第17話 恋と良薬

 俺のご飯を作ってくれると、ここあが言った。

 風邪をひいた俺のために、姉ちゃんがここあに夕飯の支度をお願いしてくれていた。


「紅音さん、わたしも手伝うわ」


 久遠は立ち上がる。長い髪をひとつに結んでいて、白いうなじが見えた。頭の真ん中で結ばれた黒髪を、手首のゴムでしばり、ふわりと垂らす。猫の尻尾のように揺れる毛先を、目で追っていた。


「やった。なぎさちゃんとご飯つくれるーっ。てっちゃんの贅沢ものーっ」


「いやだ、その光景を眺めたい」


 久遠のポニーテール姿を、後ろからずっと眺めていたい。


「病人は黙って寝てる。せっかく治して学校行っても、あなたがいないんだもの。待ってるって言ってたのに」


 唇をツンっと尖らせる久遠に、なにも言えなくなった。


 かわいすぎるだろ。


 ふたりに置いていかれると、キッチンからの物音に全力で聞き耳を立てる。


 久遠が、俺の家にいる。

 ここあやショータは勝手に俺の部屋に遊びに来るぐらい通っている。でも、久遠がいるってのは……。


「なんだか、恥ずかしい」


 ベッドで寝ているだけってのは、もどかしい。

 風邪をひいてしまった、俺のばか。せっかく、久遠と仲良くなるチャンスなのに。


 頭が重いからかな。久遠のことばっか、考えてしまう。

 熱が上がった気がするのは、気のせいだろうか。


「てっちゃーん、おまたーっ」


「どう、食べれそう?」


 ふたりが来るのを、いまかいまかと待っていた。

 気持ちの面でも、お腹の面でも。


「食べる、ぜったい」


 なんだか、いい香りがした。

 体を起こして、ベッドの上に座る。


「てっちゃん、食べさせてあげよっかー?」


「いやっ、さすがに恥ずい」


「あら、羽純くんに、あーんってできると思ったのに、残念だわ」


「ッぐう……」


 一度断った手前、お願いしますとは言いにくい。


 お盆にのせて運んできてくれた器を受け取った。

 椀の中を覗く。

 白だしの優しい香りがする、おかゆだった。

 おかゆの上は、豪華だ。しらすと、刻んだ梅干し。しょうがの千切り、きざみネギと海苔が散らしてある。

 スプーンでおかゆをつつくと、ふわふわの卵がほぐれるように形を崩す。

 一口ふくむと、優しい味がした。

 体の内側からあたたまって、染み渡る。

 これが食べたかったというより、体がこれを求めてる。


「これ作ったの、久遠だろ」


「あら、よくわかったわね」


「すげーうまい。うっかり惚れそうになる」


「それこそ、いまさらじゃないの」


 久遠との会話の調子も、すっかり慣れた。

 お互いに、遠慮なんてしなくなっていた。


「なぎさちゃんね、すごいんだ。体に負担をかけないようにとか、てっちゃんのこと、すごい考えてくれてたんだよーっ。絶対ね、いいお嫁さんになるよ」


「ふふっ、ありがとう。お嫁さんになってもいいって思える素敵な男性に、はやく成長してくれるといいんだけれど」


 後半のセリフは、じっと俺を見ながら言われた。


「久遠さん、熱あがっちゃうので、やめてください」


「あら、自意識過剰ね」


 久遠は、ころころと笑って見せる。

 ここあは、目を輝かせながら俺と久遠の様子を見ていた。


「なんか、ふたり仲良しさんだねーっ。うちも、うれしい。今日ね、てっちゃんがねー、なぎさちゃんを好きになった理由、わかった気がする」


「っぶ、ここあ?」


 思わず、吹き出しかけた。

 おかゆを口に含んでなくてよかった。


「なぎさちゃんってね、キレイだなって、ぽーっとしちゃうほど、かわいいの。しかも、立ち振る舞いがね、ほんっとーにキレイなの。住んでる世界が違う、お姫様みたいなイメージ。なのにね、優しいの」


 ここあが久遠を、焦がれるように熱のこもった目で見ていた。


「なぎさちゃんのお話ね、むずかしくて、うちにはわからないこともあるんだ。でもね、聞いたら、うちにもわかるように教えてくれるの。すっごく賢いのにね、その頭でだれかのことを考えられる優しさもあるの」


 言いたいことが、まだまだあるようで、落ち着くために大きな深呼吸をしている。ここあは、もう一度口を開いた。


「雲の上のひとなのにね、こっちまで降りて来てくれるんだよ。それがね、すごいんだっ」


 子供は誰よりも純粋に、善いと悪いを判別できる。

 ここあは子供だった。

 どこか猫にも似て、いいひとを選び、きらいなひとには見向きもしない。


「紅音さんが、まぶしいわ」


「ここあ。ここあってよんで。うちも、なぎさちゃんと仲良くなりたいっ」


 いひーっ。白い歯を見せて、アホかわいく笑う。


「ここあさん……うん。わたしで、よければ」


 久遠がたじたじに、はにかんでいる。


「なぎさちゃん、いいこと教えたげるねーっ」


 俺の部屋で二人が仲良くしてる。なんだかうれしかった。


「てっちゃんはね、ここにえっちなの隠してるんだよーっ」


「まてや、ここあ」


 口元を押さえてないと、おかゆが飛び出すところだった。そのせいか、ムセて、咳が止まらなくなった。咳よりも、ここあを止めないといけないのに。

 ここあが、一切の遠慮なく、タンスの一番下を開け放った。


 そこは、だめだ。


 女子禁制の場所なのに、なんで……。


「中学三年生のときから、変わってないんだーっ」


 なんで知ってんだよ!?


「へえっ、こんなところに。興味あるわね」


「前はベッドの下だったよーっ」


 だめだ。俺、もう学校いけない。


 洋服をかきわけると、禁書の数々が出てくる。

 持ってはいけないはずの本の表紙が順番に並べられようとしていた。

 ニュースで、下着泥棒の戦利品が並べられる場面を見たことがあると思う。俺はいま、下着泥棒の気持ちがわかる。


 いきなり、部屋の扉が開いた。背の高い男のシルエットがみえた。


「オイ、テツ生きてっか?」


「いま死にそう」


「あん?」


 ショータ、来てくれたのか。


 むかしながらの、使い古して傷の目立つおかもちを持ちながら、ショータが部屋に入ってくる。銀色のおかもちには、かすれた赤い文字で『風々軒』と店の名前が書かれていた。

 ショータがここあと目を合わせた。となりに久遠がいることに気づいた。俺の、知られてはいけない宝物たちが見えているらしく、怖い顔をピクつかせた。


 その後は、素早かった。

 ショータは、タンスの下段に蹴りをいれる。バシンッと棚がしまった。洋服のうえに並べられていた禁書が、見えなくなった。


「ワリィな。男には、女にだけ見せられないモンって、あんだよ。泣き顔とエロ本」


「台無しだ」


「なんだよ、元気じゃねーか。テツのエロ本なんて、どうせ黒髪ロングでおっぱいのデカイ女しかいねーじゃねえか。守るだけ損だろ」


「はい、死んだ。俺、いま死んだ。マジ死んだ」


 手近にあった枕を、思い切りぶん投げる。ショータは、利き脚で音もたてずに枕を受け止めていた。


 ここあと久遠が笑いだす。

 男同士のきわどい掛け合いに、久遠はこらえきれなかったようで、体を震わせている。俺と目は合わせてくれなかった。


「せめて子供残して死ねよ、情けねえ」


 呆れるようにショータが言った。

 ぼろぼろになったメンタルと、風邪をひいた体で、やけに目の前がきれいにみえた。泣いてなんて無い。泣き顔なんてみせない。

 デカいショータが屈みながら、俺の額に手を当てる。


「ッチ、たけえな。寝てろ。……いいもん食ってるじゃねーか。よかったな」


 こつんと額を叩かれ、枕を戻される。

 食べているものを見て、最悪の事態になっていないことを察したショータは、ほっとしていた。


「ここあ、あと、えー……オマエ、ラーメン食うか?」


「久遠だ、く・お・ん。オマエってよぶな」


 名前を憶えないショータに、俺は強く言った。


「話すの初めてか。風見 翔太。サッカー部、ミッドフィルダー。ラーメン食うか?」


 ショータが自分のことを話す。ハスキーな低い声で、ぽつぽつと自分のことを言う。ちゃんと伝わってんのかな。


「風見くん、ありがとう。いただいても、いいの?」


「ああ。テツが、ここあの激マズ飯食って死んでねえのは、あんたのおかげだろ。遥さんにも、飯置いておくぞ」


「やっぱり、生きてるか?って、そういう意味か」


 ショータが俺を見かけるなり、言ってきた言葉だ。


「テメエが風邪なんかでくたばる心配すると思うかよ。だらしねえ。さっさと治りやがれ」


「えーっ、ふたりともひっどいー。でも、わーい。ラーメンたべるーっ」


 ショータに連れられて、ここあと久遠がリビングへ降りる。

 風邪をひいても、なんだかにぎやかで、ちっとも寂しくなかった。

 大きな声を出せば通じるぐらいの距離にいるふたりに、携帯でメッセージのやりとりをしている。ショータもここあも「寝ろ」としか返事をくれない。

 手から滑り落ちて、顔に体当たりしてくるスマホをよけてから、目を瞑ったところだった。


 部屋の扉が、控えめに開いた音がした。

 顔を横に向けて、視線を送った。


「起きてるのね、よかった」


「久遠?」


 もぞもぞと体を動かし、頭を上げる。

 小皿とスプーンを持った久遠が、近寄ってくる。


「風見くんのラーメン、おいしいわね。出前のラーメンを頂くのはじめてだったわ」


「マジか。ラーメン食わないの?」


「家族とは行くわよ。ひとりでは、なかなか行かないかも」


「そっか。じゃあ、俺と行こう」


「ふふっ。そうね、楽しみにしてる」


 スプーンが、皿を叩く音がした


「羽純くん、食べる? りんご」


 口元に伸びてくるスプーンと白い指先。

 ためらうことなく、スプーンを咥えた。


 冷たい。すり下ろしたリンゴが、すこし凍ってる。

 冷たさが、熱を感じる体に心地よかった。喉に通っても、痛くないんだ。


「おいしい。久遠のくれるものってさ、いつも、俺が気づかずに、欲しがってるものなんだ」


「買いかぶりすぎよ。わたしはね、自分の体調が悪いとき、どうしてくれたら嬉しいかなって考えながら、行動してるだけだもの。羽純くんがそれで喜ぶってことは――」


 久遠はためらい、間をとった。

 自信たっぷりな表情で、続く言葉を口にする。


「似てるのね、わたしたち」


 見透かすような青い瞳に射抜かれて、いつも俺の心は裸にされている。

 敵わないどころか、きっと、ぜんぶ気づかれてるんだろうな。

 手のひらの上で転がされているのに、それが心地良い感覚がする。


「はい、あーんっ」


「あーん」


 冷たさ。すこしの酸っぱさ。それと、やさしい甘さを味わう。

 そういえば、久遠に食べさせてもらってる。

 それに気づいてしまったら、なんだか恥ずかしくなる。なんとなく久遠から、目を逸らした。でも、久遠は俺から目を逸らしてくれない。

 スプーンが口元に向かって伸びてくる。差し出される手を拒めない。また、甘く冷たい果実を口にした。


「残念。終わっちゃったわ」


「勘弁してくれ」


 顔を押さえながら、天井を見上げて横になる。

 熱を帯びて、ぽっぽっとする顔を、少しでも見られないようにしたかった。


「もうひとつ、残念なことがあるの。わたしがいたら、羽純くんの気が休まらないみたい。そろそろ、お暇するわね」


「んっ、そうか。ありがとう、久遠。だいぶ楽になった気がする」


「いいえ、ごめんなさい。雨に濡れたせいか、風邪をうつしたせいか、どちらにせよ、わたしのせいよ」


「気にすんな。どっちも、俺がやりたくてやった。勲章だと思えば、こんなのへっちゃらだ」


「バカっ。余計な気なんて使わず、ゆっくり寝てなさい」


 面白くなさそうに、久遠は顔を横に向ける。桜色の唇が、三角に歪んでいた。


「そうだ。元気になったら、なにかしたいことある?」


「体を動かしたいな、外に出て遊びたい」


「羽純くんらしいわ。さっきね、気になったことがあるの。もうひとつ質問」


 わざとらしく久遠が言うので、俺は頷いた。

 なんだろう?


「わたし、胸は大きくないけど、いいの?」


「っぶ」


 胸を見てしまった。制服の上からでも、ふくらみがわかる。

 小さくはないよな……うん。


「あら、どこを見てるのかしら。羽純くんが思ってるより、視線ってバレるのよ?」


「ちがっ。違わないけど、ちがう」


 俺は、ベッドの上でわたわたと手を振った。


「ふふっ。冗談よ」


 からかうように笑ってから、久遠は背筋を伸ばした。


「最後の質問。元気になったら、わたしと、したいことはある?」


「それはっ」


 慌てて口を開こうとした。

 そんなの、いっぱいあるに決まってる。

 

 冷たい人差し指が、いきなり俺の唇に触れた。


「しーっ」


 いたずらにウィンクされて、口を閉じられる。そんな仕草と表情が可愛くて、言おうとしていた言葉は心の奥底に引っ込んでいく。物理的な熱ではないあたたかさが、胸の内に溢れだした。


「わたしは『yes』という答えを用意して待ってる。あなたはわたしに、なにを望むのかしら」


 いたずらな天使は、俺の唇を触った人差し指に、口付けをした。

 もう一度、あどけなく笑って、片方の目を瞑って見せる。

 あふれた自信が、口元をつりあげていた。挑発するように、三日月が笑っていた。


「おやすみ、羽純くん。ちゃんと、考えておいてね」


 手を振られてから、静かに部屋のドアがしまる。扉が閉まり切る直前まで、青い瞳は俺を覗いていた。

 ひとりになった部屋で、声にならない声を出しながら、ベッドの上をごろんごろんと転がった。


 久遠、ひとつだけ教えてくれよ。


 こんなにも熱にうなされてるのは、なんのせいなんだろうか?

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