第三十一話『変われない敵』

「……よし、今日も全員起きれたね、皆おはよ〜」


「「「おはようございます!」」」


「宜しい、相変わらず元気がいいね」


……土日休みが終わり、平日に入ってから既に四日目の木曜日に入った朝。


仕事に集中すればする程、時が早く過ぎるのを感じる中で……俺達は起床後の支度を早く終わらせる事が出来る程に、更に朝に強い人になっていた。


「今日も頑張って働いて、仕事終わりの餡蜜を美味しく頂くのぜ!」


「あんた好きねあれ、でも私ももっと運動したいから頑張るわ」


「ふふっ、今日の廊下掃除は僕が一位だからね凪奈子ちゃん」


「望む所よ」


最初は不安そうな表情をしていた瀬名さんをはじめとして、皆それぞれで目標を立てるぐらいに、仕事に対して余裕が出来始めているようだ。


……その中でいつまでも同じ仕事をするのでは無く、自ら環境を変えた者もいた。


「そういえば、朝からちーちーがいないのぜ?」


「昨日言ってたじゃない、今日から厨房の方でも働くんだって」


「あっ、そうだったのぜな!」


「そうだよ、だから今日は千夜ちゃんが作った朝ご飯を食べる事になるからね」


「千夜ちゃん、自分の得意な事をお仕事に出来てよかったね!」


「はい」


女将さんの長内さんが作る朝ご飯という言葉に、皆で胸を昂らせつつも、いつものように従業員用の食堂へと向かう。


「……」


……そこでは長内さんがお盆に乗せられた朝食を、皆が座る席の前に配膳をしていた。


「ちーちーおはようなのぜ!」


「あっ、皆……おはよう……」


「千夜ちゃん、早起きだね〜」


「美味そうね……まさかこれ全部千夜が作ったの?」


「ううん……厨房の人達と作ったわ……」


「長内さん……おはようございます」


「うん、仁藤くんもおはよう……」


制服が男女で別れているように、厨房で働く際の制服もこれまた茶色と色が違う。


更に今日の長内さんはポニーテールであり、その上から三角巾を結んでいる姿が様になっており、色気があった。


「さぁお喋りしてる時間は無いよ! さっさと食べて今日も仕事だ!」


「あっ、はーい! いただきまーす!」


それから女将さんに急かされて、俺達は素早く席について朝食を取り始めた。


「千夜ちゃんは何を作ったんだい?」


「お味噌汁……初めて作った……」


「わかめがいっぱいなのぜ〜」


「確かに黒百合じゃ、お味噌汁なんてメニュー見た事無いわね」


お椀の蓋を開けて、中身を確認する皆を見守る長内さん……


俺も一先ず喉を潤す為に、最初に味噌汁を啜る事にした。


「美味いのぜ〜」


「本当……?」


「ええ、味噌の加減も丁度いいわ」


「よかった……」


皆の笑顔を見て、ほっと胸を撫で下ろす長内さん。


真夏の日に本来熱い物は食べずらい物だが、それでも美味しく頂ける優しい味であった。


「……そういえば大和も、厨房の方でお仕事をしたいって言ってなかったっけ」


「……ああ、それが定員が一人しか空いてなかったと言われてしまって、それで今回は長内さんだけにお仕事をお譲りしたのです」


「ごめんなさい、仁藤くん……」


「長内さんは悪くありませんよ」


「ああ、それなら一人体調を崩しちまった奴がいてね、昼食からは大和くんも一緒に参加するといいよ」


「そうですか……ありがとうございます」


「良かったじゃない仁藤くん」


「じゃあやまちゃんとも会えなくなっちゃうのぜな……寂しいのぜ〜」


「食堂に来たら会えますよ……長内さん、宜しくお願いします」


「うん……よろしく……」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


……その後、皆は廊下の掃除をしているだろうその頃。


俺も食堂での仕事に参加する為に、その場へと向かっていた。


先程は俺達で朝飯を作ったが、今度は俺達が朝飯を作り客に提供をする番なのだそうだ。


「……すみません、お待たせしました」


朝食作りで慌ただしくなっている厨房に突撃し、この場で一番偉い人……つまり料理長に、自分が来た事を知らせに行く。


「よう、よく来たな。えっと……仁藤くんだったか? 料理は出来るんだよな?」


「はい」


「よっしゃ、じゃあ早速で悪いんだが、あそこにいる人達と味噌汁を作ってくれ」


「了解です」


そして料理長に指示され向かった場所には、長内さんも参加していた。


「仁藤くん、こっち……」


「長内さん……こちらにいらしたのですね」


「うん……」


既に味噌汁作りは開始されており、長内さんは大きな鍋に昆布を入れようとしていた。


「……なるほど、昆布出汁入りのお味噌汁ですか」


「仁藤くん、作った事があるの……?」


「はい、家の人達が皆好きなので……具は何を入れるんですか?」


「これよ……」


そう言って長内さんに渡された御品書きには、定番の豆腐、わかめ以外にも、にんじんや蓮根、じゃがいもといった沢山の具材を入れるようにと書いてあった。


「ここにある物を全部入れるんですか……凄い健康的なお味噌汁になりそうですね」


「切っていきましょ……」


「了解です」


弱火で昆布の出汁を取っている間、予め用意された具材を手に取って細かく刻んでいく。


「……」


黒百合で仕事をしてきた中で、ブルヘッドさんと共に沢山の料理を作り、今まで沢山の具材を切ってきたのだろう。


初めて包丁を握ったとは思わせない、長内さんの包丁さばきは相変わらずお手の物だ。


「長内さん……やはりお上手ですね……」


「ありがとう……仁藤くんも、お豆腐分けるの上手よ……」


「こんな柔らかい物を切るなんて誰にでも出来ますよ」


それから他の人達も切った具材も合わせて、沸騰寸前の出し汁に、具材の大きな物や火の通りにくい物から入れていく。


「美味しそうな匂い……」


「ええ、出汁が既に利いていますね、後は味噌を溶きながら入れれば完成ですよ」


「結構、簡単……」


「俺達が料理が出来る人だから、そう感じるんですよ」


「うん……お料理好き……仁藤くんは、お料理好き……?」


「ええ、好きというか……それしか出来ないというか……」


「今度、食べてみたいな……」


「勿論、機会があれば是非」


長内さんの包丁さばきを褒めた辺りの先程から、彼女の頬がぽっと染まっている。


感情には出ないが、体は正直というやつか……長内さんは本当に楽しそうだ。


この調子なら、無理して働きすぎて倒れる……という心配は無さそうか?


「出来た……」


「ええ、とても美味しそうです……」


それから味噌汁は難無く完成し、後は配膳するお盆の上に乗せるという作業だ。


そのお盆は、既に他のメニューが乗っている……後は味噌汁を乗せれば、晴れて朝食の完成という訳なのだが……


「じゃあ、運んでいくわ……」


「はい、お気をつけて」


そうして味噌汁をお盆の元へと運んでいく長内さん……


足元を見つつ、長内さんはペンギンのような小さな歩幅で分かりやすく慎重に運んでいる。


……しかし、丁寧にやるのはいいのだが、同じく味噌汁を作っていた料理人達は慎重なだけではなく素早く運んでいる。


その人達に追い越されているのを見て、長内さんも焦りを感じたのだろう……先程よりもスピードが上がった。


……しかし何とか味噌汁を零す事無く、長内さんも俺達も全味噌汁の配置に成功した。


「それじゃあお客さんの元に運んでいくぞ!」


「「「おっす!」」」


……お盆を持ち、食堂にいるお客の元へと配膳していく。


相変わらず宴会場のような食堂の広さ……その席を埋め尽くす人達に、端から順番に客の前に置いていくのだ。


「少し、重い……」


「ゆっくりで大丈夫ですよ」


「うん……」


再び料理人達に追い越されてしまう程にゆっくり進む長内さん……


しかし彼女と同じ速度で歩く事で、自分一人だけが置いていかれていないという安心感を与えさせる。


……だがその時。


「ギャハハハッ!! 待てよ〜!!」


「長内さん、危ない!」


「あ……」


客達のテーブル周りの隅々を通って、追いかけっこをしていた子供二人……


その内の一人が前の子供を押して、そいつは長内さんの右脇腹に激突。


……そのまま長内さんはバランスを崩して、左に倒れると共に料理を床にぶちまけてしまったのだ。


「わあああああんっ!!」


こうなってしまったのは自分のせいでは無いと訴えるように、ぶつかってきた子供の方はわんわんと泣き始める。


「っ……ごめんなさい……ごめんなさい……」


その子供に長内さんは謝りながら、零してしまった料理をどうやって処理しようか、おどおどとしながら困っている。


……それを見て、既に料理を客の元へと配膳し終わっていたブルヘッドさんや料理長が、客達の長内さんへの視線を遮って彼女の元へと駆けつけた。


「ちーちー大丈夫!? 怪我とかしてない!?」


「ごめんなさい……」


「ちょっと!! お宅の従業員さん前方不注意じゃないんですか!? ウチの子に料理がかかって火傷でもしたら、どう責任を取るおつもりですか!?」


「ごめんなさい……」


「いやーすみません、この子新人なモノで……僕ー? ごめんねー? 後で飴あげるからねー」


「ごめん……なさい……」


「長内さん……」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


……その後、朝食の時間が終わり、皿洗いの最中にも長内さんに声をかけれず、休憩時間に入った俺達。


「……」


「……長内さん」


「ごめんなさい……仁藤くん、今は……独りになりたいの……」


「あっ……」


やっと呼び止める事が出来ても、長内さんはそう言って俺から廊下の奥へと逃げてしまった。


「……やっぱりああなっちゃうわよねぇ」


「……ブルヘッドさん」


「私も何か元気づけなきゃと思って話しかけたんだけど、あんな感じよ……相当ショックだったんでしょうねぇ」


「……」


「あの場面だとどう考えても子供の方が悪かったし、それを見てたお客さん達も皆そう思ってただろうし……その事を分かってくれれば、ちーちーも楽になれると思うのだけれど」


「はい……」


「とにかく、今は本人の要望通り独りにさせてあげましょう」


長い間長内さんと一緒にいるブルヘッドさんでさえ、彼女を瞬間的に元気づける事が出来なかった。


それを本人が一番自覚しているのか、徐々に遠ざかっていく長内さんを、ブルヘッドさんは悲しそうな目で見送っていた。


「……どおやまちゃん? こんな私で良ければ一緒に休憩しない? 良かったらジュース奢るわよ」


「えっ、あぁ、ありがとうございます」


そうして俺は、思えば二人きりで話すのは久しぶりでは無いかと思ったブルヘッドさんと、休憩時間を過ごす事にした。


「やまちゃん何が飲みたい?」


「一番安いので……」


「うふふっ、遠慮しないのぉ。 今日も暑いんだからいっぱい飲めるやつにしておきなさい」


「……頂きます」


「……それで、ちーちーの様子はどう? ちゃんとお仕事出来てる?」


「はい、飯田さん達とお仕事出来ているからなのか、料理以外でも楽しそうにお仕事されてますよ」


「そお? 良かったわあ」


やはり保護者として長内さんの身を心配しているのだろう。


ブルヘッドさんが俺を休憩に誘ってきたのは、長内さんの仕事ぶりを聞く為であった。


「あの子、昔から疲れた事や悩み事があっても……我慢して、溜め込んじゃうタイプだから」


「……それでも楽しそうに仕事をしてくれているなら、良かったわ」


「……ですが長内さん、疲れたとも仰っていました」


「えっ……?」


「……長内さんから聞きました、ブルヘッドさんに黒百合で休めと言われても働き続けている事、今回も仕事と休暇を兼ねてこの旅館で働かせて貰っている事」


「……その目的は、将来ブルヘッドさんから立派な社会人として独り立ちする為だから、例え疲れても頑張らなきゃいけないというのも聞きました」


「……そうなのよねぇ、独り立ちするのは確かに立派だから応援してあげたいけど……そんなに急がなくてもいいというか、無理して倒れたら元も子も無いし」


「頑張る事に対して応援してあげるべきか、無理しないように止めてあげるべきか……どっちが本人の為になるか、そのバランスを見極めるのが難しいのよねえ」


「……はい」


頑張るという行為……無理だけはしないでねと言われていても、人によっては無理をしないと頑張れないという者もいるのだろう。


長内さんの中での頑張るというのはどれ程のレベルなのか……俺とブルヘッドさんはその事に対して悩んでいた。


「でも、ちーちーが疲れたねぇ……あの子が人に対して、仕事に関する弱音を出したのは初めてよぉ」


「……そうなんですか?」


「うん、私に対しても今まで言ってくれた事無かったし……多分私が店主だから、もっと働けますみたいな感じで気を使ってくれてただけだと思うけど」


「ですが疲れていても、ブルヘッドさんに頭を撫でられれば、嬉しくて元気になる……とも仰っていました」


「あらあら、そういえばお店では何かある度に撫でてあげたわね……ちーちー、感情無いけど結構甘えん坊さんだから」


「……あと俺にも撫でて欲しいって言われて、撫でてあげたんです」


「あら! あらあら!」


儚げな表情で長内さんの事を話すブルヘッドさん……だが彼女の頭を撫でた事について話すと、揶揄っているような物へと変わった。


「弱音の事と言い、あなたちーちーに相当懐かれてるわよお、やったじゃなあい」


「……そうですかね」


ブルヘッドさんに肘でつつかれつつも、大浴場での長内さんとの記憶が蘇り、その事だけは彼女にバレてはいけないという気持ちが強くなる。


「確かにちーちー、いつもやまちゃんがお店に来てご飯を食べる度に、じっと見ていたし……」


「やまちゃんが帰ると、今日の仁藤くんは元気が無かったとか、疲れていそうだったとか……やまちゃんの話ばかりするのよ」


「……そんな事が」


「やまちゃん自体も優しいし、ちーちーに好かれるのは必然だったのかもしれないわねぇ」


「……俺は長内さんには何もしていませんよ」


「自分で意識していないだけよ……じゃあちーちーを元気づける役は、やまちゃんにお任せしようかしら」


「……えっ」


「こういうのは同い歳の子達同士の方がいいだろうし……ちーちー、私よりもやまちゃんに慰めて貰う方が嬉しいと思うわ」


「……はい」


「疲れるのは絶対避けられないとして、それでも頑張り続けるなら、疲れた分に何か楽しい事を感じて癒していくしかないわ」


「……ちーちーにとっての癒しに、やまちゃんがなってあげて」


「!……分かりました」


「……あっ、別に押し付けてる訳じゃないのよ!?」


「大丈夫ですよ」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


……何やかんやでブルヘッドさんから、長内さんの慰め役を任命されてしまった。


長内さんは俺の事を好きライクと言ってくれていた……しかしブルヘッドさんが言っていた、長内さんの俺に対しての感情は愛してるラブの方だと思われる。


何故愛しているのかを、ブルヘッドさんは考察していたが……やはり最終的には長内さん本人にしか分からないのだ。


俺には本当に長内さんを慰める資格が有るのだろうか。


それに長内さんが俺の事を好きなのかどうかさえ分からない。


自分の勝手でしか理由を説明出来ない……それらの不安を抱えながら、それでも長内さんを見つける為に旅館の中を徘徊する。


「……」


……いた。


長内さんはこの間と同じベランダで、今度はベンチに体育座りをしながら空を眺めている。


「……」


……今は長内さんが、俺に恋愛的行為を持っているかどうかなどどうでも良い。


それよりも長内さんの方の不安を、先に無くさなければならない。


「……長内さん?」


「仁藤くん……」


嫌そうな態度で返す事無く、名前を呼ばれた長内さんは俺の事をじっと見つめている。


しかしその眼差しはやはり元気が無い……とりあえず彼女の隣に座るのは構わないという事か。


「……失礼します」


「私……ずるいわ……」


「……何がですか?」


「独りにしてって言ったのに……あの時、仁藤くんは追いかけて来てくれるって、信じてた……」


「それなら逃げずに、最初から仁藤くんの話を聞いておけばいいのに……ごめんなさい……」


「長内さんは悪くありませんよ……少しだけでも落ち着けましたか?」


「うん……」


独りの間に心の整理が出来たと言えど……長内さんは依然として顔を伏せたままだ。


あの程度の事が起きても、夢を叶える為ならば挫けない……そのような答えに辿り着ける気合いはまだ出なさそうだ。


「あの男の子のお母さん……凄い怖かった……」


「長内さんは悪くありません……あの時の母親は、まず走り回っていた子供達の方から注意をするべきだったのです」


「……」


「……しかしあの母親は、長内さんの無礼よりも子供達の安全を優先した」


「そういう子供中心の母親は……新宿にも沢山いますよ」


「……」


長内さんは今どんな気持ちなのだろう。


自分の失態の落胆? 母親への憎しみ?


それは聞いてみなければ分からないが……先程から長内さんの返事が無く、耳には入っている筈なのだが無言のままだ。


……言葉だけじゃ立ち直れない程に落ち込んでいるのか。


「……」


元々無口な長内さん……言葉で伝えられないのなら、行動で示すしか無いという事か。


無口なのは俺も同じだ……無理して慰めの言葉を掛けるよりは、こうした方が手っ取り早い。


ブルヘッドさんも言っていた、長内さんも一応話していた俺に対しての好意を信じて……彼女の頭にそっと手を伸ばす。


「え……」


どんなに落ち込んでいても変わらない、ふわふわとした濃緑髪に包まれた頭を撫でる。


長内さんを安心させるように優しく、優しく……


まるで猫同士が好きな猫に対して身体を擦り付けるように……言葉では無く、行動スキンシップで長内さんを慰める。


「ん……」


話しかけてからこれまで一切表情を変えなかった長内さんが……頭を撫でると目をつぶって気持ちよさそうな表情へと変わった。


「もっと……」


「長内さん……?」


更に長内さんはこちらに寄りかかってきて、本格的に甘えに来る姿勢を取り始めていた。


最早胸を始めとした、長内さんの上半身の部位の殆どがこちらに当たってしまっている。


「長内さん……お胸が……」


「撫でて……」


「はい……」


「……」


話しかけても言葉は理解して貰えない……しかし撫でたりすると表情で態度を変えたりと、正しく今の長内さんは猫のようだ。


……しかも性格の割に結構積極的なのが長内さんだ。


「抱っこ……」


「え……長内さ」


「して……」


上半身が密着してほぼ抱っこの状態になっている現状でも、ハグを要求してきた長内さん。


してくれないの? と言っているような悲しそうな目でこちらを見つめている……


こんな簡単に、長内さんを抱き締めても構わないのだろうか。


「……はい」


ハグやキス……日本人にとっては恋人間でしかやらなくても、アメリカでは挨拶代わりにやるものと聞く。


なので長内さんは大して深くは考えていないのだろう……俺も深く考えない事にして、長内さんの身体に手を回す。


「ん……」


柔らかい……そして温かい長内さんの身体。


本来真夏にハグなど暑苦しい行為だが、不思議な事に不快感は感じなかった。


「……」


「……どうですか?」


「安心する……仁藤くん、いい匂い……」


「匂いを嗅ぐのはやめてください……恥ずかしいので……」


「私は臭くない……?」


「はい、とても……良い匂いですよ……」


「えっち……」


「長内さんが聞いてきたんじゃないですか……」


「ふふ……」


言葉を選べずに正直に言うと、長内さんはそのようにからかってきた。


ハグの最中で表情は見れないので分からないが……もう微笑む事が出来る程の心の余裕らしい。


「しかし……長内さんは本当に甘えん坊なのですね……」


「ん……誰から聞いたの……?」


「ブルヘッドさんがそのように仰ってました……俺もそうだと思ってます」


「甘えん坊って言葉、嫌い……子供みたいで……」


「そうでしょうか……可愛くていいと思いますよ」


「そう……?」


「はい……普段は落ち着いているのに、実は甘えん坊って……魅力的だと思います」


「そう……仁藤くんって、私の事……そういう風に思っていたのね……」


「えっと、嫌でした……?」


「ううん……何か嬉しい……」


すると長内さんは、その気持ちを行動で示すように今度は彼女の方から、横から俺の身体に腕を回してきた。


その積極さから、もっと甘えを求めているのだと判断して、再度長内さんの頭を撫でる。


「長内さん……?」


「……」


……すると暫くして、唐突に恥ずかしくなったのか、頬を染めながら俺から離れてちょこんと座り直した。


「もう、大丈夫……」


「そうですか……落ち着けました?」


「うん……急に、抱っこしてとか言ってごめんなさい……」


「いえ、それでお元気になったのであれば幸いです……しかし、本当に大丈夫ですか?」


「うん……どんなにお仕事を頑張っていても、こちらからお客さんは選べないから、仕方が無いわ……」


「あっ……もうその答えまで辿り着かれていたのですね」


「うん……それに前にもこういう事があって……その時にブルちゃんにそう言われたの……」


「……なるほど」


確かに歌舞伎町にいる人々の人相を伺えば、長内さんに怒鳴りつける客はこれまでに何度も訪れていそうだ。


しかし、それでメンタルが鍛えられているなら、今回も独りで乗り越えられていそうなものだが……


「でも今回は……独りでは我慢出来なかったのですか?」


「うん……子供がいるお母さんに……怒られたのは、今日が初めてだった……」


「確かに歌舞伎町には、子供連れのお客さんは中々来ませんね……」


「あの時、確かにぶつかってきたのは……確かに男の子の方だけど、お料理がかかってたら大変だった……」


「あの男の子……火傷していないかしら……」


「長内さん……」


長内さんは落ち込んでいなかった、母親の事も憎んでいなかった。


長内さんはただ……あの子供の心配ばかりしていたのだった。


「歌舞伎町には確かに子供は来ないけど……将来、そうじゃない場所で働くとなったら……」


「もしも子供に……怪我をさせちゃったらどうしましょう……」


「……長内さんは将来、どういったお店で働きたいのですか?」


「食べ物屋さん……」


「じゃあ長内さんは、子供が来れない場所で働けばいいんです……厨房とか」


「でも、お料理が出来たら……お客さんの所に運ばないと……」


「━━じゃあその役は俺がやります」


「えっ……」


……何だかスケールの大きな話になってきたが、どこまでも優しいのが長内さん。


そんな優しくて、独り立ちもしたいという野望を兼ね備えた長内さんが、将来どういう大人に成長するかを見守っていく為に……


そしてそんな長内さんの優しさを利用しようとする悪い者達から守る為に……


「仁藤くん……私と一緒に、働いてくれるの……?」


「勿論もしものお話ですよ……俺も、特技はお料理を作る事しか無いので……出来ればお仕事にしたいのです」


「その時は……長内さんさえ宜しければ、一緒に働いても宜しいですか?」


「仁藤くん……」


最早プロポーズのような意味を込めた、長内さんと一緒にいたいという理由までは話していないのだが……長内さんの頬が何故か染まっている。


……まさかその事を勘づかれたのか。


そういう意味で言った訳では無いと、長内さんに言おうとしたその時……


「……あっ、仁藤くん……もうすぐ休憩時間が終わってしまうわ……」


「……あっ、本当ですね」


「食べ物屋さんのお話は……まだ後でお話しましょう……」


「そうですね」


「あと……元気にしてくれて、ありがとう……」


「はい……良かったです」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


……その夜。


「お祭りなのぜお祭りなのぜ!」


風呂にも入り、晩飯も食い終わり……もう寝るだけとなった現在、瀬名さんはそう言いながら何処からか寝室に戻ってきた。


「なによー、夜も元気ねあんた……」


「ひとみちゃん、何処に行ってたんだい?」


「皆! これを見るのぜ!」


そう言うと瀬名さんは、肘をつきながら横になっている飯田さんの元に転がりながら、手に持っていた団扇を俺達に見せてきた。


「これは……夏祭りのお知らせですね」


「そうなのぜ! これ皆で行きたいのぜよ〜!」


「こういう情報集めてくるの早いわね〜」


「えへへ……」


旅館から見える街並みの道路には所々提灯が飾られており、近々何かの祭りをやるのかと察してはいたが……瀬名さんは余程に俺達と行きたかったのか、律儀に祭りがやる事を教えてくれたようであった。


「今度の土日か〜……真緒ちゃんはこの事知ってるかな」


「分かんないのぜ!」


「あいつ暇だろうし、そういう情報は自然と耳に入ってくるんじゃないかしら」


「仁藤くん……」


「何ですか長内さん?」


「食べ物屋さんのお話の続き……その時にするわ……」


「……分かりました」

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