第19話 興味。突然、好き


 いつもの通学路も、いつもより明るく見えるぐらい新鮮な気持ちで帰宅する。

 頭のなかでは、同じことばかりが巡り、大きく膨らむ。久遠とのデートの約束で、頭がいっぱいだった。


 明後日の日曜日、どこへいこうか。

 どこなら、久遠が喜ぶかな。


 いつもと違う場所で笑ってくれる久遠を想像するだけで、まちがいなく幸せな気持ちだった。


――そう、自宅のドアを開けるまでは。


 扉を開くと、知らない女性と目が合った。


 なぜか、すごく顔色が悪い。


 だれだ? よりも、だいじょうぶか? という言葉が先に浮かんでしまう。


 気持ち悪いのか? 

 床にしゃがみ込む、姉と同じぐらいの年の女性。

 口に手を当てながら、額に汗を浮かべて青ざめている。揺れる瞳で、目元を引くつかせていた。

 目の前のひとが、崩れるように座りこんだ。


「おいっ、大丈夫か」


 自宅にいる知らないひとでも、駆け寄らずにはいられなかった。

 こんなとき、どうすればいいんだろう。


 わからない。


 それでも、震えている細い体に手を添え支えた。首や肩回りは、素肌が見えている大体な服。肩にかかるぐらいの黒い髪も、揺れている。


「ごめっ、うっ」


 戻しそうになって、必死にこらえている。気持ち悪さに耐えていた。

 やっと顔をあげて、鼻がぶつかりそうなぐらいの距離で目と目があった。百合の花のような、つよい香りがした。


「うおっと」


 気丈にも、立ち上がろうとしていた。しかし、片膝立ちをしていた俺のほうへ、女性の身体が倒れ込んでくる。

 ふん張り切れない。

 支え切れず、玄関であおむけに倒れ、下敷きになってしまった。女の人が、頭をぶつけないように強めに抱き寄せた。それが、悪かったんだと思う。

 女のひとの目が、ぐるぐると回っている。

 だれがどう見ても、限界だった。


 あきらめた。俺はあきらめて、笑ってた。


 頷いて、なんども女の人の背中を叩いた。

 いいよ、って。



「……ウっ」


――オロロロロロロロ


 俺は、落ち着いていた。

 なるべく顔は見ないようにしないと。

 

 びちゃびちゃでグチョグチョ。生温かいお腹部分を、どうしようかと考えるぐらいの余裕があった。


 とりあえず、掃除と風呂。つぎに、洗濯。


「きゃああああーーーーーっ」


 目の前に広がる惨状を見た姉ちゃんが、叫んだ。オロオロする姉ちゃんさえ、どこか遠くの事に聞こえた。


 なににとは言わない。まみれてしまった俺が、玄関のお掃除をし、洗濯し、ついでに自分も洗ってくる。


 姉ちゃんの友達が来てるようなので、そそくさと風呂をあがり、自分の部屋へと逃げ出すつもりでいた。

 俺と顔、合わせ辛いだろうし。


「鉄ちゃーん、おいでーっ」


 姉には、そんなことがお見通しだったよう。自分の部屋へと逃げようとしたのに、捕まった。


 俺は良いけど、あの女のひとは大丈夫なのかな。


 黒髪を肩の位置で切り揃えた大人な女性。モデルか女優のように、きれいな人だったと思う。ただ、どこか冷たさを感じた。

 リビングのテーブルから、おおげさに手を振ってくるのは姉だった。手を振り返しながら、テーブルに近づく。


 そわそわしている後ろ姿が見えた。

 体を小さくしている姉の友達がふり返った。

 日焼けを知らないような白さの肌なのに、顔を赤くしている。目を合わせると、すぐに目線を切られた。テーブルに両肘をつけながら、手で顔を覆っていた。


「あれっ、綾音?」


「ひ、ひゃいっ」


「鉄ちゃんだよ?」


「そ、そうですねっ」


「……綾音? 会いたいって言ってなかった?」


「遥、言わないで。お願い、いまは言わないで。どんな顔していればいいのか、わからないからっ」


 両手を顔に当てながら、ぶんぶんと横に振り、早口で言われた。


 こういうとき、どうすりゃいいんだろうか。

 忘れろって言っても、忘れられないと思うので、俺が忘れたということにした。


「はじめまして。どっかで会ったか? これの弟、鉄だ。姉ちゃんの友達?」


 ふたりとも、ぽかんってした。

 姉ちゃんが口の端をアヒルのようにしながら抱きついてくる。


「鉄ちゃん、いい男ーっ。正解、100点満点あげるっ。ピザ食べるー? お酒ついであげよっか?」


「やめて。必死に格好つけた顔崩れるから。なにこの、ご馳走。どうしたんだよ」


 色とりどりの料理と、空いたカラフルな缶が並んでいた。

 チーズがたっぷり溶けた、トマトとバジルのピザ。皿に溢れている、シュリンプカクテル。カットされたバケットや、見ただけではわからない黄色くて四角いやつや、高級そうな缶詰もある。

 とりわけ目立つのは、ピンクのボトル。おしゃれなバケツに氷をいっぱい詰め込んで、見るからに高そうなお酒のボトルが冷やしてある。


「大学の飲み会があってえー」


 機嫌をよくした姉が、語尾を伸ばしながら舌足らずに言う。


「へえ、そんなのが」


「参加者30人超えて、知らないひとばっかりだったから、ドタキャンして綾音とふたりで飲み会しちゃった。てへっ」


「いや、それいいの?」


 姉は白々しく、お酒で赤くなった顔でいう。


「4500円も払って知らないひとと、安い料理食べるぐらいなら、好きなひとと美味しいもの食べたくない? ねっ、綾音」


「う、うんっ」


 前に座る人は、水の入ったグラスを傾けながらも、慌てて同意する。


 たしかに。わかる部分はある。

 クラスみんなでカラオケに行くより、仲の良い友達とカラオケにいったほう楽しいよな。俺、クラスのカラオケとか誘われなかったけど。


「綾音、どしたのー?」


 姉ちゃんが、席を立って綾音さんの傍へ行く。綾音さんのほっぺたをぐにぐにしながら、笑いかけていた。


「あーっ、鉄ちゃーん。冷蔵庫にね、ローストビーフがあるの。もって来てくれない? ついでに、氷とお水ー。あとね、てっちゃんが作るだし巻き卵が食べたいなー」


「はいはい」


 注文の多い姉に、いつも振り回されている俺としては、このぐらい朝飯前だ。

 まずローストビーフの塊をカットしながらつまみ食いして、綾音さんの水といっしょにテーブルに置いた。温めておいた卵焼き用のフライパンに、油を落とす。甘いだし巻きでないとイヤと駄々をこねる姉ちゃんのために、甘くふわふわに何度も裏返して巻き続ける。薄い卵を何度も何度も、固めては巻いていく。端を切り落として、つまみ食い。うん、いい出来だ。


「お待たせっと」


「やーん、ありがとーっ」


 ひょいっ。つまんで食べて、大げさに頬を押さえながら姉ちゃんが言う。


「おいひいーっ」


「食べる? うちの味」


 皿を、綾音さんの前に置いてみる。割りばしが一切れを半分にしてから掴み、ぱくっと口の中に入れてくれる。

 割りばしを咥えたまま、目を開いて頭をあげた。ぶわっと髪が広がるように舞い落ち、軽そうな毛先が踊っている。

 横から姉ちゃんのアイコンタクトがとんでくる。


『煽っていいよ』


 姉に逆らえない弟は、言われたとおりにするしかないんだ。


「おいしいだろ。あんたのために作ったんだ。もう、吐くんじゃねーぞ?」


「あははははーっ」


 言わせた姉が大喜びしていた。


「キャハハッ、な・ま・い・きーーーッ」


 意外にも、綾音さんにも受けた。

 どうも嫌いじゃないらしい。お酒とは別に顔を赤くさせ、にらみつけられる。


「鉄くんね。うん、覚えた。忘れない。もう楽になったから、だいじょうぶ」


「俺も忘れらんないよ」


「なまいき君、となり座りなさいよ」


 となりの姉ちゃんが、悪い笑顔をしていた。


「気に入られたねっ、鉄ちゃんも食べて食べて。それでもって、いい肴になってね?」


「やられた」


 有無も言わさず、綾音さんのとなりに座らせられる。

 途端、腕が背中に回ってきた。自分以外の体温が、体に触れる。

 やわらかく、あったかいんだ。


「うぐっ、なにをッ」


「かわいーんだ。よろしく、なまいき君。綾音でいいよ」


 年上のお姉さんは、息のかかるぐらい顔を近づけ、耳打ちしてくる。


「さっきは、ごめんね。ありがとっ」


「なんのこと?」


 最後までしらを切り続ける。

 素知らぬ顔で、マルゲリータを口にしながら答えた。


「なまいき君ーーーっ」


「ほっぺたつつくな」


「ねえ! 遥! この子欲しい」


「えー、だめ。お姉ちゃんのだもん」


「ちょーだい?」


「えっ、ダメーっ」


 ローストビーフも、おいしい。マスタードソースが合う。


「そうだ、鉄くん。きみに仕事をあげよう」


「それそれーっ」


 バケツで冷やされている、おしゃれなボトル。

 ピンク色のラベルが可愛らしいが、深い黒のボトルからは高級感がある。


「開けるのこわいから、開けてっ?」


 綾音さんがあざとい顔で言ってきた。顔が整ってる分、どんな表情でもよく似合う。はじめて見たとき、女優みたいだと思ったのは、こういうところからかもしれない。どんな顔でも、どんな角度からでも整っている。


「俺、飲んじゃダメなのにさ、開けさせられるの? いいけど」


 抱きつかれていた腕を振りほどいてから、立ち上がる。

 綾音さん、もしかして姉ちゃんよりおっぱい大きいな。


 氷で冷やされていた涼し気なボトルを持ち上げ、水気をふき取った。


「これ何? ワイン?」


「シャンパンよー。ローラン・ペリエのロゼ。ワインソムリエの店で美味しいシャンパン頂戴って、買ってきちゃった」


「なんだか、高そう。揺らさないように開ければいいんだろ」


 慎重にラベルを開ける。コルクを固定している針金を外して、コルクを握った。

 ゆらさないように開けるには、どうしたらいいだろう。


「鉄ちゃん、がんばってーっ。筋トレの成果をみせろーっ」


「ポーンッて飛ぶよ、力抜くなー」


 赤い顔をしたふたりが、応援してくれる。

 いまさら気づいた。これを開けるってことは、綾音さん、まだ飲むの? 大丈夫かよ。


 コルクを引きながら、ボトルをすこし回してゆく。

 ふっと、軽くなる瞬間があった。


――ポンッ


 小さな音だった。

 音といっしょにあふれ出た、香りがすごい。甘いベリーのかおりがする。


「鉄くん、これに注いで」


 細長いグラスが、ふたつ置かれる。ボトルをすこしだけ傾けてピンク色の液体を注ぐと、こぼれそうなほど泡が立ち上った。これはいけないと、ゆっくりグラスへと注ぐ。少量ずつ、なんどか繰り返した。


「うわ、きれーっ」


「うまい、うまい。鉄くん、いいじゃない」


 泡が収まり、ふたつのグラスにはピンク色のきれいな飲み物が注がれる。グラスの底から、小さな泡が出続けていた。


「鉄ちゃんも、乾杯しよーっ」


「ほら、鉄くん、はやくー」


「はいはい」


 ボトルをバケツに突っ込むと、すぐに綾音さんのとなりに座る。


「かんぱーい」


「乾杯っ」


 ふたりのそんな声に合わせて、水の入ったグラスをコツっとあてた。


 シャンパンを開けて30分後には、ボトルが空になる。その1時間後には、姉ちゃんが「しあわせぇ」と寝言を言っていた。


 できあがってしまった姉ちゃんは「鉄ちゃんはね、最近好きな子ができてねー、変わったの。かっこよくなったんだよー」と、なんども言っていた。綾音さんが「寂しいのね、鉄くんがひとり立ちして」と指を立てながら髪をなでる。

 ぐっすり寝てしまいそうな姉ちゃんを、お姫様抱っこで寝室まで運ぶ。寝ぼけて「鉄ちゃーん」と抱きつかれ、振り払うのが大変だった。

 リビングに戻ってくると、綾音さんが冷蔵庫から取り出したお酒の缶を開けるところだった。


「綾音さん、教えてほしいことがあるんですけど」


「やーだ。綾音ってよんで。よんでくんないと襲う。友達か彼女みたいに接してくれないと襲う」


 意外に子供っぽいところがある綾音さん。椅子のうえで足を抱き抱えながら、拗ねている。仕方がない。年上を呼び捨てにするのは、悪い気がするけど、呼んでって言われているのだから。


「綾音、教えてほしいんだ。そのさ、綾音はいままでに、だれかと付き合ったことはある?」


「あるよ、3人」


 指を3本立て、綾音はサバサバと答えてくれた。


「まず、顔の良い男。三日で飽きた。つぎに、頭のいい男。会話がおもしろくなかった。三人目は性格のいい男。気が利いて優しい。でも、それだけ。踏み入ってこないから、なにも埋めない。つまらなかった。でも、ときめきたいから恋に恋してる。これってきっと、本能だよね」


「3人って、綾音なら少ないんだろうな。どうしてオッケーしたのさ?」


「面白そうだったの、そのときだけ。付き合ったとき、なにをくれるんだろうってワクワクした。でも残念。あたしと付き合うのが目的の男たちだった。ほら、あたしってキレイでしょ? 男の子って、モテる女と付き合いたいじゃない。それだけだったの」


「ふーん」


 付き合った後のこと。

 いま、はじめて考えた。

 幸せな妄想しかしてなくて、考えたことなんてなかった。


「キャハハ、なまいき。鉄くんは、だれが好きなの?」


「となりの席の子」


「即答かい。きみ、まぶしいね」


「好きなもんは、好き。隠す意味もないじゃん。俺さ、初恋遅かったせいで、いまときめいてんだよ」


「キャハハッ、かっこいい。そこまで言える子、なかなかいないよ。もう告った?」


「二回告ってフラれた。でも、明後日デートなんだ。悩んでることがあってさ、良いデートって、どんなデート?」


 綾音はひとしきり笑って、優しそうに目を細めてから、口を開く。


「きみは、いい子だね。それがもう答えだよ」


「どういう意味?」


「まず、あたしの好きなデートが、その子の好きなデートじゃないってこと。その子のことを知ってるきみが、一生懸命考えて、その子が喜ぶように頑張って、ついでに自分のしたいことをして、最後に『また会いたいな』って思わせるのが良いデートだよ。ねえ、鉄くん、あたしが彼女ならどんなデートする?」


 綾音が頬杖をしながら、試すように聞いてくる。「えっとな」そう口にし、すこし悩んでからデートプランを話した。


「大学で待ち合わせして、綾音がふだんいるところを見て回ってさ、俺の知らない綾音を教えてもらう。それから、ショッピングして、綾音の興味あるものを教えてもらって。ご飯を軽めに食べたあと、お酒を飲めるところ行きたい。酔った綾音と腕組みながら『楽しかった』って帰るんだ」


 目の前で頭を振り回す綾音が、腹の奥から言葉を出す。


「好き」


「よしっ」


 もだえる綾音にガッツポーズをした。


「鉄くん、鉄くん」


「どうしたよ」


 もったいぶっていた綾音のふんいきが変わる。

 

 ゾッとした。

 

 流れる目線、揺れる髪、開かれるピンク色の唇。

 完璧だった。できすぎていた。

 惑わされる。

 俺の心が綾音の手に直接、握られる錯覚までした。


「年上に興味ない?」


 だれもを虜にする笑みで、ほほ笑まれた。

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