を想像してワクワクした。
六十キロ。フルマラソンを走ってまだ先に十八キロの距離を走るのだ。フルマラソンを走って、はたしてまだ、走る体力が残っているのか不安があった。
"前へ!"
昨日、受け付け会場で目にした額に飾られた言葉を思い出した。
明治大学ラグビー部の総監督だった北島さんの信念の言葉で、翔太の好きな言葉だった。受け付け会場でこの言葉に出会えるとは思っていなかったが、くびき野は、監督の生まれ育った土地だと説明書きで初めて知った。
(そうなんだ)
しばらく監督の前から離れられなかった。
(明日、私を見守っていてください)
前へ!
心に刻んだ。
ランナーの長い列は、会場の回りを一周して離れ、名立の家並みに入っていく。翔太は、走り始めてまもなく、脚に違和感を感じていた。これまでも時々、緊張から脚がもつれたようになることがあって、しばらくそれに付き合い走ることになる。そのうちに体が温まって違和感が消えるのだが、その違和感とは違う痺れに感じられて不安が頭をよぎった。
走り始めたばかり。体が温まれば消えるだろうと、あまり気にしないことにした。名立の家並みは目の前だった。
ミナミちゃんと二人で話してから、アルバイトが楽しいものになった。
仕事の合間には窓辺で話した。お互いの学校のこと、ミナミちゃんの憧れる東京のことが話の中心だった。いつも、ミナミちゃんが話し始め、翔太は、徐々に口を滑らかにしていった。それが、翔太は心地よかった。
名立の街に入ると、沿道に立ち、小旗を振る住民の姿が途切れることなく続いていた。
「頑張れえ」の声援と、しきりにランナーの名前を呼びかける声がした。
小旗にランナーの名前とゼッケン番号が印字されていて、ランナーが声に反応して吸い寄せられていく。
「あった!」
感嘆の声がする。旗を間に写真を撮るランナーがいる。翔太も、足をゆるめて旗を探しながら走った。運試し、そんな気持ちだった。
右に曲がり、左に曲がり、やがて街を抜けた。翔太に呼び掛ける声も、旗を目にすることもできなかった。少し寂しい気持ちになった。そして気づけば、ミナミちゃんも…。
アルバイトから長い時間が経っていた。十六歳のミナミちゃんは、四十六歳になっていた。時間は止まってはくれない。いつまでも高校生のミナミちゃんではないのだ。結婚して家庭を築いていてもおかしくはない。そのために名立を離れたかもしれないのだ。そもそも、翔太を覚えているとは限らないのだった。
翔太の心の中だけ時間が止まっていたように感じられて苦い思いがした。
(ばかだな)
苦笑し、何をしているんだと、唇を噛んだ。
ミナミちゃんは、きっと毎日、前を向いて生活をして居る。
何をしているんだ、走れ!
後ろを振り返らず、ひたすら前を向いて走れ!
"前へ!"
北島総監督に背中を押された気持ちがした。
ゴールは、まだまだ先だった。序の口で心折れてはいられないのだ。
翔太は前を向いた。走った、走った、ひたすら走った。いつしか、トンネルのあるサイクリングロードを抜け、最初の休憩所、長浜エイドステーションに着いていた。約十キロの距離を踏んでいた。
翔太の宿泊している民宿のすぐそばで、二階の翔太の部屋から目にできた。
「柿沼さーん、頑張れえ!」
女将さんと娘さんの声援に送られ、ゴールをして帰ってきたい!と、再び走り出した。まもなく海岸線を離れ、街中へ。そして山間部に向かって走った。途中、一つ目の関門、約十六キロの船見公園のエイドを走り抜けた。脚に痺れはあったものの、あまり気にするほどの痺れで無くなっていた。少し安心した。
痺れで思い当たるのは、春から積んでいた坂道トレーニングだった。
百メートルほどの坂道をランニングの途中に入れて、十キロ、二十キロのランニングの後、五回、十回、二十回、上り下りを繰り返したのだ。大会まで二ヶ月あまり、夏に坂道トレーニングを繰り返していたときだった。下りの途中で、これまでなかった痺れを腿に感じたのだ。痺れた後、痛みに襲われた。しばらく動けなかった。
ランニングは諦め、歩いて帰った。痛みが治まらない。不安になった。その後も痛みがあって、ランニングができないまま二ヶ月を過ごしてしまった。大会は、目の前に迫っていた。
(トレーニングのせいだ)
悔いても、今になっては遅い。二十キロ近くを走り、小さいと聞いていた最初の坂道が目の前に迫っていた。
ミナミちゃんとの時間は、翔太にとって楽しいだけではない、これまでに感じたことのない感情をもたらした。
ふわふわと体が宙に浮いているようで、足が地に着かない感じで心が落ち着かないのだ。
「おはよう」
「おはよう」
あいさつ一つ、胸がドキドキしてしまい、彼女の笑顔が眩しい。一度は、裾の長いワンピースのルームウエア姿を目にして顔が赤らんだ。
普段、Tシャツの上にジャンパースカート姿で仕事に就くミナミちゃんに、いきなり突き付けられた衝撃、足がすくんでしまった。
「今日も暑くなるね。がんばろう?」
えくぼがトレードマークの笑顔で、目に前髪がかかった瞳で見つめられると何も言えなくなってしまった。うん、としか…。それも、とても喉が乾いた。
「ミナミちゃん、ゴールにたどり着かせてくれ」
緩やかな上り坂を走り始めて、翔太は呟いていた。
緩やかに上っていた坂は、まもなく、急な上りへと変化して、脚に、忘れていた痺れをもたらした。呟きは、そのときに発せられた。ゴールまでの残りの距離を考えた翔太は、わらをもつかむ祈るような思いになった。
四十キロ、脚が持ってくれるだろうか?
「楽しい、走るのは楽しい。走りを楽しめ、走りを楽しめ」
上りながら呟いた。気持ちをポジティブに保ちたいための、走りに疲れたときの、いつものおまじないだった。
呟いた、上った。横を、後続のランナーが抜いていく。引き離されていく。左に曲がり、先が目に入ったときには心が萎えそうになった。ずっと先まで上りが続いていたからだ。脚に痛みがあって、かばいながら走る翔太には、上りが永遠に続く、そう思えた。 いよいよ不安で頭が一杯になったものの、まだ半分の距離も走ってはいない。それに最初の目標は、フルマラソン近くの関門、「前島記念館」だった。そこまでの距離は、二十キロあまりだった。
脚に痺れがある状態に、あまりにゴールが遠く、心のゆとりが消え、忘れていたのだった。
翔太は、あくまで目標の記念館に目を向けた。
「楽しめ、走りを楽しめ」
するとまた、呟きが出た。きつく、歩き出しそうになる脚が、のたりのたり、鈍足ながら前に出た。やがて、平らな道が目の前に、遠くかなたまで続いていた。
上り坂が終わったのだった。
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