第18話 ごほうび
人差し指にキスをする仕草の意味って、知ってるか?
久遠が見せたその仕草が、ずっと頭に残っていた。気になって、調べたんだ。
『ご褒美』
その仕草には、そんな意味がある。
『ご褒美に、お願いを聞いてあげる』
久遠がそう言ってくれたようで。俺の心は、悦びでいっぱいになった。
風邪のだるさがなくなり、熱もさがった当日、学校へ行こうとした。残念ながら、姉ちゃんに止められてしまう。もう一日だけ、休んだほうがいいと言われ、しぶしぶ従った。
ようやく学校へ行けるようになると、いつもより30分はやく学校へ到着する。
まだ、だれもいないような時間だった。
楽しみで仕方がないんだ。
つらい授業よりも、大きな楽しみがあるのだから。
校門から玄関まで歩くとき、グラウンドを横切る。朝練をしているサッカー部のなかに、ショータの姿を見つけた。鳥かごとよばれるパス練習を繰り返している。何度も何度もやっている基礎練習なのに、とても楽しそうだった。
いいなあ。後ろ髪をひかれながら、校舎に入った。
教室には、誰もいない。静まり返った教室の空気が、新鮮だった。
朝日が差し込み、眩しい教室に目を細めていた。
はやく久遠が登校してこないかな。なんて思いながら。
――ポンッ
後ろから、肩を叩かれる。
「羽純くん、おはよう。久しぶりね。自分の席も忘れちゃった?」
待っていた声の、待っていた言葉だった。
きれいな黒髪をなびかせ、隣を通り過ぎる。くるっと振り返り、背中から光がさしていても、まぶしい笑顔で久遠が聞いてきた。
「おはよう。久遠の席がわかれば、俺の席も思い出せるよ」
「もう、見過ぎ。もっと黒板を見ることを、おすすめするわ。羽純くん、ちょっと」
困ったような顔と仕方がないという顔が入り混じった表情で、手招きをされた。
久遠は自分の席にスクールバックを置く。白い上品なノートを取り出し、1ページ折り曲げる。ものさしを当てると、慣れた様子でスーッと破ってみせた。その後、三毛猫のカラーリングをした猫のゆるキャラが書かれたファイルから、プリントが抜き取られて、机の上に置かれる。きれいな字が並ぶノートとプリントの束。端を飾り気のないクリップでビシッと留めてから、差し出してきた。
「はい、休んでた間のノート。プリントも穴埋めしてあるから。あと、数学の予習問題の答えも書いておいたわ。今回だけよ?」
受け取ったノートには恐ろしく整った字が書いてある。書いてある字を見て性格が出ていると思ったのは、はじめてだった。
久遠の書く文字は線が強く、バランスも良く、丁寧な字。女子にありがちな丸っこい文字とは、まったく逆だった。
「めっちゃ字きれい。ありがとう。ぱっと見、数学わかんないや。でも、自分で解いてみる」
「わからなかったら、また聞いて。いくらでも教えるわよ」
「1度、自分で考えてみるよ」
「ふふっ、偉いわね。がんばって」
朝陽を浴びながら、ほがらかな笑みを浮かべていた。その横顔にさした影さえも、明るいと感じる。
「ところで」
上目遣いの久遠が、白いシャープペンシルを手の上で回した。
遊ばれていたペンが止まると、ペン先が俺に向けられている。
「わたしには「はい」って頷く準備があるのだけれど、あなたには覚悟があって?」
――うっ
もったいぶった言いかたは、俺をしり込みさせた。
実際のところ。俺は、まだ悩んでる。
それを覚悟が足りないと受け取られるのは、ちいさなプライドが許さない気がした。勢いのまま、口が走りそうになった。
そんなとき、教室の空気が揺れる。クラスメイトが登校してきた。
俺と久遠の間で張っていた、緊張の糸。ぷつりと切れた。
「残念。おあずけね」
ささやき声で、俺にだけ聞こえるような言いかただった。
「またね、羽純くん」
手を振られて、振り返す。
もやもやを抱えたまま、自分の席についた。
ぱっと見で解けなかった数学の問題。考え方に気づけば、すぐに解けた。
一見むずかしく見える問題も、ひとつずつわかりやすく形を崩していけば、じきに答えが出る。
そう、うまくできている。はずだった。
ひとつ問題を解くと、すぐに別の問題が浮かぶ。
これは、とてもむずかしい問題だ。
なにせ三日三晩、悩んでも答えが出ない。
『久遠に、どんなご褒美をお願いしたら、俺は喜べるのか?』
選択肢が多く、答えのはっきりしない問題ばかりを考えてしまっていた。
魔の時間、昼休みが終わってからの授業。
外は暖かく、ご飯を食べたばかりでねむくなる。いつも脱落者で溢れるこの時間に、クラスメイトたちは起きていて、まっすぐに教室の前を見つめていた。俺も、そのひとりだった。
ホームルームの時間。なにをしているのかというと、席替えだ。
気になるあの子にお近づきになれる運命のチャンス。なんて担任が言うものだから、俺の背筋が伸びている。
俺は、いまの席が気に入っている。窓際で風通りがいいし、右斜め前方に久遠が見えるので、授業中でもうれしい気分になれるんだ。
このままでも、いいんだけどな。
残念ながら、くじ引きでの席替えが実施されていた。
出席番号順に教卓の上にあるクジを一枚取って、自分の席にもどり、となりのクラスメイトと「何番だった?」って黄色い声で言い合い、番号が近いと「やった」と言い合う。
そんな様子がまぶしすぎて、外のまぶしさに目を向けた。
太陽を直視するとまぶしくて目が危ないっていうけど、クラスメイトを見ていると心が危ない。
流れに身を任せる。前ひとに、ついていく。
グループができていくクラスの流れに乗り損ねた俺だ。だれが近くにいても変わらないんだ。
となりが誰かなんて、気にしない。
席が前のほうだと集中して授業を聞けるし、後ろだとリラックスして授業を受けられる。
そのぐらいの違いでしかない。
大事なのは、たったひとつ。
久遠との位置関係のみ。
もしも、久遠が俺の後ろに来ようものなら、なにを言われるか怖くて、たまったもんじゃない。
教卓に近づくと、ひょいっと一枚つまんで、中身を見ずに自分の席へ。
開いた紙の番号を見る。
黒板に白いチョークで書かれた座席表と、ルーズリーフを切り取り、3回折った紙を照らし合わせる。ジグソーパズルのピースのよう。机が順番に、あるべき所へとハマっていく。俺の振り分け先は、ひとつ右の席だった。
担任の号令によって、席替えのための大移動がはじまる。
椅子を机の上に上げて、机を持って、ガタガタガタ。俺だけ、滑るように横へ。
机の中身だけ移動すればいいのに。と思いながら、慣れ親しみつつある机に愛着を持っていた。
「うわっ……ああーっ」
悲鳴めいた男の叫び声。
となりで、バタバタと物が散らかる音がした。机の中身がぶちまけられている。教科書にノート、筆箱なんかも床へ転がり落ちていた。
黒い棒状の筆箱が、座っている机の右前脚にぶつかった。席を立ちあがると、筆箱と教科書二冊にキャンパスノートを一冊拾い上げる。まとめて、落とし主の机の中へと入れた。
「あっ、ありがとう」
自分の席に座りながら、手をあげて応えた。
クラスメイトの、どこか調子が狂った言いかたから「案外いいやつじゃん」という感想がもれてきたみたいだ。
もしかして俺、怖いやつだと思われてる?
なんだか、にぎやかだった。
教室内の各所で、喜びの声があがり、仲良し同士が手を取り合っている。
周りを見回していて気が付いた。
久遠がいない。
教室に見当たらない。
目の端で捉えただけでわかるぐらい、印象的な後ろ姿。頭が小さくて、すらっとしたシルエットがない。
開けてある窓からの風で、カーテンが揺れる。外からの日差しが陰った。
風に運ばれ、上品で華のある甘い香りがした。
ああ、わかった。
わかってしまった。
「あら、ご機嫌ね。いまにも『つまんない』って、ふて寝しそうな顔してたのに」
左手で頬杖をつきながら、こちらを眺めている隣人から、ようやく声がかかる。
口元は、あひるのようだった。
「いたなら声かけてくれよ。気付かなかった」
「声を掛けようとしたのよ? あなたが優しい手助けにはいるものだから、ついね。よろしくね、お隣さん」
「そういうこと。よろしく、お隣さん」
となりに座るのは、久遠。
顔を見合わせて、同時に笑い合った。
「いい偶然ね」
「ほんとな。でも、なんか緊張する」
「多少の緊張は必要よ。そうね。授業中に居眠りしようものなら、たたき起こしてあげる」
「これ以上プレッシャーかけんの、やめてくれます?」
「ふふっ。どうしようかしら」
担任が声を出すまで、ゆるい談笑は続く。
はじめてのホームルームは、学級委員長や各種委員会を決めるものだった。立候補が無い場合、くじになり、手元の数字をみてハラハラするハメになる。
学級委員長が選ばれようとしていたとき、久遠のほうに目を向けた。このしっかり者なら、そつなくこなしそう。
久遠は目を真っ直ぐ俺に向けて、口元だけで笑った。目は、まったく笑っていない。
『興味ないの』
はっきりと聞こえてくる。
こっわ。
身を震えさせていると、楽しそうに笑ってくる。
気づくと、学級委員長が決まっていた。たしか、野球部のやつだっけな。清潔な身なりをした、いかにも育ちのよさそうな男が、委員長としてこの場を仕切ってくれていた。委員長の進行でホームルームは進む。用意されていたことが終わると、半分自習・半分雑談。
ゆるい空気が戻ってきた。
俺は、休んでいた間の授業を振り返るため、久遠のノートを頭に詰め込んでいるところだった。
このノート、すごいんだ。
書き込みの量も内容もすごい。
教科書のどこのページのことか書いてあり、教科書と照らし合わせてノートを読んでいく。ひっかかりを感じたとき、必ず注釈が書いてある。黒板を写しただけのきれいなノートなんかじゃない。授業内容を理解するためのノートって、こういうものなんだと思う。真似しよう。
集中力が切れた。ふと、顔をあげた。
一番後ろの席なので、遠慮なく背伸びをし、体を動かす。
なんとなく、視線を感じた気がした。
左を向く。久遠がこっちを見ていた?
そっけなく、顔を背けられる。自然に落ちてくる前髪を、右手の小指で耳にかけていた。
小指がピンと立ったまま、不自然に机の上へと置かれている。
右手がノートをずらすように動かされる。シャープペンシルで、太めに書かれた文字が現れた。
『決まった?』
右手の小指を立てながら、さも意味ありげに上目使いで見つめられた。
小指は約束って意味なんだと、3秒かけて気が付いた。
『お願い、なにか決まった?』
聞かれてしまうと、背筋が伸びる。
つぎに、背中を丸める。
頭を抱え込んで、耳まで熱くなるのを感じた。
いや、だって!
久遠は「はい」って返事してくれるのが約束。
それがわかってる。なら、俺がなにをお願いしたいかって……。
『付き合って下さい』
その一言が、一番に出てくるに決まってるじゃないか。
すぐに出てきたこのお願いは、絶対にしちゃだめだと気づいていた。だって、罰ゲームで付き合うのと変わらないんだ。
なんというか……告白という神聖な儀式に、不純物が入るような気がする。それに、絶対、久遠の逆鱗に触れる。烈火のごとく怒りだす久遠は、すぐに想像できた。
ない頭をひねってひねって、絞り出した二つの選択肢を決めかねていた。
『デートしたい』
『写真を撮らせてほしい』
俺の願いは、このふたつ。
久遠のことを、もっと知りたいから、デートしたい。
好きな子の写真を見て、にやにやしたいから、写真が欲しい。
この二択、自分では選べない。
悩んで悩んで……悩んだ末に、ノートに一文だけ書いて、久遠に見せる。
『デートしたい or 写真を撮りたい』
赤くなった顔を隠せる場所なんて、なかった。
机に突っ伏した。目だけ久遠に向けて、左ひじの下のノートで返事をする。
久遠がノートを見ている間、教室のなにもない空間をじっと見ていた。
トン、トンッ。机を軽快に叩く音が、となりから聞こえた。
久遠は口元をひくつかせながら、見やすいように広げてくれたノートの一角を指さす。
『or → and yes.』
上体を跳ね起こした。
『それだけ? 両方いいわよ』
そんなメッセージが目から伝えられた。
両方? これ、両方?
口がぱかーんと開いていく。いけない、授業中なのに。
気が緩んだ。
机から半分飛び出していたノートから、肘をあげてしまった。当然、ノートは滑り、机の上から落ちていく。ノートの上にあった筆箱も、落下していった。
教室に響きわたるであろう騒音を覚悟し、目をつむった。
待っても、筆箱やノートが落ちる音はしなかった。
机の上に、俺のノートと筆箱がやさしく置かれる。光を浴び、透明感の増した手が、落下する前に受け止めてくれていた。
「しーっ」
静かに。
久遠は、人差し指を一本立てると、口元に持ってきながらそう言った。
最後に、人差し指に唇をあてて見せる。片目をつむりながら。
『みんなにナイショの、秘密のご褒美』
仕草を見た俺は、また机に突っ伏して倒れた。
起き上がれそうにない。
かわい過ぎるだろ。
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