第三十二話『緑の夏』

……それから二日後の土曜日。


花火大会の当日……その日のうしざわの食堂はこれまで働いてきた中で一番の混み具合であった。


俺達と長内さんだけでは無く、掃除の仕事しかしていなかった飯田さんと瀬名さんと武蔵さんの手を借りても、全く手が回らない程にだ。


それもその筈、うしざわの食堂は宿泊をせずに食事をするだけでも利用が出来るからだ。


「千夜、小麦粉取って」


「はい……」


「仁藤くん、卵を頂戴」


「了解です」


調理役は俺と長内さんだけであったが、そこに飯田さんも投入された。


カウンターにて客からの注文を控えたきたウエイター役から、様々なメニューの注文の声が飛び交う中……


厨房内での人口密度が多く、皆忙しそうに働いていて窮屈に感じたが……彼女は元々料理が上手いので、一人加わっただけでも生産効率がぐんと上がった。


「凪奈子ちゃん、上手……」


「やはりこちらで働けばよかったのでは?」


「いやー料理はあっちでも散々作ってるしさ、こっちではこっちでしか出来ない仕事をしたかったのよ」


「海丼並一つに、三種丼二つお願いしますのぜ!」


「あいよ!」


喧騒を突きぬけてカウンターの方から聞こえてくる元気な声……一方でウエイター陣には瀬名さんが起用されていた。


瀬名さんは同じく起用されていた武蔵さんや数人と共に客席を避けながら食堂内を歩き巡って、注文を承ったり料理を運んだりと、客席と調理場を行ったり来たりしていた。


……俺達調理陣も、そしてウエイター陣も、明日も開催される夏祭りに期待感というエネルギーを抱いて、無我夢中になって体を動かし続けたのであった。


「ふむ……旅館のたこ焼きも悪くは無いな」


そして一方の真緒さんは、厨房内から一番近い席に座り、俺達の様子を見ながらたこ焼きをはふはふと味わっていた。


「あいつ暇そうでいいわね〜」


「仕方が無いですよ、真緒さんは一応お客様ですから」


「真緒ちゃん、私達の仕事が終わるの……待ってるのかな……」


「だったら少しでも手伝ってくれれば、早く終わるんだけど」


「俺達に見せつけるように、凄い美味しそうに食べてますね……」


「腹立つわね〜」


「まーおちゃん! 何か欲しい物はあるかい?」


俺達と目が合う度にこちらに二本指を振ってくる真緒さん……そんな彼女に、武蔵さんは進んで接客をしていた。


「そうだな……ではたこ焼きを頼む、とっとと持ってこい」


「かしこまり〜」


「武蔵さん……」


武蔵さんは好きで彼女に接客をしているのだろうが、それを真緒さんが利用して組の兄貴が奴隷のように扱われている様を見るのは、何だか複雑な気分であった。


「あいつめっちゃたこ焼き食べるわね」


「お祭りに行く頃には、お腹いっぱいになっちゃうわ……」


そしてその夜……。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「わぁ〜、凄い人だねぇ」


「手を繋ぎながらでも進まないと、すぐに迷子になりそうですね」


日が沈んで間もなく、夜空が現れた直後に、まだ空の下から朱色の光が漏れている十九時。


……現在俺と武蔵さんは寝室にて、外の屋台が立ち並ぶ人集りを眺めながら、女子達が祭り支度を済ませているのを待機していた。


祭り支度とは……水着と同じく、この夏でしか身につける事が無さそうな浴衣の事である。


「お祭りなのぜお祭りなのぜ!」


部屋に戻ってきた一人目の女子は、早速桃色の浴衣に身を包んでいた瀬名さん……昨日と同じ台詞を呟きながら寝室に戻ってきた。


「やまちゃん、むーちゃん! お待たせなのぜ!」


「おお……おお! 皆よく似合ってるよ!」


「皆さん……浴衣も持参されてきていたのですね」


「違うわ、借りてきたのよ。 ここの旅館、浴衣のレンタルもやってるんですって」


「ふむ、本当なら実家から浴衣を持ってきても良かったのだがな」


「一年に一回着るか着ないかなのに大袈裟……って、何であんたも入ってきてんのよ、ここ私達専用の部屋なんだけど」


「別に構わんだろう、関係者以外立ち入り禁止とも書かれていなかったしな」


皆自分の髪色に合わせた浴衣を着ており、このメンバーに今はまだ支度中であろう長内さんも加えれば、中々にカラフルな面子となるだろう。


「ちーちーはまだ来てないのぜ?」


「結構着るの難しそうにしてたから仕方ないわよ……っと、噂をすれば来たわよ」


「皆、お待たせ……」


……暫くして、緑色の生地に青色と紫色の紫陽花柄が入った浴衣を身にまとった長内さんが部屋に戻ってきた。


「おお……」


水着の時とはまた違った、肌が隠れているからこそ美しいというか、彼女の綺麗かつどこか艶麗さを感じる長内さんの姿に、俺達は一瞬で心を掴まれた。


更に髪を横で縛っている事で露出している彼女のうなじが、長内さんの艶をより一層に引き出している。


「ふむ、サイドテールにしたのか千夜」


「よく似合ってるのぜ!」


「ありがとう……ブルちゃんが、結んでくれたの……皆も、いつもとは違う髪型で素敵よ……」


「まぁ今日だけは特別って事でいきたいしね……そういえばあんた達男の方は浴衣とか着ないの?」


「いや〜僕達が地味めでいる事によって、凪奈子ちゃん達の方を目立たせたいというか……」


「要するに着るのも面倒臭いし、暑苦しいという事です」


「そういう事!」


「え〜、何か勿体無いのぜー」


「私達は別に構わんが、あの時着ておけば良かったと後悔しても知らんぞ」


「今回の主役は女の子達に譲るよ! ねー大和〜」


「はい」


「……あら、皆よく似合ってるわねえ」


……するとそこへ、バンダナに黒いエプロン姿のブルヘッドさんが、俺達の様子を見に部屋へとやってきた。


「ブルちゃんなのぜ!」


「ブルちゃん……その格好は……?」


「私ねぇ、このお祭りで屋台を出す事にしたのぉ、焼きそば屋さんだから皆見かけたらでいいから買って行ってねえ」


「ブルヘッドさん……こんな時でも働くのですね」


「随分と仕事熱心だな」


「こんな時だからこそ働くのよ、絶好の稼ぎ日和よ今日はぁ」


「ブルちゃん……」


「いいのよちーちー! 私の分まで楽しんできて! ほら皆早く行かないと花火のいい席取れないわよ!」


「わぁ押さないでなのぜ!」


長内さんとは違い、休日でも常に働き続けているイメージのあるブルヘッドさん……


長内さんであれば、私も手伝うと言いそうではあるが……それを言う前に、ブルヘッドさんは俺達に心配させる隙を与えずに、部屋の外に追い出してしまった。


「ブルちゃん……」


「ブルヘッドちゃんなら大丈夫なのぜ!」


「ええ、見かけ通りに結構タフそうだし」


「行きの時に私達を置いて、重い荷物を背負いながらぐんぐんと坂を登って行ったぐらいだからな……それに楽しめと言っていたのだから、その通りにしなければ失礼というものだ」


「うん……」


「じゃあ早速行こっか」


そうして旅館からも出て、先程眺めていた屋台の並ぶ大通りを目指していく……


「お祭り行ったら何するのぜ!?」


「たこ焼き食べたい……」


「それなら昨日、賄いで沢山食べたじゃない」


「ふっ、食べる事だけが祭りを楽しむ方法では無い筈だぞ」


大通りに近付くに連れて、徐々に増えていく人達……そろそろ一定の間隔を開けて、皆との歩幅を合わせれなくなってきた。


……その心配を他所に、会場へと向かう途中で女子四人は楽しそうに祭りでの予定を話し合っていた。


「大和!」


「……武蔵さん?」


俺と一緒に、後ろから彼女達の会話を聞いていた武蔵さんは、とある提案を持ち掛けてきた。


「今回も女の子が多い……お祭りに行けば、少なくとも彼女達をナンパしようとする奴らが現れる筈だ……」


「それでお持ち帰りでもされたら溜まったもんじゃない……大和、彼女達の事は僕達で守ろう!」


「は、はぁ……今回もですか……」


以前、武蔵さん自身も仕事中に関わらず、女性客達をナンパしていた事があったようか気がしたが……彼はそうして海水浴の時と同様、俺の前に拳を掲げて誓いを立ててきた。


……だが彼女達を他の男達に渡したくないという身勝手かつ欲張りな気持ちを抱いているのは俺も同じであった。


「二人とも〜、早く行くわよ〜!」


「皆待って〜! さぁ行こう大和!」


「……はい!」


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……その後、海に面する国道一三六号線に到着した俺達。


「うわぁ……」


「凄い人……」


飯田さんと瀬名さんも魂消ていたその人の数は、土曜日かつ祭り当日という事もあって、これまでに海水浴をしに国道に訪れていた時の人数よりも明らかに多くなっていた。


「やはり花火の影響が大きいか、皆それを見に来たのであろう」


「なるべく近くで見たいけど、この混み様じゃ特等席は全部埋まってるだろうねぇ……」


「とりあえず今は屋台を楽しむのぜ!」


花火を見たそうにしていた真緒さんと武蔵さんを他所に、瀬名さんは彼女の一番近くにあったりんご飴の屋台へと駆けて行った。


「こら! そんなに離れたら逸れるわよ!」


「瀬名さん……花より団子というやつですね」


「花だけに?」


「何を言っているんだお前は」


「でも……私もりんご飴、食べてみたい……」


「ならとっとと追いかけましょ」


武蔵さんの冗談に呆れる真緒さん……それから長内さんの提案により、俺達は仕方無く瀬名さんの後に続いてその屋台へと向かった。


「へいらっしゃい!」


「面倒臭いからまとめて買っちゃいましょ」


「じゃあここは僕が出すよ」


「あら気が利くじゃない」


「ありがとなのぜ!」


「相楽くん、いいの……?」


「うん、こういう時に女の子達に何かご馳走してあげるのは男の役割だよ!」


「……」


屋台の前で三本のりんご飴を武蔵さんが買う手続きをしている一方、真緒さんは隣にある金魚すくいの屋台をじっと見つめていた。


「真緒さん、どうかされましたか?」


「……仁藤、これで私と勝負だ」


「えっ?」


「おっ、何だ何だ?」


すると真緒さんは、すぐ側にいた俺に対して宣戦布告をして、飯田さん達もりんご飴をぺろぺろと舐めながら俺達に注目した。


「私にとっての祭りというのは、食べる事よりもこういったアトラクションの方が楽しみでな……しかも誰かと競うとなると、尚更楽しめる」


「……そういう勝負なら受けて立ちますよ」


「えー真緒ちゃんりんご飴いらないの?」


「そうとは言っておらん」


「何でもいいけど、あんまり時間かけすぎるんじゃないわよ」


「頑張るのぜ〜!」


「一回五百円だよ」


大体の状況を把握した一同は、俺と真緒さんとの一戦に応援をしてくれていた。


「じゃあ僕が審判をやるよ!」


「どうだ仁藤、負けた方は勝った方の言う事を何でも聞くというルールにしないか?」


「……望む所です」


「仁藤くん、頑張って……」


「ありがとうございます」


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……その後。


「仁藤くん弱いわね〜」


「弱いのぜ〜」


「あはは……時間がかかるどころか一瞬だったね」


「……面目ないです」


真緒さんとの勝負に負けてしまった俺は、飯田さん達に苦笑いされながら、真緒さんの命令で彼女の荷物持ちをして一行の後に着いていっていた。


「それ、次はチョコバナナだ」


「もう持てませんよ……ただでさえ金魚だけでも重たいのに……」


「ほんと、沢山捕まえたよね〜」


「こんなに捕まえて、これからどうすんのよあんた」


「ふむ……新宿にはまず持って帰れないだろうしな……そこの少女よ、この金魚はいるか?」


「えーっ本当!? お姉ちゃんありがと〜!!」


「まおまお優しいのぜな」


こうして約十匹の金魚が入った水袋が無くなったとはいえ……真緒さんは次々と商品を買っては、俺に両手が塞がっているにも関わらず、抱えている腕の間に挟んだりして無理矢理持たせている。


「仁藤くん、私も持つわ……」


「大丈夫ですよ、それに長内さんも両手が塞がっています」


「うん……」


俺の隣を歩いている長内さんとは別に、他の者達は敵国を蹂躙して征服していくように、ありとあらゆる屋台で買い物をしている。


「いや〜お祭りは最高なのぜな!」


「そんなに使って大丈夫なのあんた」


「これでも一万円以内には抑えてるつもりなのぜ!」


瀬名さんの散財様を心配していた飯田さんだが……彼女は瀬名さんと同じく頭にはお面をつけていたり、綿菓子袋やヨーヨー風船を両手に持っていたりと、すっかり夏祭りを満喫していた。


俺に荷物持ちをさせている真緒さんを除き、長内さんも女子達は皆そのような感じだ。


これがドラクエとかなら、全身が祭り一色に染っているフル装備として表示される事だろう。


「それにしても皆、プリキュアのお面よく似合ってるよ〜」


「あの者達と私達とで丁度四人だしな」


「キャラの髪色が、それぞれの着物の色と一致までしてるなんてね……」


「でも……少し恥ずかしいかも……」


「皆でつければ恥ずかしくないのぜ!」


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「……にしても人が多いわね〜」


それから花火が打ち上がる時間が近づくに連れて、ただでさえ多い祭りの参加者も更に多くなっていく。


友達同士で来た者、家族で来た者達等が集い、俺達が今通っている道は軽い渋滞状態と化していた。


……その中には当然、恋人同士でデートに来た者達も訪れている。


「……」


先程から俺の隣を歩いている長内さんは、その通りの各地にいるカップルを、どこか羨ましそうな表情で見ていた。


「このレベルでは手でも繋がない限り、一発で逸れるぞ」


「おっ、真緒ちゃん僕と繋ぐかい?」


「断る」


「でも……さっきから、手が繋げないぐらいに混んできてるのぜ……」


「ならいっその事、腕でも組んだら逸れないんじゃないかしら」


「分かった……」


「えっ!?」


突如、何を思ったのか飯田さんからの提案が皆の耳に入った瞬間、長内さんが俺の腕に抱きついてきた。


あまりの渋滞の為、皆の間に割り込んで来た通行人が死角となり、今の様を見られずに済んでいるがバレるのも時間の問題だ。


「!?」


その刹那、唐突に動き始めた行列により、台風の時の氾濫のように、俺達は人の流河に流されていとも簡単に逸れてしまった。


皆の後ろ姿が捉えられなくなった時には、もう皆の声も聞こえなくなっていた……大都会では散々に経験する事となる、喧騒からなる人混みの脅威を改めて感じたのであった。


「ふぅ……やはり逸れてしまいましたか」


「どうしよう……」


「一旦見晴らしの良い国道に戻ってみるという手もありますね」


「皆の事、探す……?」


長内さんはスマートフォンを出しながら、皆を探す流れへと移行しようとしたが、二人きりでは無くなってしまう事に対して悲しいと思っているような表情をしていた。


……先程の長内さんは俺と二人きりになる為に、皆と逸れると分かっていて、わざと腕に抱きついてきたとでも言うのだろうか。


「皆さんもお隣に誰かいる状態で逸れていると思うので、完全に散り散りになったという訳では無いと思います……暫くは別行動でも大丈夫でしょう」


「ん……」


俺からの答えに、長内さんは無表情のままだが喜んでいるような反応を示した。


そう答えた事で、俺は長内さんの手の上で転がされているような気分を感じたが、別に不服では無かった。


「花火が打ち上がるまではあと一時間ですね……これからどうしましょうか」


「じゃあ……」


そして長内さんが歩きだそうとした瞬間……


「んっ……」


「!……大丈夫ですか長内さん」


長内さんは俺の前で崩れる様に地面へと転んでしまった。


「長内さん、その足……」


今の長内さんは浴衣の格好に合わせて、靴ではなく下駄を歩いている。


慣れない履物に右足が耐えられなくなってしまったのか、彼女の下駄の前坪にあたる親指と、その隣の指との間が赤くなっていた。


「ん……大丈夫……」


「先程から歩いてばかりでしたしね……少し休憩しましょう」


「うん……」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


……時刻は夜の八時。


花火が打ち上がるまで残り一時間を切った現在。


空が暗くなると共に増えていく観客達を避けながら……俺は一人、コンビニで買った絆創膏が入ったレジ袋を下げて、ある場所へと向かっていた。


車が二列ギリギリで通れるくらいの通路に並んでいる屋台と、そこに集まって夏祭りを楽しんでいる観客達。


俺はその通路の幅に対して人口密度が高くなっている道を途中で曲がり、住宅街へと入って二分後、大きな木々で囲まれている公園の中へと入った。


人々は皆、祭りの会場がある国道方面に向かった事により、中々広い割に一人もいなくなってしまい、過疎化して殺風景と化した公園の中……


俺の帰りを待っていたその者……長内さんは、ベンチに座り公園内の電灯の光を浴びながら夜空を眺めていた。


「あっ、仁藤くん……おかえりなさい……」


「お待たせしました……足の方は大丈夫ですか?」


「さっきよりは、痛くないかも……」


「絆創膏を買ってきました、今の内に応急処置をしてしまいましょう」


俺は買ってきた絆創膏の箱を開封しながらベンチに座っている長内さんの前で膝まづき、彼女の足の様子を見た。


本人は痛くないかもと言ったが、相変わらず右足の親指の付け根と、その隣の指の間の付け根は赤くなっており、すぐにでも治療させて頂きたいぐらいに痛そうなレベルであった。


「仁藤くんが、貼ってくれるの……?」


「長内さん、自分で貼りますか?」


「ううん……お願いします……」


「……分かりました」


その絆創膏は消毒液のいらない、貼るだけでそれが瘡蓋代わりになってくれるという特殊な物で、患部にその絆創膏を貼るまでの時間、応急処置は僅か三十秒で終わった。


「……こんなものでしょう」


「ありがとう……」


「お隣……座らせて頂きますね」


「どうぞ……」


長内さんの許可を得て、彼女の隣に腰掛ける。


彼女は長い間下駄であちこちを歩き回った為に疲れていたのか、下駄を脱いで裸足の状態になってリラックスしていた。


「……その状態だと、暫くは歩けそうにないですね」


「大丈夫よ……絆創膏が、傷を守ってくれているから……さっきよりは歩きやすい……でも……」


「でも?」


「もう少し……休んでいたい、かな……」


「……そうですね」


遠くの方で微かに聞こえてくる人々のざわざわとした話し声は、今ここで休憩をしている俺達の存在も知らずに楽しそうにしていた。


……今、この公園に人は誰もいないのだろうか。


相も変わらず感じない人の気配の無さが、現在この世界にいる人間は、俺と長内さんの二人だけしかいないのではないかという感覚にさせる。


「ふぅ……」


互いの疲れが原因で、先程から会話をしていない為に、俺達の間に発生していた静寂を破るようにして、長内さんはゆっくりと息を吐いた。


「疲れましたか?」


これ以上場に気まずい空気を流さないように、咄嗟に訪れた出来事についての話題を長内さんに振る。


「ううん、大丈夫……お祭りはまだまだこれからよ……」


そう言うと長内さんはヨーヨー風船をぽんぽんと弾ませながら、空いている片方の手で控え目にグーサインを出してきた。


「….…お祭りは楽しいですか?」


「うん……日本のお祭りは好きよ……」


「アメリカの祭りはどんな感じだったんですか?」


「ブルちゃんに連れて行って貰った所は……遊園地みたいな場所だった……」


「ほう……」


「アメリカでは、日本でいうたこ焼きの代わりに……ハンバーガーが屋台で売られているのよ……」


「アメリカならではって感じですね」


「そっちも楽しかったけど……でもやっぱり、私は日本のお祭りの方が好き……」


「そこはやはり、日本人として譲れないものがあるのでしょう」


「うん……」


本人も口にしたが今の長内さんは、頭にはプリキュアのお面、両手にはそれぞれヨーヨー風船と綿あめが入った袋と……夏祭りを完全に満喫していた。


……彼女は今、歌舞伎町やこの旅館での仕事での、日頃から溜めていたと思われる疲れを上手く発散出来ているのだろうか。


「……」


その事は長内さんのみぞ知る……一方で一つだけ、先程から気になる事が心の奥底で消化されずに引っ掛かっていた。


「……長内さん」


「何……?」


「先程……何か言いかけていませんでしたか?」


「どこで……?」


「先程長内さんが転ぶ前、出発する直前です」


「ああ……」


まだ皆と逸れていない時、長内さんは直前で俺に抱きついてきた。


まるでもうすぐ逸れると分かっているかのように、俺と二人きりになる事を狙っていたのだとしたら……


「あの時のお話……そろそろしたいと思って……」


「……食べ物屋さんのお話ですね」


「そう……ごめんなさい、中々言い出せなくて……」


「いえ、こちらこそ無理矢理聞き出したみたいな感じですみません……」


「ううん……お祭りが終わる前には、言おうと思っていた事だから……」


「……そんなに重要な事だったんですか?」


「うん……本当はすぐに、言わなきゃいけなかったんだけど……」


「……そうだったのですか」


何故だかもじもじとしながら、結論を伸ばすに伸ばす長内さん……


……その態度から、夢を叶えたいにも不安げになっていた長内さんに、俺がプロポーズじみた台詞で後押しした時の恥ずかしさを思い出す。


「私の夢は、将来食べ物屋さんで働く事……それは覚えてる……?」


「はい……それで、俺は食べ物を作る事しか出来ないから、良ければ長内さんと一緒に働きたいって言って……前回はそこまででしたね」


「実は仁藤くん……多分勘違いしてる……」


「?……何がですか?」


「私ね……その……言い方が悪かったと思うんだけど……」


「……はい」


「私……食べ物屋さんで働くのもそうなんだけど……食べ物屋さんに、なりたいの……」


「……それはつまり」


「自営業って事……」


「ああ……」


……そうか、そういう事か。


長内さんはただ食べ物屋さんで働ければいいと思っていた訳では無い。


どこか適当なレストランで、アルバイトとして働ければいいと思っていた訳では無い。


……長内さんは応募では無く、自らで飲食店を経営するつもりだったのだ。


「だから……仁藤くんは、一緒に働いてくれるって言ったけど……それだと二人だけで、働いていく事になるから……」


「……」


「男の人と女の人が、一緒に暮らしていくって事は……だから……」


「……」


「私……仁藤くんに、プロポーズされたと思った……」


「……なるほど」


「ごめんなさい……勘違いしていたのは私の方かも……」


「……」


「別にお友達同士でも、初めて会う人とでも……二人きりでお店で働く事はあるもの……」


「……いえ、俺も少しだけ……それを意識しながら一緒に働きたいと思いました」


「えっ、じゃあ……」


「はい……長内さんさえ宜しければ、いつかの俺達は夫婦関係になるかもしれない……という事になってしまいますね」


「……!」


「!……長内さん……」


顔を上げた事で、電灯が長内さんに当たり、よく表情が見えるようになった影響か……


……その時の長内さんの瞳には一瞬だけ光が宿り、その時の長内さんの頬が染まった表情は間違いなく生きていた。


「仁藤くん……私と結婚していいの……?」


「正直……よく分かりません、長内さんは?」


「私も……実はよく分からない……」


「それはそうですよ……交際関係にもならずに、いきなり結婚してくれって言っている訳ですから」


「それに仁藤くん……まだ私のお店に働く事自体、決まっていないものね……」


「はい、この先どうなるのかも分かりませんし……お店で働く事自体は大丈夫なんですか?」


「平気よ……まず単純に助かる、けど……それでも一日で私に会う回数が多くなるわ……」


「それでもし、仁藤くんに彼女さんとかが出来たら……彼女さん、仁藤くんが私と会う事を嫌がると思うわ……」


「一緒に働くとなっても……私達が絶対結婚するとは、限らないし……」


「長内さん、そこまで考えるんですか……てか長内さんと働くのであれば、最初から長内さんとお付き合いする事しか考えて無いと思いますよ」


「えっ……」


「まず長内さんが好きだから……長内さんとずっと一緒にいたいと思ったから……それが一番の、長内さんと一緒に働きたい理由になると思います」


「仁藤くん……」


再度長内さんの目が輝く。


どちらかと言うと勘違いしているのは長内さんというか……彼女は自営業で俺を雇っても、交際せずに俺が違う女と交際をするパターンまで考えていてくれたのだ。


「……しかし、何故好きなのかはまだ上手くは説明出来ません」


「うん……無理しないで……」


「それに俺には今、長内さんと結婚をする前に、長内さんと一緒にお仕事をさせて頂く前に……片付けておかなければならない問題があるのです」


「そうなの……?」


「はい……それまでは何が起きるか分からないので……申し訳無いのですが、あまり俺と一緒に働く事に関しては期待しないで欲しいのです」


「分かった……でも、仁藤くんは変わっちゃうかもしれないけれど……私の夢は変わらないわ……」


「いつでも、待ってるから……仁藤くんがその問題を解決出来たら……私と一緒に働きたいと、思ったら……いつでも声をかけて……」


「長内さん……ありがとうございます」


……なんて長内さんは優しいんだ。


期待しないでくれという、一方的な言葉が口から出してしまった時の後悔を感じても……長内さんはこちらの都合に合わせてくれている。


……その待機が、結果的に長内さんにとっての足枷になるのは間違い無いのだ。


「長内さん……俺を待たなくても違う好きな男の人が出来たら、お構いなくその人と働いても大丈夫ですからね」


「ありがとう、仁藤くん……でもそんな人……多分現れない……」


「そんな事無いですよ」


「とにかく、待ってる……私も沢山お勉強やお仕事をするから……仁藤くんも一刻も早く、その問題を片付けられるといいわね……」


「ありがとう、ございます……」


「そしたら……一回お祭りの方に、戻っても平気……?」


「俺は構いませんが……足の方は大丈夫なんですか?」


「私は平気……行きましょ……」


「……分かりました」

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