第二十六話『湯気の城』
……それから電車に乗ってから約三時間が経過した。
新幹線で熱海に降りたのを最後に、路線をJR線から伊豆急行線と乗り換えて行く内に、周囲の建物が無くなっていき、山や川など自然に溢れる景色へと変わっていく。
そうしてやって来たのは伊豆急下田駅。
「ふむ、やっと着いたか」
「あんなに長い間電車に乗ってたのも久しぶりだわ……」
「立ちっぱなしはきつかったけど、今度はずっと座りっぱなしだとおしりが痛くなっちゃうね」
「皆、あそこにヤシの木があるのぜな!」
ふらふらと改札を抜けて駅の外に出る一同。
……しかし電車から海が見え始めた辺りからはしゃいでいた瀬名さんだけは、外に出た途端にヤシの木に駆け寄るぐらいに、その体力の多さを俺達に見せつけていた。
「皆で写真撮ろうなのぜ〜!」
「あいつ元気ね」
「ふふっ、普段から新宿に住んでると滅多に海には行けないからね」
「暑い……」
……しかし一方の長内さんは、まだ駅から出て数歩しか歩いていない筈なのに、白いワンピースという涼し気な格好をしているにもかかわらず既に顔中から汗を噴き出していた。
彼女は元々やや太り気味の体型なので、普通の人よりも倍近く、体が日光で熱せられてしまっていたのだろう。
「ってあんた顔真っ赤じゃない!?」
「ちーちー汗が凄いのぜ!」
その異様な光景に、飯田さんや瀬名さんも長内さんの容態を気づき始める。
「まぁ大変!」
ブルヘッドさんは、そのようなやかんの状態になっている彼女を見て、彼が背負っていた背中程にもある大きなリュックサックからタオルを出して長内さんに渡した。
「ブルちゃん、ありがとう……」
「……大丈夫ですか?」
「んっ、大丈夫……」
「皆も気をつけなさい? 熱中症にだけは絶対になっちゃダメよ?」
「はーい」
俺自身も、アロハシャツに短パンという灼熱地獄を想定した涼しい装備をしてきたのだが、体が溶けそうなぐらいに気温三十五度の熱線に体が蝕まれていた。
冬とは違って十七時を過ぎても沈まない太陽……歌舞伎町とは違ってビル等の障害物が無いからか、地上からの距離も近く感じた。
それにより地面が熱せられ、遠くの景色がゆらゆらと揺れ……
遠くから風と共に流れてくる潮の匂いが、恐らく俺を含むこの場にいる全員に、海に入りたいという欲をかきたたせた。
「それじゃあ早速、旅館に行きましょうか!」
「ふぅ……リゾート気分になれるのもここまでか」
「大丈夫なのぜなーな! 皆でとっとと仕事終わらせて遊ぶのぜな!」
「私は最初からただの客なのでな。 手伝ってはやれないが、仕事中に応援ぐらいならしてやるぞ」
「別に手伝わなくていいわよ、温泉でも入って待ってれば?」
「暑い……」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
……その後、俺達はブルヘッドさんに連れられて、海に沿って大きな旅館のような建物が建ち並ぶ温泉街に来ていた。
「おお、お土産屋さんがいっぱいなのぜな〜」
「こんだけお客さんも多ければ、お店も大儲けでしょうね」
「てか伊豆って海じゃなくて温泉の街だったのぜ?」
「海もそうだけど、ここでのメインは温泉を推しているみたいだね」
「少々登り坂も多い気がするが……運動した後に気持ち良く温泉に入れると考えれば、粋な計らいか」
旅館までの道中は、真緒さんが言っている通りに登り坂が多い。
ただでさえ電車に乗っている疲れもあるのに登り坂に足を酷使している今の状況……前にいる四人は、会話をする事でその疲れを発散させているようであった。
「二人も早く来なさいよ」
「簡単に言ってくれますね……そちらは大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫……」
……一方、会話に参加していない俺達は、彼女達にしっかりと尾行しつつ、一歩ずつ確実に前に足を踏み出す事しか考えられていなかった。
長内さんは相変わらず、雨に濡れたように汗を流していたが、建物の影や木陰を通って、直射日光に当たらないように歩く事で、何とか意識を保ち続けていたようだった。
「ちーちー大丈夫なのぜ?」
「良かったら僕がおぶろうかい?」
「大丈夫……」
皆が待っている中で誰かに心配される度に、長内さんは片言に大丈夫とだけ返して、ゆっくりだが俺達を追い抜いた。
顔は真っ赤で速度もゆっくりだが、俺達は誰の力も借りずに旅館に辿り着いてやろうという熱意を感じたのであった。
「二人共〜! あとはここを曲がれば到着よ〜!」
……一方ブルヘッドさんも汗をかいていたが、今の暑さに全く怯む事無く、それどころかのろのろと歩いている俺達を置いて先に進み、道案内をしながら俺達が来るのを待機していた。
「はえ〜、ブルちゃん早いのぜな〜……」
「ブルちゃん、昔は軍隊に入ってたから……こんな暑さもへっちゃらなんだと思う……」
「あら、そうだったの」
「店内がバーに似合わんミリタリー風の内装だとは思っていたが……本職の人間であったか」
俺は前々から知っていたが……そこで長内さんの解説により、真緒さん達は初めてブルヘッドさんの正体を知る事となった。
ブルヘッドさん、本名牛沢剛さんはアメリカの軍隊に属していた元隊員で……偉いのか偉くないのかはよく分からないが、階級は少佐まで上り詰めたのだという。
彼のスポーツカットに筋肉質の見た目に似合わない女のような性格と口調を聞きながら接していると……時々その事を忘れそうになる。
「……それで、今から行く旅館はブルヘッドさんの実家でもあるんだよね?」
「お父さんは亡くなったけど、お母さんは生きてるって言っていたわ……」
「ブルヘッドさんの母親……?」
あの人を育てた母親とは一体どういう人物なのか……。
全く想像がつかず、今の暑さも相まって、その時の俺は割とどうでもいい事で頭を痛めていた。
「さーて着いたわ、皆お疲れ様〜」
「はぁ、はぁ……本当だわ」
「やっと、着いたの……?」
やがて俺達の前に姿を現したのは、『うしざわ』と描かれた旅館。
ブルヘッドさんの実家である筈なのに生活感が全く感じられない、歌舞伎町ではまずお目にかかれない大きな家の前にて、俺達はそれを見上げながらその場で立ち尽くしていた。
「ここが、ブルちゃんのお家なのぜ……?」
「家っていうか、最早御屋敷ね」
「じゃあ悪いんだけど、皆ここで待っててねぇ、今中にいる人呼んでくるからぁ……ママ〜いるー?」
「ママ……!?」
そうしてブルヘッドさんはママと口にした事で、俺達が思い浮かべる彼の母親のイメージを混乱させつつも、引き戸を開けて旅館の中へと入って行ったのだった。
「お風呂の匂いがする……」
「いいわねぇ、ブルヘッドさんはこの家に住んでる時は毎日温泉に入ってた訳なんでしょ?」
「荷物を置いたら、私は早速一風呂浴びてくるてするか」
「あっ、ずるいのぜな〜」
「おまたせ〜」
そして待機している間、それぞれが会話をしていると、中から足音が近づいてきて戸が開いた。
「おやまぁこの子達がそうかい」
「そうよぉ、皆いい子達ばかりなの」
中から出てきたのは、俺達の中で一番背が低い瀬名さんと同じぐらいの背丈の老婆。
老婆は厳しそうな表情をしており、身につけている豪華な模様がついた着物から、この旅館の中でどれだけの地位に立っているのかという事が分かった。
「紹介するわねぇ、この子達がここのアルバイトに応募をしてきてくれた、飯田凪奈子ちゃんに、瀬名ひとみちゃんに、長内千夜ちゃんに、仁藤大和くんに、相楽武蔵くんよぉ」
「ふむふむ……」
ブルヘッドさんに俺達の紹介をされ、老婆こちらに近づきながら一人ずつと目を合わせて眉をしかめていた。
俺達が仕事に使えそうな人間かどうかを見定めていたのだろうか。
「うう……」
その鋭い眼光に突き刺され……目があった瞬間、瀬名さんは怯むように一歩後ろに下がっていた。
「そして皆ぁ、このおばあちゃんが家のお母さん……ここの旅館の女将さんなのぉ」
「皆東京の遠い所から、はるばるよく来てくれたねぇ、家で働くからには後悔はさせないよ」
だが挨拶を終わると、老婆は表情を緩めてニッコリと笑った。
「よ、宜しくお願いします!」
ただ厳しそうなだけでなく、彼女はしっかりと笑える優しさも兼ね備えていると確認出来た事から、俺達は胸を撫で下ろしたのであった。
「ところであんたもここに応募しに来てくれた子かい?」
「違うわぁ、この子はお客さんよぉ」
「うむ、帝という名で予約をした者だ」
「ああ帝さんだね、承ってるよ。 それじゃあ中に入ろうか」
再度扉が開かれ、旅館内の光に導かれるように中へと入る。
まず目に入ってきたのは横に広い玄関。
トイレぐらいの広さしかない事務所の玄関に比べて、この場所には何足靴を置く事が出来るのだろうか。
「ではお前達とは一旦お別れだな」
すると別の従業員と入館の手続きをしていた真緒さんが、俺達に声をかけてきた。
「そっか、てかこんだけ広ければ、仕事中にあんたと会う事も無さそうね」
「お前達のやる仕事にも寄ると思うがな、私と会った時は運が悪かったと思え」
「また後で会おうなのぜ〜!」
「あんた達が泊まる部屋はこっちだよ」
そうして玄関の受付に真緒さんを取り残し、俺達は女将さんに俺達がこれから泊まる部屋へと案内された。
木製の廊下……靴下を履いた状態で移動しているので、踵を踏みながら歩くと滑りそうになる。
「さぁ着いたよ、ここがあんた達が泊まる従業員用の部屋だ。 と言っても中身はお客さんが泊まる物と変わらないんだけどね」
「おお〜!」
戸を開けて中を確認するなり、瀬名さんは真っ先に窓の方へと接近した。
「凄いのぜ! 海がよく見えるのぜな〜!」
「夕焼けが、綺麗……」
「こんないいお部屋、泊めさせてもらって大丈夫なんですか?」
「おうとも、こんな旅館に働きに来てくれたお礼サ……でも貸す事が出来るお部屋がここの一つしか無いんだよ」
「……えっ」
その言葉を聞いた瞬間、飯田さんの表情が青ざめる。
「……ルームシェア、ってやつですね」
「ふふっ、僕は別に構わないよ」
「私達が構うのよ!」
「なら私が泊まる部屋の方に、やまちゃんとむーちゃんも一緒に泊めればよくない?」
「あたいは別にやまちゃんもむーちゃんも一緒で大丈夫なのぜ!」
「あらそーお?」
「えっ」
ブルヘッドさんからの提案に、瀬名さんはそう言い返して、飯田さんは再度その一文字を口に出した。
「皆で泊まった方が楽しそうなのぜな〜」
「ピュアねあんた……」
「ピュアってなんなのぜ?」
「私も、別に大丈夫……」
「本当? 大丈夫ちーちー?」
「うん……皆で同じ部屋にいた方が、なんか安心する……」
……そして同室の票が増えていく中で、唯一不評であろう飯田さんに、皆の視線が集まっていく。
「うっ……わ、分かったわよ! 」
「やったのぜー! 皆でお泊まりなのぜー!」
「良かった……」
「その代わり何か変な事したらタダじゃおかないんだからねっ!」
「それは大丈夫よぉ、手でも出したりしたら私が容赦しないわぁ」
「嫌だなぁ、何もしませんよあはは……ねぇ大和?」
「はい……」
勿論手を出す気など更々無いのだが、ブルヘッドさんは満面の笑みを浮かべながら指を鳴らす事で、俺と武蔵さんに威圧をかけていた。
とにかく部屋は一つしかないが、男女構わず同室という結果で話は纏まったのだった。
「今日は移動で疲れているだろうし、仕事は明日からにするよ」
「えっ、本当なのぜ!?」
「ああ、その代わりに旅館の朝は早いからね、四時までにはさっきの玄関に集合しといてくれ」
「という訳で明日まで自由時間よぉ〜、皆寝るなり海に行くなり好きにして頂戴〜」
「ブルちゃんはどうするの……」
「私はちょっとお母さんと話があるから……ちーちーはとりあえず皆と一緒にいるのよぉ?」
「分かった……」
そしてブルヘッドさんは長内さんにそう言い残した後、女将さんと共に部屋の外へと出て行った……。
「早速海に行くのぜ海! あぁあとさっきの温泉街も探検したいのぜな〜!」
もう今日は仕事をしなくてもいい。
それを知って義務という名の鎖が体から外れ、自由になった瀬名さんは目を光らせながら、彼女が今思い浮かべている計画を興奮気味に口に出していた。
「落ち着きなさいよあんた、まずは真緒と合流するのが先でしょう」
「あっ、そうだったのぜな……」
「ふぅ、自由時間はいいけど、旅館についてからすぐに仕事だと思っていたから気が抜けちゃうね」
「私も、すぐにお仕事するのかと思ってた……」
「お二人共、仕事熱心ですね」
旅館で泊まれるからと浮かれているのでは無く、あくまで一応は働きに来たのだという自覚を持っていそうであった武蔵さんと長内さん。
夏の海に惑わされない程の、彼等が日頃からどれくらいの労働意欲を持っているかが分かった。
「まぁブルヘッドさんも遊んでもいいみたいに言ってたし、ここはありがたく英気を養わせて貰いましょ」
「そうなのぜ! 今の内に沢山遊んでおくのぜ!」
「……っと、真緒から返信が来たわ。 入り口で待ってるから早く来いですって」
「じゃあ行こうか」
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「……ふむ、そういう事だったのか」
その後、荷物を部屋に置いて身軽になった真緒さんとも合流し、彼女に今日は仕事はしないという先程の事を説明した。
「そうなの、だから明日の四時になるまでは暇なのよ」
「四時か……流石に早起きだな」
「早く起きる為には早く寝ないといけないだろうし……二十時ぐらいには寝れるようにしておいた方がいいかもね」
「だとしたら、あと一時間ぐらいしか外にいられないわ……」
「ええ〜」
先程の繁華街を歩きながら、皆で自由時間の制限についての話をしていると、瀬名さんはツインテールをしょぼんと垂らしながら残念そうな顔をした。
「今日遊べなかった分、また明日遊べばいいわ……」
「うん……」
そんな彼女を、すぐ隣にいた長内さんは頭を撫でて瀬名さんを慰めた。
「だとしたらまず何処に行くかだが……」
「皆さん、お腹は空いていらっしゃらないのですか?」
「普通ね」
「新幹線で食った分の飯が、まだ腹に残っているな」
「あはは……こういう美味しそうなお店が沢山ある場所にいる時に限って、あんまりお腹空いてなかったりするんだよね〜」
海鮮丼、寿司屋……ここは海沿いにある温泉街なだけあって、魚関係の店が沢山立ち並んでいる。
その誘惑が効かない分、俺達は新幹線でたらふく飯を食って来ていたのだ。
「じゃあ……どこに行くの……」
「海に行くのぜ!」
そして長内さんが振り出しに戻すと……彼女に被せるように、瀬名さんが食い気味にそう答えた。
「海って言ってもあんた、この時間からじゃ泳げないわよ?」
「分かってるけど……泳がなくても海の近くまでは行ってみたいのぜ!」
「ふむ、行ってチラッと見て帰ってくるだけなら、大して時間もかかるまい」
「明日海で遊ぶ為の、ちょっとした下見ってやつだね」
「では行きましょうか」
そうして繁華街を抜けて海を目指す俺達。
ここの温泉街は人で賑わっているが、歌舞伎町とは違い背の高い建物がホテルぐらいしか無いので、とても見通しが良く何処に海があるかも分かりやすい。
……やがて大通りを横切って街の光が無くなり、喧騒の代わりに聞こえてきたのは波の音。
コンクリートでは無い柔らかい砂の感踏が、俺達は本当に海にやって来たのだと実感させる。
「おお〜、ここが海なのぜか〜!」
「……って言っても暗くてよく見えないけどね」
「水平線だか夜空だか分からんな」
「ははっ……でも潮風が気持ちいいね」
「……そうですね」
その砂の上に皆で足跡をつけながら、海へと近付いて行く俺達。
「早く〜、皆おいでなのぜ! 冷たくて気持ちいいのぜな!」
海を見て楽しむ事が夜空に拒絶されている今の時間だが、それでも瀬名さんはいつの間にか裸足になって浅瀬に入っており、今の状況を楽しんでいるようだった。
「あんた行動が早いわね……」
「えへへ、入らずにはいられなかったのぜ」
「……しかしこうして見ると、星が綺麗に見えるな」
「……そうだねぇ。 思えば新宿の外で、こんなに暗い場所なんて無いんじゃないかな?」
「なーなは入らないのぜ?」
「いや入りたいけど……お楽しみは明日遊ぶ時に取っておきたいような……」
「ふふっ、僕達は砂のお城でも作るかい真緒ちゃん?」
「よせ、子供でもあるまい……それならば石を投げて遊んでいる方がマシだ」
浅瀬でパシャパシャと海水を踏んでいる瀬名さん、彼女に誘われて入るか躊躇している飯田さん。
しゃがみながら砂を掬っている武蔵さんと、彼からの誘いを蹴りながら、地面の石をサイドスローで投げて水面で六回跳ねさせた真緒さん。
……海に来て早速、それぞれが新宿では体験する事が出来ない、束の間の夜の海にて自由時間を過ごしている。
「……」
……一方、長内さんは夜風に髪を靡かせながら、海の水面で揺れている月をじっと見つめている。
日頃都会に囲まれている環境にて過ごしている身……潮風に包まれて星が見える、自然の匂いや景色に癒されているのか。
はたまた海に入れなくて、早く帰りたいと退屈そうにしているのか……無表情な彼女の喜怒哀楽は分かりずらい為、真相は聞いてみなければ分からない。
「……長内さん?」
「入りたい……」
「えっ?」
「でも私……ロングスカートだから、今は入れない……」
そうして瀬名さんと、結局海水に足を踏み入れている飯田さんを羨ましそうに見ている長内さんの様によって、彼女が今何を考えているのかが分かった。
「……少しだけ捲って入ればいいと思いますよ」
「あと、暗いから何だか怖い……」
「……ああ、それは分かります」
長内さんの真っ白なスカートとは対象的に、暗くて浅瀬でさえ地面が見えない黒い海。
入ったら最期何が起こるか分からない……この時間帯は危ないから来るなと海が言っているような、自然の脅威を感じる。
「……」
……しかしそれでも、長内さんは入りたいのか再度海をじっと見つめている。
このまま躊躇していたら、あと波の音が数十回聞こえてくる内に時間切れになってしまう事だろう。
「……なら俺も入りますよ」
「えっ……?」
皆で入れば怖くない……よく聞くその理論を使って、長内さんを海に誘い入れる方法を試してみる。
サンダルを素早く脱ぎ、波に引きずり込まれながらも浅瀬に足を入れる。
「どう……?」
「……大丈夫ですよ。 気持ちがいいです」
暗くて底が見えないという恐怖さえ乗り越えてしまえば、実際に海に足を入れるとその場には砂しか無いという事が分かる。
やがて最初の恐怖は、夏の暑さと海水の冷たさが融合して心地の良い温度が足を包む事によって、快感へと変わっていくのであった。
「……」
そして長内さんもサンダルを脱ぎ、スカートを両手で捲りながら、ペンギンのように歩幅を小さくして、つま先を一歩ずつ確実に浅瀬へと近付かせて行く。
「そんなにビビんなくても何もいやしないわよ」
「ちーちーも早くおいでなのぜ!」
「っ、冷たい……」
飯田さんや瀬名さんの応援もあって、それからついに長内さんは最初の一歩を海に踏み出して、やがて足が全て隠れるまで浅瀬に入る事が出来た。
「良かったですね、何とか入れて」
「うん……砂が気持ちいい……」
足元で起きている波紋をじっと見つめている長内さん。
波に連動して泳ぐ砂が足に触れる感覚が擽ったいのか、彼女は時節ふるるっとその部位を震わせていた。
「海自体に入るのは何年ぶりぐらいでしたか?」
「五年ぶり……ぐらいだったと思う……」
「アメリカでも、頻繁に海に行っていた訳では無かったのですね」
「うん……海が無い州に、住んでいたから……」
感情が分からない長内さんだが、質問をするとしっかりと答えてくれる。
今日だけでも、結構長内さんの過去を知る事が出来たと思う。
普段から黒百合にいるイメージしかない彼女にとって、外でこうした時間を過ごせる事自体が貴重なのだ。
どうせなら皆とも、仲良くなれるだけなっておきたい。
「うぅ……でもやっぱり泳いだりしたいのぜよ……あそこの岩から飛び込んで来てもいいのぜ!?」
「別に止めはしないけど、あんた一生旅館の中に入れなくなるわよ」
「それにもう七時になるぞ。 飯を食ったり風呂に入ったりするならば、そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
「おお、もうそんなに時間が経ったんだねぇ」
「じゃあそろそれ帰りましょうか」
「うん……」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
……その後、風呂は施設内の温泉を利用してもいいとの事だが、まったりと露天風呂に使ってる暇も無く、カラスの行水が如く髪の毛や体を洗っただけで風呂を後にした。
そんなこんなで七時半。
真緒さんとも別れ、俺達五人は部屋に戻って睡眠を取ろうとしていた。
「えへへっ、流石に飛ばしすぎたのか、まだ八時になって無かったのぜ」
「でも沢山寝れるに越した事は無いわよ」
「うん……丁度、眠たくなってきたし……」
風呂上がりの女子達三人と一緒に部屋にいる事で、部屋内がシャンプーのいい香りで包まれる。
俺達男にとっては、プラスでしか無いだろうが、女子達にとって今の状況は不安でしか無いのだろう。
しかし武蔵さんは、幸せそうにニコニコと笑っていた。
「じゃあこっちが私達の陣地だから、例え寝相が悪くても、こっちに入ってきた時は承知しないんだからね!」
「大丈夫だよ。 逆に君達がこっちに入ってきちゃった場合は、そのまま一緒に寝ていいからね」
「相楽くん、何だかえっち……」
「でもあたい、寝相が悪いからそっち行っちゃいそうなのぜな……」
「大丈夫よ二人とも、私があんた達を守るから……」
「では電気を消しますね」
「おやすみ〜」
そうして部屋を大きく二つに分けて、性別の違うそれぞれでその二箇所に陣取る事で、同室でも健全に部屋を利用しながらも睡眠を取る事が出来た。
周りから兄貴達の鼾が聞こえてこない、そんな中で寝れるというだけでも天国だ。
しかし、女子達に囲まれながら寝るというのも、慣れない状況で緊張するものだ。
だがその緊張や明日に対しての不安を打ち消してしまうぐらいに溜まっていた、移動中の疲れによって俺はあっという間に夢へと旅立って行ったのであった。
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