第三十話『幼い告白』
「……」
……目が合って互いの名前を呟いてから数秒が経った。
長内さんは気まずそうにする事無く、扉を開けて脱衣場に戻る事も無く、こちらをぼーっと見つめている。
一体何を考えているんだ……?
「……」
「えっ、ちょっ、ちょ……」
それから長内さんは結局帰らずに、こちらに来て俺と一緒の温泉に入ってしまうという暴挙を仕掛けてきた。
「ふぅ……」
息を漏らしながら肩まで浸かる長内さん……こうなってしまえば、もう彼女は俺がいる状態でも脱衣場に戻る気は無いという事だろう。
「あの……長内さん?」
「仁藤くん……?」
「は、はい?」
「ここ……女の人のお風呂よ……」
「えっ」
長内さんの感情の籠っていない声が耳と心に突き刺さり、一気に血の気が引いていくのを感じる。
この俺が……堂々と女風呂に侵入していただと?
今まで自分は、最低限の常識ぐらいは身につけていると思っていたのだが、その自信も羞恥心と共に崩れ去った。
……しかし、無意識の記憶の中を辿っても、確かに俺は入口にて男と書かれた青色の暖簾を潜って中に入った筈だ。
今すぐにでも入口に確認しにいきたいが、一人で入る前提だったので隠す用のタオルは持参してきておらず、このまま直立すると長内さんに下半身をさらけ出してしまう事になる。
とにかく今も長内さんは、俺の事を下心剥き出しのクソ野郎という目で見ているに違いない。
「……?」
恐る恐る長内さんの方を見ると、彼女は相変わらず無表情で少し首を傾げながら俺と目を合わせてきた。
とにかく、俺はここが男風呂であるつもりで入ったのだと、長内さんに説明をしなければ……
「あっ……」
その事を言うと、長内さんは何かを思い出したかのように声を漏らした。
「長内さん……?」
「私の方が……間違えて、入ってきちゃったかも……」
「ええっ……」
「起きた時に、汗びっしょりで……それでもう一度お風呂に入ろうと思ってて……寝ぼけてて……」
「……ああ〜」
長内さんの途切れ途切れの日本語から話を読み取り、彼女主観の回想がじわじわと浮かんでくる……
……とにかく今回の事件が、俺のせいでないなら何でも良い。
「ごめん、なさい……」
「……いえ、自分もよく寝ぼけてて失敗する事はよくあるので、仕方が無いですよ」
「うん……」
長内さんの誤ちを、俺は許した。
……となれば、後は長内さんが出て行けば全て解決なのだが。
「……?」
長内さんは脱衣場に戻る事はおろか、浴槽から出る気配すらない。
そして見つめていると、さも混浴が当たり前かのようにそわそわとする事も無く、また長内さんは首を傾げながらこちらに見つめ返している。
「仁藤くん……?」
「あっ、いえ……すみません、何でもないです」
「ううん、もしよかったら……このまま一緒に入っていてもいい……?」
「えっ……?」
「男の子と一緒に、お風呂に入る事……滅多に無いから、新鮮……」
「……長内さんさえ宜しければ、俺は大丈夫ですよ」
「ありがとう……」
俺も彼女を強制的に出て行かせる気は無い。
長内さんの目的は不明だが、とにかく互いに嫌では無いということで混浴問題は解決した。
……誰か他の人が入ってくれば一巻の終わりなのだが。
「……」
「……」
気まずい。
長内さんという女子と風呂に入るのは確かに新鮮だが……新鮮な分、どういう話を長内さんとすればいいのかが分からない。
一人ぼっちから二人に増えたにも関わらず沈黙が続き、相変わらず浴場内では湯が注がれる音が響き続けている。
「……私」
「……?」
そんな中、先に沈黙を破ったのは長内さんであった。
「仁藤くんから、あの事を言われて……それから少し、考えてみたの……」
「……あの事ですか?」
「休まずに、働くのが……辛い事……」
「……ああ」
顔を伏せて言葉を続けている長内さんだが……自然とアイ字の胸の谷間にも目がいってしまう。
馬鹿か俺は。
真剣に話しているのだから長内さんの言葉だけに集中するのだ。
「確かに……辛いとは、思ってる……かも……」
「将来の事を思う、希望だけで仕事をしていても……疲れるものは、疲れる……」
「……それなら、休みましょうよ」
「ダメなの……」
「……どうして」
「私は……他の子達よりも、成長が劣っているから……」
「……」
「ずっと外国で暮らしてきたから……日本の事は分からない……だから誰よりも、人一倍勉強をしないといけないの……」
「それじゃなきゃ、ブルちゃんに恩返しも出来ないし……独り立ちも出来ない……」
「……」
「でも今は……疲れてて、少しやる気が起きないかも……」
……やっと長内は、表情と言動が合う事を言ってくれた。
しかしここでまた簡単に休めという返事だけで片付けてしまっては、長内さんもまた一刻も早く独り立ちをしなければならないと言うだろう。
後はその繰り返しだ……ならば。
「……長内さんは、疲れた時にこういう事があって元気になれたみたいな事はありますか?」
「えっ……?」
「それは趣味でもいいです。 運動、ゲーム……無ければ寝るだけでも大丈夫です」
「泣ける映画とかを見て、感動するのも結構効果がいいらしいですよ」
「……」
「自分にはそういった趣味が無いので……例えば接客業の中でありがとうと呼ばれるのが嬉しくて、それをエネルギーにしていつも働いているのですが……」
「……簡単に言うと、いつでも出来るストレス解消法ですね」
「……」
俺の長い説明を、長内さんははてなマークを出しながら聞いていたようなので、簡潔に纏めて伝えてみた。
長内さんはぼーっとしているが、何かを思い出している様子であった。
「……そういえば」
「どうしました?」
「黒百合にいた時……仕事をしていて……ブルちゃんに褒められて、頭を撫でられた時……凄い嬉しかった……」
「……いいですね」
「真緒ちゃんにも……いつも挨拶代わりにされてるけど、もしかしたら私……頭を撫でられるのが好きみたい……」
「要するに誰かに甘える行為ですね……ならば、寝る時などにぬいぐるみと一緒に……」
「じゃあ……」
「えっ……」
「今……仁藤くんに、甘えていい……?」
「……えっ?」
海水浴の時、確かに長内さんの笑顔を壊さない為に、密かに彼女を支えていくのだと誓った。
だが長内さんが今纏っている物はバスタオル一枚のみ、そして俺は全裸だ。
長内さんは何も疚しい気持ちは無さそうに、無表情のまま頼んできているのだが……今甘えられては色々といけない。
「……ダメです」
「どうして……ブルちゃんや真緒ちゃんは、よく頭を撫でてくれるわ……」
「それは女性同士だから許される事であって……」
「……」
「……はぁ、分かりました」
「やった……ありがとう……」
無言の圧力に負けて、遂にオーケーを出してしまった。
しかし本人も頭を撫でられる気しか無いのなら、それで良い。
撫でる事がエーだとしたら、ビーもシーも無く終わりになるという事だ。
「そっち……行ってもいい……?」
「……お願いします」
無論、俺からそちらに行く事は出来ないので、長内さんにこちらに来てもらうしかない。
目は逸らすがちゃぷちゃぷと入浴したまま、長内さんがこちらに近付いてくるのが耳で分かる。
そして長内さんは俺の隣に来て、側溝に寄りかかった。
「どこを、見ているの……?」
「ああ、いえ……っ」
そっぽを向いていても分かる、入浴剤の香りを纏わせた長内さんのいい匂い。
そして零れ落ちそうな乳房を抑えつけているタオルに、両手を当てながら彼女はこちらを見つめていた。
……下半身が見えないようになっている、湯に色がついているタイプの温泉で本当に良かった。
「それじゃあ、お願いします……」
「……はい」
長内さんは座りながら俺の方へと寄ってきて、俺が彼女の頭に触れやすい位置までへと更に移動してきた。
最早肩同士も、微かに当たってしまっている。
「……」
もう動揺するのはよそう。
俺も童貞では無いのだ。
そのように心を落ち着かせていた俺は、気付いた時には彼女の頭に向かって手を伸ばしていた。
「んっ……」
それから長内さんが声を漏らしたと共に、俺の手の中にふわふわとした感触が訪れた。
彼女は髪の量が多い為に弾力があった。
俺は長内さんの髪一本一本の感触を感じながら、彼女の髪についている水滴を払うように優しく撫で続けた。
「ん……」
頭を撫でられている長内さんは、体はこちらに向けつつも、恥ずかしいのか頬を染めながらあさっての方向を向いていた。
「……長内さんって、猫みたいですよね」
「そうかしら……」
「はい、常にどこかをじっと見つめている癖とか、唐突に甘えてきたりだとか……長内さん、結構猫系女子ってやつなのかもしれませんね」
「初めて、言われたわ……」
「……それでどうですか、撫でられている感想は」
「凄く……安心するわ……」
「……良かったです」
今日の長内さんは、何だか積極的だ。
頭を撫でる事なんて、俺じゃなくてもさり気なく飯田さんや瀬名さんに頼めばいいのに。
その事を思ってしまうと、長内さんは俺に特別な感情を抱いてくれているのではないかという気持ちが薄れてくる……。
「えっ……もう終わり……?」
「いえ……少し腕を上げたままだったので疲れただけです……すみません……」
「あっ、ごめんなさい……」
「いえ……暫くしたら、また頭を撫でさせて頂きますよ」
「ううん、もう大丈夫……」
「そうですか?」
「うん……わがままを言って、ごめんなさい……」
「……分かりました」
長内さんがリラックス出来る条件を見つける事が出来た、しかもそれを叶える事も出来た、本人も無表情だが喜んでくれていた。
……しかしそれらを終えて、長内さんが微妙な表情を浮かべているのは何故だろう。
シンプルに頭を撫でる行為を、途中で中止してしまったからか?
「仁藤くん……?」
「……」
「ごめん、なさい……私の頭……撫でるの、嫌だった……?」
「……いえ、そういう訳では……ただ、分からなくて」
「何が……?」
「甘えてくる行為を、わざわざ俺に頼んできた理由です」
「……」
申し訳無さそうな表情から、長内さんの表情が無へと戻る。
俺も少し強めに言ってしまったか……彼女は癒される為に来ているのに、更に緊張させてしまっているみたいだった。
……これでは尋問をしているみたいでは無いか。
「それは……私が甘えたくなる理由を、お友達の中で仁藤くんだけが知っているから……」
「えっ……」
「よく頭を撫でてくれるのは真緒ちゃんだけど……真緒ちゃんと仲が良いのは、凪奈子ちゃんだから……甘えると凪奈子ちゃんに申し訳ない……」
「凪奈子ちゃんは、大学の事や妹さん達の事で……忙しそう……」
「ひとみちゃんはひとみちゃんで、お家が無いのに毎日働いて頑張ってる……だから、邪魔しちゃうのはだめ……」
「相楽くんは……まだお友達になったばかりだから、相談するのは怖い……」
「……」
「私……ブルちゃんから聞いたの……仁藤くんは日曜日以外の毎日、ほぼ一日中働いているって……」
「仁藤くんがそうしている理由は分からないけど……私とやっている事は同じ、だから……もっと仁藤くんとなら、仲良くなれると思った……」
「だから……私の将来の事も、悩みの事も……仁藤くんにしか話してない……」
「……俺の方も忙しいからといった理由で、遠慮をしようとは思わなかったのですか?」
「それは、ごめんなさい……でも仁藤くん、ランチを始めてから……毎日黒百合に来てくれていたから……」
「その時に……お話をしようと思った……」
「……」
……そういう事か。
昼休憩の時、確かに食べている最中に長内さんからの視線を感じる時は何回もあった。
それは自身が作った味の心配だけではなく、自身の悩みを俺に伝えようか躊躇をしていたという事だったのか。
皆が仕事終わりに黒百合に集まる時も、日曜日に皆でどこかに出掛けに行く時も、どうしてもワイワイしてしまう時に出来る話でもあるまい。
……長内さんは多分、ずっと俺達の中の誰かに悩みを打ち明けるタイミングを伺っていたのだ。
「大体分かりました……長内さん、ずっと我慢をしていたのですね……すみませんでした……」
「ううん……ちゃんと言わなきゃ、分からないもの……私の方こそ、ごめんなさい……」
「でも……分かってくれて、良かった……」
「……しかし、俺ともっと仲良くなれるというのは?」
「うん……仁藤くんの事、好きだから……」
「えっ……?」
「友達として……毎日お仕事してるの、凄いと思うし……憧れているから……あと優しい……」
「……それは、飯田さんや瀬名さんも同じだと思いますが……堂々と言われると照れますね」
「仁藤くんは……私の事、好き……?」
「……」
友達としてという言葉で冷静さを取り戻すも、頬を染めながらこちらを切なそうに見ている、長内さんの瞳に吸い込まれる。
しかし彼女が、俺に恋愛的感情を抱いているから頬を染めている訳では無いという事は分かっている。
「好きですよ、勿論友達として……猫を見ているみたいで面白いです」
「よく分からないけど……ありがとう……」
「悩みの事……真緒さん達にもお話していいと思いますよ」
「えっ……?」
「それを話して頂いたおかげで、長内さんとは今よりももっと仲良くなれた気がします」
「その事を皆にもお話すれば……同様に真緒さん達ももっと長内さんの事を知れて、仲良くなれると思いますよ」
「そう、かしら……」
「ええ、気にせずさり気なくでも良いので、今度お話をしてみましょう」
「分かったわ……」
文句でも悩みでも、言いたい事ははっきりと言う……それが友達というものだと、俺は思う。
勿論それは任意であり、強制的にしなければならないという訳では無いが……苦しみ抜いて爆発してしまうよりかは、一応勧めておいた方がいいだろう。
「あの……」
「何ですか?」
「頭撫でるの……続きして……」
「……ああすみません、続けますね」
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……それから翌日、休日二日目。
その日は海に入らず、店方面を歩きながら散策して楽しもうという事になった。
「凄いのぜな〜、新宿には売ってないような物ばかりなのぜ」
「ご当地物って奴ね……この羊羹、凄いカラフルだけど美味しいのかしら」
「家族や仕事の同僚などに買っていく土産も、今の内に決めておくのも良いかもな」
「そうだね〜、組長って確かイチゴだけは苦手だったよね大和?」
「ああ、はい……」
沢山の観光客を避けながら、通りかかった適当な土産屋に寄り、それぞれの土産物や値段を比較していく。
「……」
一方で、外に出てからまだ一言も言葉を発していない長内さん。
もしかして俺が昨日言った告白の実践を、皆にしようとしているのか……先程から何か考え事をしているような表情だ。
「……千夜ちゃんだったら、お土産は誰にあげる?」
「えっ……」
「私は妹達によ、買わずに家に帰ったら、あいつら絶対うるさいから」
「あたいは銭湯のおばあちゃんになのぜ! いつも銭湯に行った時に色々とお世話になってるお礼なのぜ!」
「……その割には、選んだお土産の数が多くないかい?」
「お、おばあちゃん以外にもお世話になった人であげたい人が沢山いるのぜ!」
「私は署にいる友人にだ、友人が一人しかいないと土産も沢山買わずに済むから楽だな」
「あんたそれ自分で言ってて悲しくない?」
「僕と大和は組長にだよ……一応社交辞令としてね」
「私は……ブルちゃんにあげる……」
しかしぼーっとしているようで、しっかりと俺達の話は聞いているのが長内さんだ。
「ブルヘッドさんにですか?」
「でもブルちゃんもこの街にいるから、自分でお土産は買えるのぜな?」
「うん……でも、私もブルちゃんに……いつもお世話になってるから……」
「お土産をプレゼントして、少しでも恩返しがしたいの……」
「……良いですね」
……ブルヘッドさんへの恩返し。
それはあの夜に長内さんが俺に話してくれた説明の一部だ。
皆への返答も兼ねて、少しでも告白の事を皆に説明したいという、長内さんの意志が伝わってきた。
「えへへっ、あたいと同じなのぜ……」
「良いドラマねぇ〜、どこかの職場でお友達が一人しかいない人とは大違い」
「ふん、そういう貴様は家族用とは別で、ロイヤルメイデンで土産をやれる友人は一人もいないのだろう?」
「まぁまぁ二人とも、僕達さえいれば他に友達はいらないって事でしょ?」
「黙れ」
「あんたに解説されると何か腹立つわ」
「そ、そんな〜」
「でも、否定はしないのですね」
「お前も黙れ」
「はい……」
「……」
……しかし、勿論それだけで皆が長内さんの言いたい事が理解出来る筈も無い。
そうして長内さんは返答したのを最後に再び沈黙し、店を何件かまわる内に……俺達はとある神社らしき場所の麓へとやってきていた。
「ひえ〜、凄い階段なのぜ……」
「一番上まで行ってみる?」
「そうだね、あそこからの眺めもよさそうだ」
「今日もよく晴れているしな」
「それじゃあれっつごーなのぜ!」
そして飯田さんの提案を呑んだ俺達は、頂上を目指す為に緩やかとした坂を登り始めた。
しかし、安心したのも束の間……暫く歩いている内に、そう簡単に絶景は見せまいと俺達に試練を与えるようにして、急斜面の階段が姿を現した。
「ふぅ、ふぅ……ははっ、これじゃあほぼ山登りだね」
「海水浴だけでは無く、山登りも出来るとはな……ここは運動するのに適した街だな」
「折角だからお参りでもしてく?」
「してくのぜー!」
四十五度ぐらいはありそうな斜面に配置された階段……
少しでも後ろに傾いたら、そのまま転げ落ちてしまいそうな程の重力と戦いながら頂上を目指していく。
「ふっ、ふっ……」
しかし真緒さんはそれらに怯む事無く、どんどんと上に登っていく。
「真緒ちゃん元気だね〜」
「まおまお早いのぜ〜」
「お前達も早く来い」
「あいつ……あんなに最初から飛ばしてたらその内すぐにバテるわよ」
真緒さんのようにはフルスロットルでは行かず、俺達はローペースで真緒さんの後ろから階段を一段一段登っていく。
「はぁ……はぁ……」
……しかし長内さんだけは、登段開始僅か五弾目にしてもう体力を使い切ったのか、息を切らしながら、まるで老人のように腰を曲げて、次の段へと重そうに足を上げていた。
「ちーちー頑張れなのぜ!」
「あそこの踊り場みたいなとこで一旦休憩にしましょうか」
瀬名さんと飯田さんはそう言うと、長内さんの所へと降りて行き、彼女の背中を押して、階段を登る為のサポートをしてやった。
「二人とも、ありがとう……皆、ごめんね……」
「頑張れ! 頑張れ!」
「こんな長い階段、東京じゃ神田明神の所しか見た事無いからね、仕方ないよ」
「落ち着いてゆっくり行きましょう」
「ありがとう……」
「早くしろ〜!」
二人から補助をされて、俺と武蔵さんで元気づけてしょぼんとしている長内さんとは一方……既に最上段へと達した真緒さんは俺達を見下ろしながら仁王立ちで俺達の到着を待っていた。
「うっさいわね! こっちはあんたと違って元気じゃないのよ!」
「私はいいから、皆はどんどん登って行って……」
「ちーちーを置いていくわけにはいかないのぜ〜」
「……何か真緒さん戻ってきていますよ」
「え?」
つくづくせっかちな人である。
真緒さんは待ちきれなくなったのか俺達の元へと戻ってくると、長内さんをおぶって再び段をぴょんぴょんと上がって行ってしまった。
「よし、とっとと行くぞ」
「真緒ちゃん、下ろして……恥ずかしいわ……」
「あはは……本当に元気だね真緒ちゃん」
「どんだけパワー有り余ってんのよ……」
「タフなのぜな〜」
そうして何とか俺達は、ほんの数分で階段の最上段にある神社へやってきた。
周囲を囲っている木から覗く景色……流石に何十段も階段を上ってきた甲斐もあって、中々に眺めが良い。
「風が気持ち良いのぜ〜」
「私達が泊まっている旅館は……あの辺りだな」
「凄い……海も街も、全部見える……」
「苦労して上ってきて良かったでしょ?」
「うん……」
……そうして早速、俺達は賽銭箱の前へと行ってお参りをする事にした。
「あれ〜、小銭が無いのぜ?」
「両替するかい?」
「一円ぐらいくれてやる」
「おっ、まおまおありがとなのぜ!」
「一円なんてケチくさいわね。 私は十円を入れてやるわ」
「ふっ、ならば私は千円を入れるまでだ」
「何ですって!?」
「早く入れましょうよ……」
賽銭箱に小銭を投げ入れる音が共鳴した後、俺達は手を合わせ目を瞑って願い事を思い浮かべた……。
「……こんなところかしら」
「皆は何をお祈りしたのぜ?」
「私は警察らしく、都心での犯罪がもっと減りますようにだな」
「神頼みじゃなくてあんた自身でも頑張んなさいよ」
それから再度景色を眺めていると、瀬名さんの質問により唐突に俺達の中で願い事の発表会が実施された。
因みに俺はまず借金の完済。
そして極道から足を洗い、歌舞伎町から出て自由になるのが俺の願い……という事は、武蔵さんもいるし正直に言う訳にはいかない。
「因みに僕は、あそこの海で泳いでる女の子達全員からモテるような男になれますようにだよ」
「不純極まりないわねあんた……」
「勿論、真緒ちゃん達も含まれてるよっ」
「死ね」
「そんな〜」
「あはは……なーなは何を願ったのぜ?」
「私? 私は……とりあえず大学を卒業出来ますようにってお願いしたわ」
「それだけでは無いだろう?」
「いや〜どうかしら」
三秒程の沈黙の後、自身の頭を撫でながら、体内から振り絞るようにして願い事を述べた飯田さん。
しかし色々と欲がありそうな彼女は、真緒さんは言い当てており、大学の事以外にも様々な願い事を神に祈った様子であった。
「ひ、ひとみは何をお願いしたの?」
「あたいは毎日、ご飯がお腹いっぱい食べれますようにってお願いしたのぜ!」
「……」
話題を逸らすようにした飯田さんからの質問に、俺達に八重歯を見せながら、表情の中にどこか切なさを感じるような満面の笑みで答えた瀬名さん。
その一般人ならまずしないと思われる願い事を叶える為に、日頃から沢山働く事で苦労しながらも、一切疲れを感じさせないような笑顔を見せた瀬名さんに……胸がきつく締め付けられる。
「ちーちー?」
「がんばって……」
長内さんもそう感じたのか、瀬名さんのすぐ近くにいた彼女は、瀬名さんの頭を優しく撫でながら応援の言葉をかけた。
「え、えっと……ちーちーは何をお願いしたのぜ!?」
俺達の悲しそうな表情を見た瀬名さんは、今の暗い雰囲気をかき消すようにして、長内さんにその質問を投げ返した。
「私は……早く独り立ちが出来ますようにって、お願いしたわ……」
「独り立ち?」
……チャンスだ。
長内さんもその機を逃す事無く……それから彼女は、これまでに俺に話してきた事を皆にも話した。
将来はブルヘッドさんに恩返しが出来るような、立派な社会人になる事……
それが叶ったら、これ以上ブルヘッドさんに迷惑がかからないように独り立ちをしようとしている事……
その為には仕事や勉強を沢山する必要があるのだが、今は疲れた……までは言わなかったが、その日の真緒さん達は、長内さんの野望の八割型は理解してくれた事だろう。
「ほう……千夜ちゃんはそんな事を考えていたんだね〜」
「立派な夢ではないか」
「ちーちー、歌舞伎町からいなくなっちゃうのぜ……?」
「ううん……独り立ちはするけど、皆がいれば……歌舞伎町からは出て行くつもりは無いわ……」
「ほっ、良かったのぜ〜」
「沢山働くのはいいけど、体だけは壊さないように気をつけなさいよ」
「ありがとう、凪奈子ちゃん……」
皆に夢を話した後の長内さんの表情は……どことなく安心をしたように見えた。
疲れたまで言わせようとしていた、俺のアドバイスは余計であったか。
皆心配百パーセントの表情をするのでは無く、見守っているかのような、優しい表情を長内さんに向けていたのであった。
「仁藤くんは……何をお願いしたの……?」
「俺は……お金が沢山欲しいとお願いしました」
「あんたはあんたで清々しいぐらいに直球ね……」
「あはは……でも皆のするお願いなんて、大抵そんな感じだよね」
「あたいもお金欲しいのぜ〜」
「金がいらないと思っている者は、この世にはおらんだろう」
「なら……仁藤くんも、お仕事頑張りましょう……」
「それは勿論です」
日曜日の昼下がり……楽しい時間はあっという間に過ぎていき、仕事始まりの月曜日はもうすぐそこまでやって来ているように感じる。
俺は斬江に一円でも多く、借金を返済する為に。
長内さんは一秒でも早く、ブルヘッドさんから独り立ちをしていく為に。
俺達以外の皆も、それぞれの願いを叶えていく為に……皆いつまでも休み気分に浸っているのでは無く、迫ってくる仕事始まりの現実を受け止めるのであった。
「まぁ私は働かなくて良いのだがな」
「はいはい、一々言わなくていいわよ」
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