第2話 黒き棺のモーツァルト

 ホームルームが終わると人だかりができた。僕も含めて質問攻めにあう。勿論、彼女とは初対面で、僕に何か問われても首をかしげることしかできない。僕は彼女を知らない。


 その後の授業は淡々と流れ、少ない休み時間を縫っては噂を聞きつけた男子生徒が、クラスになだれ込んできた。

 何の刺激も無い田舎の中学校に、東京の都会から美少女がやってきたとなれば、一目拝みたい。その辺は、僕だって男だから分からなくもない。


 ただ、人に囲まれるのが苦手な僕は憔悴しょうすいしきっていた。そして彼女にトドメを刺される。もちろん、彼女に悪気があるわけではない。


「学校の中を案内してもらいたいのだけど」

 転校初日の生徒を無下にはできない。してはいけない。ただ、それが何故僕なのか理解に苦しむ。


 放課後、部活に急ぐ生徒の視線を浴びながら校内を練り歩いた。


 凛とした彼女の隣には、不釣り合いな僕。彼女は音楽室の前で足を止める。教室からオーケストラ部の音の粒が漏れ出していた。ガラガラとドアが開き、オケラ部顧問の内藤が顔を出す。


「おう、転校生。入部希望か?」

「いえ、ピアノが立派だったもので、つい」


 そう答える彼女。そうか、彼女も音楽をやっていたのか。ここでようやく接点に気づく。しかし、最近ではコンクールに出場するどころか、めっきりピアノを弾く時間も減っていた。接点といえるのだろうか分からない。


「すまんな、今は見ての通り部活で使ってるんだ。昼休みとかに使う分には構わないが……」


 どうしても、弾きたいと懇願するようにピアノを真っ直ぐ見る彼女。動くこともせずに目で訴える。内藤はついに困り果て、女っ気のないコイツなら問題ないだろと考えたのだろう。


「そうだな、どうしても弾きたいなら、音無。お前んち、ピアノあったろ」


 強い日差しの中、彼女は汗一つたらさず歩く。少しうれしそうに弾んで歩く姿が可愛らしく、校庭で汗を流す生徒も、部活そっちのけで眺めていた。

 僕はというと、多くの視線を感じての下校で嫌な汗をかいていた。


 家に帰るといつものように母がピアノに促す。

 彼女に気づき、母がと笑った。僕は誤解されないように説明をし、祖母の寝室へと案内した。


 とっくの昔に遺品整理の済んだ祖母の部屋は殺風景で、楽譜が無造作に置かれた棚と、グランドピアノが祖母に置き去りにされた様にたたずむ。


 彼女はピアノの前に座りカバーを上げる。

 モーツァルト、ピアノ・ソナタ。


 おばあちゃんの音色だ!

 聞き慣れた音に僕の胸は高鳴った。


 目の前の黒い棺から祖母が出てきたのではないかと、錯覚するぐらい似ていた。

 あの日、失われたと思った音。世界から消え去って、もう聞くことが出来ないと落胆し、ピアノを弾く事すら辛くなった……僕が追い求め挫折をした音。


 追い求めていた音が今、目の前ではじけている。泡の様にしっとりと湿り気のある軽やかな音が、部屋中を舞い弾け、殺風景な部屋を極彩色ごくさいしょくに染め上げる。


 四手のためのピアノ・ソナタ。

 彼女は出だしをさらい、ちょこんと椅子の端におしりをずらす。平面の黒い椅子の半分を差し出すように座った。


 恥ずかしながらもおしりを密着させ隣に座る僕。何か適当な椅子を用意することもできたが、早く祖母のピアノが聞きたかった。もう、聞けないと諦め落胆し蕾のように閉ざしていた心が、ふわりと開きだす瞬間だった。


 連弾。


 彼女は弾けるようにピアノを奏でる。シャボン玉のようにふわりと浮かび上がる音符は光をまとい虹色に変化する。音符は天井や壁にぶつかると花火のように弾け、ライスシャワーのように僕の耳に降り注いだ。

 どんよりと暗く落ち込む僕の旋律を、違和感なく持ち上げてくれる。僕のタイミングの悪いタメさえも、彼女は芸術に変えてしまう。

 僕は劣等感を覚えるより先に高揚感に急き立てられ、指は潤滑油を刺してもらったブリキのように踊りだす。


 いつしか、部屋には西陽が差し込み、窓ガラス越しに見える庭の芝生は朱色に染まっていた。彼女からほのかに香る、甘く優しい匂いが、祖母の好んでいた金木犀きんもくせいの香りを連想させる。

 うららかな夕涼み、きらびやかなモーツァルトの旋律。祖母の節くれた指に包まれた懐かしい記憶が鮮明に蘇る。色褪せる事の無い思い出が、時の流れに弾き出された部屋に息を吹き込む。


 黄昏の中、溶けてしまいそうで……。

 僕は彼女の綺麗な指先から生まれる音に見合う音を一音、一音を模索する。


 時はあっという間に過ぎ、外は紅。そして、夕闇へと変わっていく。夜が直ぐそこまで来ていた。


「送ってくよ」


 何気なく出た一言。僕は彼女を求め、欲している。気がつけば虜にされていた。



 街灯がまばらの田舎道を並んで歩く。大通りに出ると、流れる鉄の乗り物は力強く和音を刻みながら、排気ガスを撒き散らす。


「ここでいいわ、ありがとう」

 少しシュンとする僕に彼女は付け加える。

「また、ピアノ弾かせて貰ってもいいかしら」

「もちろん!さ、桜木さんの弾くピアノ、また聴きたいし」

「琴音って呼んで、私も英雄ひでおくんって呼ばせてもらってもいいかしら」

 僕はコクリとゆっくり頷いた。


 帰り道はトレモロ。未だ弾きこなせない難題の12番。カァーと、力強いカラスの煌びやかな鳴き声に、僕の素早く脈打つ鼓動がトレモロを刻む。今尚、頭の中では琴音の指先から生まれる虹色の音符が弾け、ライスシャワーが降り注ぐ。


 夕闇に消える世界さえ、不思議と極彩色に補完され、頼りない古びた街頭さえスポットライトの様に目の前を明るく照らす。


 完全に闇が支配する。

 彼女のいない祖母の部屋。

 物悲しく佇むピアノ。


 僕は彼女を真似る。力強い低音からの小刻みに動き回る高音。脳内で彼女が弾くであろう12番を探し出す。しかし、練習不足の指先はそれどころではない。次第に旋律は間延びし、のペーっと顔のボケた琴音の物悲しそうな佇まいが頭を占拠した。


 それでも、暗闇しか無かった僕の音楽に光が差し込む瞬間だった。


 イメージ。


 行き着く先が正しいかは分からない。でも、確かな手応え。僕には聞かせたい音があるという真実。明日への希望。

 しんしんと今日の終わりを告げる夜に、祖母の金木犀の木が揺れていた。

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