第三章『緑の夏』
第二十五話『都の彼方にて』
……青い空、白い雲。
そして空の青さを水面へと映し出し、ゆらゆらと揺れている海。
その海は、八月の暑さによって火照らされていた人々の体を冷やし、癒し……そして汚されていった。
「お〜い、美紀ーっ!! そっちボール行ったぞパスパス!!」
「あぁん! ちょっと強く打ちすぎ!! 届かない!!」
「ギャハハハハッ!! ちょっと下手くそすぎるでしょ!!」
……現在、俺は伊豆の海岸にいる。
そして今、海ではしゃいでいる頭の悪そうな奴等を見ながら、浜辺に落ちたゴミを回収している所だ。
「チッ……」
その時の俺は決して、ゴミ拾いなど辞めて、俺も海に入ってあいつらみたいに遊びたいなと、羨ましい目で奴等を見ていた訳では無い。
……ゴミをゴミ箱に捨てるという、小学生でも簡単に出来るような行為を、立派な大人であるお前達は出来ないのかという、愚か者を見る目で見ていたのだ。
現在もそのような小学生以下の大人達は、江ノ島の浜辺の様々な場所にテントを構え、そこで酒を飲んだりしては浜辺を汚している最中だ。
それにより浜辺のあっちに行ったりこっちへと行ったりとゴミ拾いをしなければいけないし、三十五度という猛暑日による熱さに体を蝕まれていた事もあり……既に俺は精神的に限界を迎えていた。
……海から鮫でも現れて、こいつら全員喰い殺していってくれないだろうか。
そのようになっている惨劇を想像しながら、日焼けをする為に水着のホックを外してうつ伏せになっているギャル風の女を横目にしつつ、俺はどんどんとゴミを回収していった。
「はぁ……こんなもんだろ」
その後……ある程度ゴミを回収した俺は、グサグサと体に突き刺さる日光から逃れる為、海の家の大型テントの下に避難をしていた。
「お疲れ様〜。いや悪いねぇ、こっちの仕事まで手伝って貰っちゃって」
海の家の従業員用のクーラーボックスの中に入っているアクエリアスをごくごくと飲んでいると……そこに、アロハシャツを着ているブルヘッドさんがやって来た。
ブルヘッドさんは俺が回収してきたゴミの量の多さに、同情するような表情を浮かべながら、俺の頭にタオルを掛けてきた。
「ありがとうございます……どいつもこいつも、マナー悪すぎです」
「そうだねぇ、海が可哀想だわ」
「ふぅ、ふぅ……」
……そしてもう一人、テントへと避難をする為に、一人の女がその場所へとトロトロと歩いてきていた。
「おっ、ちーちーも帰ってきたわね」
「長内さん……大丈夫ですか……?」
「ふぅ、ふぅ……暑い……溶けそう……」
俺と同じようにゴミを拾いに、浜辺へと出撃しに行っていた長内千夜さんである。
長内さんは汗をダラダラと流しながら、激しく動いた訳でも無いのに肩で息をしていた。
「ちーちー? 無理な時はちゃんと無理って言わなきゃダメよ? 我慢なんて絶対にしちゃダメなんだからね?」
ブルヘッドさんは長内さんが被っていた麦わら帽子を取り、タオルを被せて彼女の頭に溜まった汗を撫でるように拭いてやっていた。
「大丈夫……少し休んだら、またゴミ拾いに行ってくるわ……」
「……アクエリアスでいいですか?」
「仁藤くん……ありがとう……」
長内さんは俺から渡されたアクエリアスを受け取ると、長い前髪をかき分けながら、彼女もごくごくとアクエリアスを飲み、体内へと吸収した。
長内さんは明らかに疲れていたが、まだまだゴミ拾いを辞めるつもりはないようだった。
俺も彼女に負けず、ゴミ拾いをしに再出撃をしなければ。
……何故これまで歌舞伎町で日雇いの仕事を続けていたはずの俺が、現在伊豆にて千夜と共にゴミ拾いをしているのか。
それは遡る事、今から三日前……。
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……八月四日、日曜日。
学生達は夏休みの真っ只中であり、家でゴロゴロとしたり友人達と何処かへ出掛けたりと、まだまだ始まったばかりの大型連休を大いに満喫している頃であろう。
……しかし、社会人になると、今まで毎年当たり前のように過ごして来た夏休みは、突如としてやって来なくなる。
当然、この俺にも夏休みなど贅沢な物は存在せず、相も変わらず日曜日以外全ての日に狂うように働いていた。
「いやぁ……こんなクソ暑い中、ほんとお疲れさんです」
事務所にて、俺が素麺の一式をテーブルに並べている中、斬江は外の花道通りで汗水流しながら、通りのあちらこちらを行き来しているサラリーマン達を眺めていた。
「大和も頑張りなさい? 疲れたとか言ってる場合じゃないわよ。 あそこにいるおじさん達なんか貴方の倍以上は頑張ってんだからね」
「……はい」
……言われなくても頑張っている。
当初あった四千万の借金も、その時点でようやく三千九百万円まで減らした所だ。
……四ヶ月で百万円、一年で三百万、三年少し経った所で漸く一千万程を返す事が出来る。
四千万を完済した頃には一体どれぐらいの年月が経ってしまっているのだろうか……。
俺はその事に途方に暮れながら、刻みネギと刻み海苔の入った小皿を、それぞれ兄貴達が座っている席の前に置いた。
「……にしても本当に暑いわぁ、今日何度ぉ?」
「三十三度だそうです」
「はぁ!?」
斬江は、団扇で自分の緩めたワイシャツの胸元に向かって扇いでいたケンさんから今日の気温を聞き、驚愕しながらテーブルの自分の席へとどさっと腰掛けた。
「五月でも三十度越えていた日はあったけれど、八月で三十三度って……このままじゃ十二月頃には、きっと五十度ぐらいまで上がっちゃうんじゃないかしら」
「……」
あまりの暑さで壊れてしまったのか、ただ単純に冗談で言ったのか、斬江のその言葉で事務所内が一瞬にして静まり返った。
「てめぇら笑えやゴラァ!!」
その気まずい空気をぶち壊す為に、ケンさんは持っていた団扇を床に叩きつけながら立ち上がり、俺達に向かって怒号を飛ばした。
「えっ!? あっ、あははは……!!」
豪さん、将太さん、大輝さんはあまりの暑さにボーッとしてしまっていたが、斬江の不機嫌そうな表情とケンさんから放たれた怒号により、冷や汗が出た事で少しだけ涼む事が出来たようだった。
「ははは……」
俺は声を出すだけで笑いながら、その場から逃げるようにして台所へと箸を取りに行った。
「頂きまーす」
……やがて、卓上に全ての素麺の一式が揃い、俺達は斬江の号令が掛けられると同時に素麺を啜り、その麺の冷たさにほっぺたを落とした。
「ご馳走でした〜」
……その後、素麺を食べ終えた兄貴達の中で、ケンさんと豪さんと将太さんが席から立ち、何処かへと出掛けようとしていた。
「あら、貴方達何処行くの」
「府中っす」
「……って事はまた競馬場行ってくんの?」
「はい、今日こそ勝って、すんげえ金稼いで来ますよ」
「そう、使いすぎてくんじゃないわよ」
「へい」
「……では私も」
「あら、大輝も何処か行くの?」
「へい、釣り行ってきます」
「そう、天気に気をつけんのよ」
「へい」
そうして大輝さんは釣りに、それ以外の兄貴達は競馬場のある府中市へと出掛けて行った。
兄貴達も俺と同じく日曜日は休みであり、その日になると、いつもどこかへと出掛けているのだ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃ〜い」
俺は、斬江からの制約をかけられていない兄貴達を羨ましく思いながら、兄貴達が外に出ていくのを見送り、皆が汚した食器を台所へと戻して洗い流した。
「大和は今日、真緒ちゃんやあのキャバ嬢の子達とは遊ばないの?」
皆が事務所から出て行く中、一人だけ黙々と皿洗いをしていた俺に、斬江はスーツを脱いでワイシャツのボタンを少し外し、冷凍庫の中からガリガリ君を出しながらそのような質問をしてきた。
「はい、今日はここでのんびりしようと思っています」
斬江にロイヤルメイデンでの解雇を言い渡されたあの日から……俺は日曜日になる度に、最近は同じく休日である真緒達と会うようになった。
その度に武蔵さんがついて行き、斬江はその場所で俺が何をしたのかの全てを把握している。
「……そう言って本当は、皆と一緒に海にでも行きたいと思ってるんじゃないのぉ?」
帝真緒さん、飯田凪奈子さん、長内千夜さん、瀬名ひとみさん……そんな少女達に囲まれている俺が、何か良からぬ事を考えていると斬江は思っていたのだろう。
彼女はガリガリ君を舐めながら、皿洗いをしている最中の俺の頬を、ぷにぷにとつついてちょっかいを出してきた。
「いいえ、ただ単に今日は独りでいたい気分なだけです」
「本当に〜?」
「斬江さんはこれから、どのようなご予定なんですか」
「うーん、外に出るのも暑くて嫌だし、家に戻んのも面倒だし……今日は事務所(ここ)でごろごろしているわ」
彼女は俺の質問を答えながら、ガリガリ君の舐め終わった棒をゴミ箱に捨てた後、先程まで兄貴達が座っていた黒革のロングソファにゴロンと仰向けで寝転んだ。
「……そうですか」
そこには、腰から赤色のレースのパンツをはみ出させながら、他の兄貴達に見せられない程にだらけていた三十歳女性の姿があった。
……とても歌舞伎町を統べる皇組の組長であり、俺の人生を百八十度変えた女だとは思えない。
まるで自分の母親のみっともない姿を見ているようで複雑な気分だ。
「……?」
そのような気持ちになりながら、洗い終わった皿の最後の一枚を水切り籠に立て掛けると……突如ドアの方で、誰かが外からノックをしているような音が耳に入ってきた。
「んー? 誰かしら」
斬江のその音に反応し、怠そうにむくりと体を起こしてドアの方を見た。
「……俺が出ます」
……一応確認しておくが、ここは皇組のヤクザの事務所だ。
そのような物騒な場所に、自らやって来る命知らずの訪問者といえば……宅配便の者か、あるいは皇組の身内の者ぐらいしか来る事は無い。
ドアの向こうの訪問者はノックをした後も無言だったので、少なくとも最初に自分の身分を名乗る宅配便の者では無いであろう。
ならば武蔵さんのような皇組の人間か。
……あるいはこの場所に襲撃をしにやって来た、帝組のような敵組の連中か。
斬江に背後から見守られる中……俺は恐る恐る、ドアに付いているスコープから外の様子を覗いた。
「……!」
……しかし外ではブルヘッドさんと長内さんが、ノックをしても反応が無かった為に、これからどうしようかと困った表情でお互いに見つめあっていた。
「誰だったの?」
「ブルヘッドさんと……長内さんです」
「ブルヘッド?」
来訪者の正体が分かると同時に警戒心が解けて、体内に溜まっていた力が抜けるのを感じた後、俺は扉を開けて二人を中に入れた。
「こんにちは〜やまちゃん、斬江」
「こんにちは……」
意外な来訪者に、斬江はワイシャツの第一ボタンを止めながら二人を見て目を丸くしていた。
「あら珍しいじゃない。 そっちの方からここに来るなんて、何か用?」
「ええ、ちょっとね」
「ふーん……まぁとりあえず座って頂戴」
「お邪魔しま〜す」
「お邪魔します……」
そうして斬江から着席の許可を得た二人は、彼女の座っているソファの向かいに腰を下ろした。
「いやぁ暑い暑い……最早外はサウナね。 ちーちーは大丈夫? 気分とか悪くない?」
その時のブルヘッドさんは黒いタンクトップに、下は迷彩柄のハーフパンツを履いていた。
そのような露出度が高めの涼しい格好でも彼は汗だくだったので、外がどれ程までに灼熱地獄と化していたのかがよく伝わってくる。
ブルヘッドさんは持っていた扇子で自分の顔に向かって扇いだ後に、続けて長内さんの頭に向かって扇いでやっていた。
「うん、平気……」
そして長内さんはブルヘッドの隣で、極道の事務所という堅気からしたら心霊スポットのような場所に、緊張をしていたのか身を縮めるようにちょこんと座っていた。
「貴方は確か……冬から黒百合で働いてるっていう」
「はい……長内千夜です……」
何だかんだ初対面である、斬江と長内さんの二人。
長内さんは斬江にぺこりとお辞儀をしながら自己紹介をした。
「……麦茶です。 良かったらどうぞ」
一方の俺は二人が席に座ろうとしている間に、台所へと行き三つのコップに氷入りの麦茶を注いでいた。
「あら気が利くじゃないやまちゃん、ありがとう」
「仁藤くん……ありがとう……」
「……はい」
とりあえず兄貴達に昼飯を食わせて皿洗いを終えた時点で、俺の今の事務所での仕事は終わりだ。
そうして俺は、やっと休めると心の中で溜息をついた後に、斬江の座っているソファの後ろに立って、彼女が煙草を取り出したと同時に、その煙草に火をつけた。
「ふぅ〜……それで一体どうしたの?」
斬江は二人に煙がかからないように、上に向かって煙草の煙を吐きながら、早速ブルヘッドさんに対して本題を切り出した。
「実は私の実家が伊豆にあって、旅館の仕事をしていてねぇ……帰省がてら、お仕事を手伝いに行こうかなって思っているの!」
「あらそうなの」
「後そこでは、丁度リゾートバイトって奴の募集をしててねぇ」
「もし良かったらって事で、今回はやまちゃんを誘いにここに来たって訳なのぉ」
「……え?」
暫くの間、ぼーっとしながらブルヘッドさんと斬江の会話を聞いている中で……俺は思わず、我に返るようにそのような声を出してしまった。
「バイトにはここにいるちーちーだけじゃなくて、なーなやとみーも来るわよぉ〜」
「……そうなのですか」
「うん〜、勿論仕事終わりには皆で海で遊んでもいいの!」
「尚且つお金も稼げるから、こんなに一石二鳥な事は無いわぁ」
「ふむ……」
それから話は進んでいき、ブルヘッドは俺から斬江に視線を移しながら、彼女にその提案を投げかけた。
金を稼ぐ事よりも、俺にとっては真緒さん達と海辺の街で過ごせるというメリットしかない今回の企画。
「……因みに、期間はどれくらい?」
「二週間よぉ〜」
……しかし、斬江の元に皇組として飼われている俺は、勿論行きたくても斬江の許可が無ければ行く事はできない。
そんな彼女は即答で断るものだと思っていたが、意外にも試行錯誤をして悩んでいるようであった。
「……」
長内さんはそのようにして下を俯いている斬江が、イエスと答えてくれるのを祈るようにして、彼女の事をじーっと見つめていた。
……その後、答えが出たのか、すっかり短くなった煙草を灰皿に押し潰した後に、ブルヘッドの方に顔を上げた。
「……良いわよぉ」
「……えっ、良いんですか?」
「えぇ、大和も日頃からお仕事頑張ってるし、そういう場所に行って皆で日頃の疲れを癒してくるといいわぁ」
「……勿論お金もしっかりと稼いでくるのよ」
「というわけでやまちゃん、一緒に頑張りましょうね〜」
「……はい」
……最初から断るつもりは無いが、"嫌だ" なんていう拒否権が使える立場でも無かった俺は、皆に注目されている中で強制的に首を縦に振る事しか出来ないでいた。
まるで首輪を付けられて、飼い主にリードでずるずると地べたを引き摺らされている犬になった気分だ。
皇組という組織に所属している以上、俺のような下っ端の組員は、飼い主である斬江にとって、自分はイエスでもノーでも何でも言う事を聞く犬でしか無いのだ。
「……?」
現在、俺の表情を見て、首を傾げている長内さんも……真緒さん達と一緒に過ごせる条件を貰いつつも、ブルヘッドさんからの命令で嫌々江ノ島に行こうとしているのだろうか。
彼女も俺と同じように、黒百合でブルヘッドさんという飼い主に飼われている、アルバイトという名の犬でしか無いのであろう。
……犬に例えるよりは、どちらかという猫の方が似合っているような気もするが。
「じゃあやまちゃん、早速支度してらっしゃい。 そうねぇ……三日分の着替えさえ用意出来れば十分だわ」
ブルヘッドさんはそう言うと席から立って、福の胸ぐらにかけていたサングラスを、再度目元へと装置した。
「……って今から行くんですか?」
「ええ。 あぁ、あと水着持ってる?」
「……持ってないです」
当然だ。
日頃から仕事三昧な為に海やプールに行く暇が無ければ、水着など持っている筈も無かった。
「水着なら、ドンキに行って買えばいいでしょうよ」
「斬江さん……いいんですか?」
「ええ、でもあんまり高すぎるのは駄目よ〜」
「じゃあとりあえず服だけを用意してきて頂戴」
「……はい」
その後、俺はシャツ、ズボン、パンツをそれぞれ三枚ずつを、事務所にあったボストンバッグへと詰め込んだ。
これが冬場であったら、上着やら何やらも用意しなければならないので、今よりも更に多くの荷物を持ち運ぶ事になっていたであろう。
「では斬江さん……行ってきます」
「ええ……いつも通り、稼いで稼いで稼ぎまくってきなさい」
……所詮俺は、斬江にとって組で金を稼ぐ為の道具でしか過ぎないのであろう。
しかし、出掛ける直前に彼女は、戦地へと旅立つ息子を見送る母親のような、寂しくも悲しそうな顔をしながら、俺の肩にぽんと手を置いた。
日頃から俺に仕事を与える事で、俺の事を道具と思っているのか。
実質的な夏休みを与えたくれた事で、未だに俺の事を愛してくれているのか。
……どう思っているのか分からず、そんな彼女の表情を見ていると調子が狂う。
「……では失礼します」
「じゃあね〜斬江、お土産ぐらいなら買ってきてあげるわよ」
「お邪魔しました……」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
その後、ドンキホーテで水着を買った俺は、長内さんとブルヘッドさんと共に、電車に乗って伊豆へと行く為に駅へと向かおうとしていた。
「おっ、来た来た」
「おお〜! やまちゃんも誘う事が出来たのぜなぁ!」
伊豆に向かうにあたって、ブルヘッドさんはまず新宿駅で皆に待ち合わせをするように伝えていたらしい。
そこでは伊豆での環境に適応できる涼しい格好をした、瀬名ひとみさんと飯田凪奈子さんがいた。
「……本当に皆さんをお誘いしたのですね」
「そうよぉ〜、なーなもとみーもよく来てくれたわぁ〜」
「……しかし瀬名さんはともかく、飯田さんはロイヤルメイデンでのお仕事もある筈なのに、伊豆でのお仕事に来て宜しかったのですか?」
「大丈夫よ、ロイヤルメイデンからお休みも貰ってるし、休んでる時に別の仕事もするっていうのも変な感じだけど、皆と一緒なら実質遊びに行くようなもんよ」
「そうなのぜ! お仕事するだけじゃなくて沢山遊ぶのぜな〜!」
年柄年中暇そうである瀬名さんはともかく、自分の事情が片付いている、瀬名さんに肩を組まれている飯田さんもまだいい。
「遊ぶのはいいが、しっかりと仕事はこなしてから遊ぶのだぞ?」
「分かってるのぜ〜」
……しかしその場には、瀬名さんがもう片方に肩を組んでいた帝真緒さんもいた。
「……真緒さん、貴方もお仕事に応募されたのですか?」
「違う、私はタダの客だ。 私も働いて良かったのだが、警察官だから副業が出来なくてな」
「なら私達に着いてこなくても別の日に来なさいよね……」
俺達と働けなかった事に対して、特に残念そうに思ってなかった真緒さんに対して、飯田さんはそのようにボソッと呟く。
「何、お前が浴衣姿でペコペコ接客している姿を見るのが面白そうだったからな、折角だから見に行ってやろうと思った次第だ」
「来んな来んな、ペコペコしている姿なんて、ロイヤルメイデンで散々見てるでしょうが……」
「暇になったら、まおまおも一緒に遊ぶのぜ!」
「勿論良いぞ」
「いやぁ〜、水着で遊ぶ女の子達を見るのは楽しみだねぇ、ねぇ大和?」
「は、はい……」
……そして、違和感無くその場に溶け込んでいた武蔵さんもいる。
斬江は伊豆での仕事を許可したとは言え、そこから俺が遠くまで逃げ出すかも分からないという事だ。
……勿論彼がいる最大の目的は、俺の監視である。
「むーちゃんも応募してくれてありがとねぇ〜」
「いえいえ! 海で遊びながらお金も稼げるなんて、こんないい事は無いですよ」
「なーんか変な風に聞こえるわねそれ」
「見てるだけじゃなくて、むーちゃんもあたい達と一緒に遊ぶのぜ!」
「ポロリか何かでも期待しているのかお前は」
「いやぁ、そんな事は無いよあはは……皆宜しくね!」
意味深な言葉を吐いた事で、帝さんと飯田さんから反論の総攻撃を喰らう武蔵さん。
休みの日……俺が彼女達と共に歌舞伎町から出て行動する度に、彼も毎回監視役として着いてきていた。
そこからいつの間にか何度も彼女達と顔を合わせる事で、同年代である武蔵さんとも仲良くなっていたという訳だ。
「じゃあ、全員集まった事だし! 早速伊豆に行くわよぉ〜」
「おーなのぜー!」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊豆は静岡県の南西部……魚のような地形の尾ヒレに位置する場所にある。
神奈川県を横切る距離を移動する為に、主な移動方法は新幹線……俺達はまず東京駅に行こうとしていた。
「新幹線に乗るなんて、中学ん時の修学旅行以来なのぜ!」
「そもそもプライベートで新幹線に乗る事自体が初めてだわ」
「普段から県外に出る事も無ければ、新幹線に乗る事も無いからな」
「どれくらい早いんだろうね〜」
瀬名さん達が新幹線の話題について盛り上がっているグループが出来ている中……俺と長内さんだけは、その会話に入らず列の先頭にてホームの温い風を浴びていた。
「……」
「……」
今会話が出来るのは、隣にいる長内さんだけ。
しかし俺達は元々無口な性格なので話す話題も見つけられず……周りの人達の会話を盗み聞きながら、暫く呆然と電車が来るのを待ち続けている時間が続いた。
「私……海行くの、初めてなの……」
……数分後、長内さんは何かを思い出したかのように唐突に口を開いた。
「……そうなのですか?」
「正しく言えば……日本の海に行くのが、初めて……」
「……そういえば長内さんは、歌舞伎町に来る前にはアメリカにいらしたんでしたね」
「うん……」
時々忘れそうになるが、長内さんは八歳の時からの十年間はアメリカに住んでいたのだと言う。
その影響からか、道を尋ねる為に黒百合に訪れた外国人と流暢な英語で話していた時もあった。
「アメリカの海はどんな感じでしたか?」
「綺麗よ……あと海岸が広い分、人も多かった……」
彼女の日本語が上手く話せないような感じの話し方も、アメリカで英語を話し続けていた事が影響しているのだろう。
「……いやぁお待たせ皆! 人が凄い並んでたから、結構時間がかかっちゃったわ! 電車は……おっ、丁度来たわね」
その後、トイレから戻ってきたブルヘッドさんと共に、俺達は東京行きの電車に乗り込んだ。
俺達以外にも、この夏休みを利用して何処か旅行に行こうとしている人達が沢山おり、車内は瞬く間に満員となった。
「ふーっ、涼しいのぜ……」
「確かに涼しいが……少し冷房が効きすぎではないか?」
「ねー、お腹冷えちゃうよね」
「こんだけ人がいるんだもの、冷房切った途端サウナみたいになるわよ」
「うう……」
「ちーちー大丈夫? 寒くない?」
「大丈夫……」
伊豆には果たして、今の満員電車よりも辛いような仕事が待ち受けているのか。
それを思うと不安だが、やはり帝さん達と海で遊ぶ光景を思い浮かべると少し気が楽になる。
歌舞伎町で働くようになってから、都会から離れて過ごす初めての夏。
今はただ何も嫌な事が起きず、それが良い思い出になってくれますようにと祈るばかりである。
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