だから、僕は音楽を辞めた
ふぃふてぃ
第1話 おはよう、ポロネーズ
憂鬱な朝のホームルーム。
無精髭を生やした担任の内藤は、コホンと咳払いを一つ、少し勿体ぶる態度で「転校生を紹介します」と一言。
まだ、残暑が残る夏休み明けの教室。窓際の席に座る僕の皮膚を焦がすように、白いカーテンからは強い日差しが突き抜ける。
内藤が「親の仕事の都合で……」「先日までは東京の学校に……」など、生徒達の期待を、さらに
担任の策略にハマり「早くしてくれよ」と生徒が
その
生徒達のザワザワという雑音が四方から飛びかい、狙い澄ましたかのように担任は、更に詳細な情報をひけらかした。
しかし、僕は周りの高すぎるテンションには着いていけず、寧ろ着いていこうとは微塵も思わず、風に
僕は悩んでいた。
中学二年生。高校受験が身近に感じられきた今日この頃。塾にも行かず、夏休みが終わっても、家の黒いグランドピアノと
これでいいのだろうか?いい訳がない。
夏休みの宿題、
昨日返されたばかりのレ点の踊る小テストを思い出し、意識はもう別世界。自分の至らなさを、もう母の
母は昔から変わっている。一般的な母親は、子供が帰って来たら「宿題やったの」と声を掛ける。しかし、うちは違う。「調律しておいたわよ」から始まる。宿題や勉強をするものなら「先にピアノを弾いてからにしなさい」と叱られる。
どこに、勉強して叱る親がいるんだ。
流石に今日こそは言ってやろうと、「ピアノなんて辞めてやる!」とガツンと母に伝えようと決断していた。無謀なピアノより確実な塾。
そう、通うなら断然に塾だ。
間違いなく塾だ。
決意の朝だった。目覚めると僕は、いの一番で祖母の寝室のドアを勢いよく開けた。祖母の寝室といっても祖母がいるわけではない。祖母がいた部屋といったほうがわかりやすい。
享年65歳、3年前、若くして乳がんで亡くなった祖母。元気な時はピアノ講師として数多くの生徒を指導し、コンクールの審査員を務めるほどの実力の持ち主だった。
母も祖母にピアノを教わっていた時期があるらしく、耳がいいのは祖母譲りだと豪語する。それでも、母のピアノの腕前は中の下と、抜きんでた才能を語る以前の問題だったと祖母は語っていた。要するに母は練習嫌いだった訳だ。
それでも、耳を生かし、今では調律師として腕を振るっている。狭い界隈では、少し名の知れた存在なのだそうだ。
「おはようさん」
そんな母と目が合う。
祖母の部屋。ピアノと楽譜を散らした棚が一つ。伽藍堂とした室内には寝巻き姿の母が、まさに腕を振るい調律の真っ最中といったところ。珍しく早起きな僕の姿にキョトンとしながらも、丁寧にピアノを磨きあげていた。
朝の陽光がレースカーテンをすり抜け、黒色のグランドピアノを神秘的に照らす。その物憂気な佇まいが祖母を思わせた。
早朝に一生懸命にピアノと向き合う母の背中に挨拶を当てる。
「お、おはよう」
そして結局のところ、僕は何も出来ずに今に至る。
意識は遥か遠く、どう母に話を切り出せばいいのか。まだ騒がしい教室。目線は入道雲の先を見据える。ボーっと考えが纏まらず、何故か朝から頭を
右手が主旋律を奏で、音の出ない木製の机ピアノは高音部に差し掛かる。右手の先、ふわりと揺れるスカートが視界の端にチラリと映る。
僕はゆっくりと見上げた。
白く透き通った肌に背中まで伸びた長い黒髪。ぷっくりと淡いピンク色の唇と、マスカラで持ち上げたように整った長いまつ毛。
微笑む少女の細い目に僕の素っ頓狂な顔が映る。
「ごめんなさい。私にこの席を譲って頂けないかしら?」
渓谷のように、力強くも澄んだ声が、僕の隣の席の相澤に向けられる。
当の本人はポカンと口を開け、クラスメイトは僕を指さしザワザワと音を発する事に夢中だ。
担任は自分の思惑通りに締め括ることが出来なかった事を気にも止めず、顔をポリポリと掻きながら、相澤を転校生用に用意した末端の席に促した。
転校生は僕の隣の席に腰を落ち着ける。体の中心に鉄芯でも入っているかの様に規律正しく座る。
スッと僕の右手に添えられる手。細長く艶のあるセクシーな指先。
「おはよう、
うっとりとした目で僕の手を見つめる彼女。その姿と手の温もりに見惚れる僕。
「はっはっは、そいつは
お調子者の一声でクラス全体にどっと笑いが起きるが、トロンと溶けていた脳内はパッと切り替わり、僕は
ショパン、英雄のポロネーズ
僕は少し顔を赤らめつつも、震える右手を彼女から素早く遠ざけた。
「あら、ごめんなさい。私は桜木
無垢な瞳でのぞき込む彼女に僕は声をどもらせる。
「音無 英雄です。よ、よろしくお願いします」
これが、僕と琴音の最初の出会いだった。
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