第二十四話『代わりに喜んで』

「それじゃあなーなのテスト終わりを記念して〜……かんぱーい!」


「「「かんぱーい!」」」


……時刻は二十一時。


歌舞伎町で過ごしている大人達にとって、夜の本番となるこの時間帯……バーである黒百合の使徒にて、そんな人々に紛れてまだ大人になっていない少女達はとある宴を開いていた。


「そら飲め飲め。 別に奢ったりはしてやらないが、飲み物が切れたら注ぐくらいはしてやるぞ」


「おめでとうなーな♪ この人はこう言ってるけど、どれでも好きな物一つだけなら頼んでいいからねぇ」


「飲み物も、一つだけなら大丈夫……」


「何ならあたいが奢るのぜ!」


「いいわよ〜、あんたは自分が頼みたい奴だけ頼めばいいわ」


「えぇ〜」


「でもありがとう皆……嬉しいけど、いざ祝ってもらうと恥ずかしいわね……」


真緒さんに長内さんに瀬名さん……一人はブルヘッドさんというニューハーフだが、今回の宴の主人公である飯田さんは少女達に囲まれて、照れくさそうに礼を言った。


……その光景を背後から見ている俺。


そう……俺は飯田さんと黒百合についた直後、事務所に戻り彼女の加湿器を取りに行っていたのだ。


「少ない時間の中でも、必死に勉強してきたんでしょう? それだけ頑張ってきたのなら、辛かった分ここでどんちゃん騒ぎしても、バチは当たらないと思うわぁ」


「ブルヘッドさん……ありがとうございます」


「しかしまだテストがいい結果だとは限らんだろう、油断はしない事だな」


「分かってるわよ……」


遠回しにお疲れ様と言ってきたブルヘッドさんと、そこで喜びつつも飯田さんは真緒さんに現実を突きつけられる。


「それで……問題はちゃんと解けた……?」


「ええ、一教科だけで少なくとも、七十点ぐらいは行って欲しいわね」


「テスト中のなーな、ずっとシャーペン動かしてたから絶対それぐらいは行ってる筈なのぜ!」


飯田さんに解答中の模様を聞いてきた長内さんと、飯田さんの解答中の様子を見ていた瀬名さん。


少女達の会話が飛び交っている中で、彼女達の会話にどうやって入り込むか隙を伺いつつも、どうやって加湿器を飯田さんに渡そうかシミュレーションを思い浮かべる。


「あっ、やまちゃんなのぜ!」


「仁藤くん、おかえり……」


それから店に戻ってきてから三分後……瀬名さんに続いてやっと皆に俺の存在に気づいてもらい、彼女達の元へと向かった。


「いつの間にか消えて、いつの間にか現れたのかお前は……忍者のような奴だな」


「今までどこに行ってたのよ……てか何その紙袋」


そして手に持っている加湿器の存在まで気づかれる。


結局自分の中で、さり気ない上手なプレゼントの渡し方が思いつかなかった。


ええい無駄に格好を付けようとするな。


結果的に加湿器が飯田さんの手に渡す事が出来れば何でも良いではないか。


「これを取りに行ってました……差し上げます」


「えっ……て事はこれが……」


そうして多少ゴリ押しになってしまったが、飯田さんが日頃から生活に苦労している中でもテストを乗り越えたご褒美として、加湿器をプレゼントする事が出来たのであった。


飯田さんにとっては加湿器を手に入れるという夢は小さな物だったかもしれない……


しかし一方で、俺にとって飯田さんに加湿器をプレゼントをするという夢は、短期間で生まれた物にしても結構大きな物だった。


「あら柑橘系ね、食器用洗剤とかの香りでもこういうの大好きよ私」


早速中身を開けて、加湿器のスペックを確認しようとしている飯田さん。


少しでも嫌な顔をしないか、くるくると加湿器を回している彼女の反応から目が逸らせない。


「あらぁ〜、男の子から女の子へのプレゼントなんて青春ねぇ」


「いやぁ、もう青春だなんて歳じゃないですよ」


「特に変な意味は無いですから……」


その直後、からかい気味にニコニコと笑いながら茶々を入れてきたブルヘッドさんに対して、俺は彼女と共に照れながらもそう返事した。


「いいなーいいなー、あたいもプレゼント欲しいのぜ!」


「お前はこの間私がパフェを奢ってやったろう」


「あっ、そうだったのぜな」


「しかし、その加湿器は私が選んだのだからな、半分でも私に感謝して欲しい物だ」


「はい……それは助かりました」


どこまでもどんな場面でもプライドが高い真緒……しかし面と向かって礼を言うと、彼女は頬を少し染めながらも顔を背ける反応を見せた。


「感謝って……仁藤くんこの人と一緒に加湿器買ったの?」


「いや、私は一円も出していないぞ」


「それなのに良く威張れたわねあんた……でもありがとう」


そう言えば飯田さんは真緒さんには礼を言ったのに、俺にはまだ言っていない。


しかし自転車で慶應大まで送った時は、到着してから礼を言ってくれた。


今は皆もいるので、真緒さんとは違い男である俺に対して礼を言うのは、恥ずかしいと思っているかもしれない。


「……仁藤くん」


「何ですか?」


「……またこの後、ちょっと付き合いなさいよ」


「いいですよ」


「ふむ、コンセントがいらないタイプだったのか」


「それなら外でも使えそうなのぜな!」


「外で加湿器を使う事は、無いと思うけど……」


「ちょっとあんまり弄りすぎて壊すんじゃないわよ?」


そわそわしていると、真緒さん達が加湿器を注目している隙に、飯田さんは俺にこっそりとそう耳打ちをしてきた。


やはり、これは後で怠慢の時に言われるパターンだろうか。


ありがとうの一言ぐらい、その場でさり気なく言えばいい物を。


だが人の事は言えていない……加湿器を渡す前の俺のように、彼女もまた加湿器を貰った後にどうやって礼を告げるか色々と考えているのだろうか。


先延ばしにしてまで二人きりにさせようとは、どうやって飯田さんは俺に感謝を伝える気なのだろう……。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「じゃあ私達は用があるから、お先に失礼するわね」


その後飯田さんは真緒さん達にそう告げると、俺を連行して静かな所に行きたいという事で、再度新宿中央公園へと連れて行こうとしていた。


彼女がそのような言葉をド直球に言い残して、真緒さん達がそう簡単に見送ってくれる訳が無い。


真緒さんとひとみさんとブルヘッドさんには、これから二人でデートにでも行くのかとからかわれた。


「……」


そんな彼女達の冗談を否定しつつも新宿中央公園に到着して、俺は今トイレに向かった飯田さんの帰りをベンチにて待っていた。


あの冗談以降、二人きりの行動について皆が茶化して来る事は無かったが、実はこっそり後を着いてきて何処からか見張って居るのでないか……周りから真緒さん達の気配を何となく感じる。


「お待たせ〜」


……その後、飯田さんが帰ってきて俺の隣に腰掛けた。


因みにここまで来る道中も、テストについての話題しか話しておらず、未だに加湿器についての話はしていない。


「悪いわね荷物預かって貰っちゃって、黒百合で飲みすぎたみたい」


「テストみたいな重要な事終わらせたら、飲みたくたくもなりますよ」


「その言い方だとお酒飲みすぎたみたいに聞こえるわね……まぁ飲んでたのはジュースなんだけど」


歌舞伎町にて、社会に汚された大人達にとっての薬となる物……酒。


しかし我々未成年はそれに頼る事が出来ず、ジュースやなんちゃってカクテルであるシャーリーテンプル等を飲む事でしか、社会に立ち向かう為のエネルギーを貯める術が無いのだ。


しかしそれ以外であれば、例えば飯田さんにあげた加湿器のようなアロマグッズに頼ってみる等……


大人子供関係なく、酒を飲む事以外でも、何か心を癒す方法はいくらでもある筈だ。


酒を飲む事でしか満足が出来ない体……いつかの母親になってしまうような大人には、絶対になりたくない。


「……」


「……仁藤くん?」


「ああ、すみません……その、加湿器の方は気に入って頂けましたか?」


「ええ……柑橘系だし、何よりもデザインが気に入ったわ」


「家に帰ったら、早速使ってみるつもり」


「……そうですか、真緒さんに選んで頂いて正解でした」


「ありがとう仁藤くん……これさえあれば、毎日かなりリラックス出来ると思うわ」


「……はい」


優しく微笑みながら礼を言ってきた飯田さんを見て、心が温かくなってくるのを感じる。


……しかし加湿器も永遠に使える物では無く、いつかは壊れる消耗品の筈だ。


加湿器が無くなった場合……飯田さんはどのような方法で疲れを癒すのか。


「……飯田さん」


「ん? 何?」


「貴方は日頃、すごい疲れた時とか……家に帰ってどうやって過ごしてますか?」


「んぅ……」


少し質問の仕方が間違えた気がするが、妹達の面倒を見ながらご飯も作り、学校に通って態々歌舞伎町で仕事もしている飯田さんにとって、疲れた時なんて毎日の事であろう。


俺も飯田さん程では無いがスケジュール詰めの生活を送っている……なので少ない休憩時間を使って、どうやって毎日を乗り越えているのかを参考にしたかったのだ。


「……やっぱり好きな事をする事かしら」


「……そうなのですか」


「うん、私アニメ見たりゲームするのとか好きだし」


「意外ですね」


「後はやっぱり……疲れを取るのは、笑ったり泣いたりするのが一番効果があると思う」


「だからさっき言ったアニメもそうだけど……私ユーチューブでお笑いの動画とか、泣ける動画とかも見るの好きなの」


「……なるほど」


「……仁藤くんはどう?」


「……?」


「何か仕事で嫌な事があった時に忘れる為の、好きな事とかある?」


「最近笑ったり、泣いたりしてる?」


「……」


「なっ、何でそんな難しい顔になんのよ」


「……俺に、趣味は無いです」


「あら、そうなの……」


……そう。


だから自分一人だけの力では、幸せに思う気持ちを作る事が出来ない。


……しかしこれまでに飯田さんに礼を言われてきて分かった事がある。


「……でも好きな事はあります」


「えっ……?」


「……それは、飯田さんの笑顔を見る事です」


「……え?」


……独りだけでは幸せになれない。


ならば俺ではない誰かを巻き込んで、その人を喜ばせる事でしか自分から幸せに思える事が無いのだ。


俺には夢はなく、借金返済という目的に無理矢理身体を動かしている仕事しかない。


接客業でやっている時ならば、客からありがとうと言われた瞬間的な嬉しさだけを、毎日を生きる為の糧としている。


……要するに自分を犠牲にしてまでも、誰かを喜ばせる事が好きなのだ。


「んー……」


……飯田さんには何気なく、そのように伝えたつもりだった。


しかし彼女の様子がおかしい。


頬を染めて顔を伏せながら、何やら思い詰めている様子だった。


「……ねぇ」


「……何ですか?」


「……間違ってたら謝るんだけど」


「……」


「……あんたってもしかして、私の事好きなの?」


「……え?」


何か勘違いをさせてしまったらしい。


今思えば最初からそう言えば良かった物の、俺は自己犠牲型であるという事を彼女に訂正して伝えた。


「……なので、飯田さんの事が好きだからとか、そういう訳では無いのです」


「ああ、そういう事ね……ごめん急に変な事言って」


「いえ……俺の方こそ変な事を思わせてすみません」


「本当よ……仁藤くんって、もしかして天然?」


「単に言い方を間違えただけです……」


「そう……」


しかし先程の飯田さんの勘違いを解く為の最後の発言は、別にお前の事なんか興味無いみたいな風に捉えられて、彼女に悪い印象を与えていた気がする。


「……でも飯田さんの事は好きです」


「……えっ」


正面を向いて安堵した表情になるも、再度顔を赤くさせながらこちらを向いた飯田さん。


「……それって友達として? 恋人として?」


「友達としてです」


「ああ、そうなのね」


結構グイグイ来る彼女の質問に、何とか妥当の答えを出す事が出来た。


仮に友達としてライクでは無く、恋人としてラブで飯田さんの事が好きであったとしても、俺は堅気の身を捨てた男だ。


極道であるこの俺が、一般人である堅気の飯田さんに恋愛的好意を持つ資格など無いのだ。


それに飯田さんのような強気でもノリの良い性格で、大学のような同年代の集まる場所に通っているのであれば、彼氏の一人でもいそうである。


「飯田さんは彼氏とかいらっしゃるのですか?」


「いないわよ、作る暇も無いしね」


「……そうなんですね」


だが彼女からの答えによって、その予想は跡形なく消え去る事となる。


……しかし飯田さんに彼氏がいないと分かって、安心しているのは何故だ?


仕事でもプライベートでも斬江でも、誰かにありがとうと言われる為に生きてきたような物なのだが、飯田さんに言われた場合、その嬉しさが桁外れに違う。


「な〜に、あんた何か安心してない?」


つい溜息を出してしまった様子を見て、飯田さんににやにやとしながら、下を俯いていた俺の表情を覗き込んできた。


俺と目が合った、彼女の黒がかった青い瞳は……あからさまに変な質問をしてきた俺の心の全てを見通していたようであった。


「別に……何とも思ってないです」


目が合ったのと同時に、俺の顔の温度が段々と高くなっていくのを感じる。


その原因となる羞恥心で、彼女と目を合わせ続ける事に耐えきれなくなった俺は、飯田さんの視線から逃れて彼女に背を向けてしまった。


……それは同時に、今俺は何を思っているのかという答えその物を、態度に示す事で飯田さんに与えてしまった瞬間でもあった。


「……ふーん」


「……」


「……私は思ってるわよ」


「……え?」


……冗談で言ったのだろうと思った。


しかし先程は冗談交じりの不適な笑みだったが、今の飯田さんの表情は真顔……その言葉の本気度が伝わってくる。


「……」


「……なっ、何とか言いなさいよ」


「……駄目です」


「えっ?」


「俺は極道です、そんな俺の事を好きになったら……きっと飯田さんの生活は、今よりももっと厳しくなってしまいます」


好きになってくれたのは嬉しい。


だが必然的に俺は彼女の立場を優先して、貴重な彼女からの想いを断ち切ってしまった。


本当は恋愛をしたい自分を殺して、飯田さんの安全を生かす……自分の欲望よりも他人の事を優先させてしまう、いつもの癖だ。


「何自惚れてんのよあんた……ヤクザって言ってもアルバイトの掛け持ちしかして無い癖に、危険人物にでもなったつもり?」


「ですが……」


「……好きになれば、その人がヤクザだろうが何だろうが関係無いわ」


「人を殺しまくってる大犯罪者とかじゃない限りはね……別にあんた、普段から悪い事とかしてるわけじゃないんでしょ?」


「……まぁそうですが」


「ならいいじゃない」


極道ではあるが、確かに今はフリーターのような生活しか送っていない日々に、改めて飯田さんに気付かされる。


……それならば飯田さんの事を好きになっていいのか?


……それならば飯田さんと付き合ってもいいのか?


「それにあんたも勘違いしてるかもしれないけど……別に私、仁藤くんに付き合ってくれって言ってる訳じゃないの」


「……え?」


「その……お互い忙しいだろうしさ、何の前置きも無しに、いきなり付き合ってくれって言うのもおかしいじゃない?」


「……そうなのですか」


「だから取り敢えずは……好きだって事を、あんたに伝えたかっただけよ」


顔を赤くしても尚、腕を組みながらそっぽを向いて、強気な性格で照れを隠している飯田さん。


「……でもどうして俺の事を好きになって頂けたのですか?」


「……」


告白とは、本来ならば男から女へと伝えるイメージだ。


それが今回は逆のパターン……自分でさえも自分の事が嫌いなのに、飯田さんが俺の事を好きになった理由が分からず、ついその事を本人に聞いてしまった。


「……分かんないわ」


「……え?」


「でも誰かを好きになる事に、理由なんかいらないと思う……綺麗事だろうけど、一緒にいて楽しければそれで十分だと思うし」


「……あんたの方も、私の事好きな理由答えられる?」


「……確かにいざ聞かれてみれば分からないです」


「だからと言って、別に落ち込む事は無いと思うわ……好きな理由が分からないイコール興味が無かったって訳でも無いだろうし」


「……てかまず第一として、私の事は好きなの?」


「……」


……俺が、飯田さんの事を好き?


しかしこれまでに働いてこれたのは、夕方からはロイヤルメイデンにて飯田さんに会えるから頑張れたというのは事実。


思えば共に歌舞伎町という子供には不利な戦場で、仕事終わりには共に疲れを共感する内に……俺は飯田さんに好意を抱いていたのも確かだ。


「……好きです」


「うぅ……でも何か無理矢理言わせた感があって嫌ねぇ」


「……ならば俺はどうすればいいんですか」


「……ならこうしましょうよ」


「……?」


「今日一日だけ……私はあんたの彼女になるわ」


「!」


「だからそこで、私の事なんか気にしなくていいから、どれだけ私の事を好きなのか行動で証明して」


「……」


「私もあんたの彼女として……今日一日だけだけど」


「……誰かにありがとうって言われる事よりも何倍も幸せな事を、あんたにしてあげるから」


「……」


……最後のそれはつまりどういう事だ?


考え過ぎだろうが、これからホテルにでも連れて行かれるのか?


「じゃあそうね……まずは公園を一周でもしてみる?」


「……はい、宜しくお願いします」


「こちらこそ……宜しくお願いします」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「……」


「……とは言え一日だけ恋人同士でも、やってる事自体はこの間と変わんないわよね」


「……はい」


……歩き始めてから数秒後、互いの緊張から来る静寂を破るように、飯田さんの方から声をかけてきた。


昨日と変わらぬ新宿中央公園の景色……その時も飯田さんとは二人きりで、実質デートをしていたようなものである。


その時は俺の思い込みだったが、今回は妄想では無く本番だ。


「取り敢えず恋人らしい事をすればいいのでしょうか……」


「まぁ、折角だからね……」


「例えばどんな事を?」


「……そんなの自分で考えなさいよ」


俺からの質問に相変わらずの強気な態度で返しつつも、飯田さんは俺と肩がぶつかりそうになるくらいに接近してきており、時々俺の手を触れたりして重要なヒントを授けてきていた。


好きだと証明しろと言われても、次々にこうしていいかと飯田さんに聞くのは、本人もうざく思ってしまうだろう。


彼女も気にしないでと言ってくれたのだ。


ここは存分にイチャつかせて貰おう。


「……んっ」


先程から触れてきていた手を、もう逃がさないと言わんばかりに優しく握る。


勉強している時の手、仕事をしている時の手、黒百合で皆で過ごしている時の手。


様々な状況でさり気なく見てきた、今まで沢山の苦労をかけてきたであろう飯田さんの手は……


「な、何よじっと見て……」


「……温かいです」


「いや、あんたの手が冷たいんだと思うわ」


「……そうでしょうか?」


「あっ、でも温かくなってきたわよ?」


「……」


「ふふっ、もしかしてドキドキしてる?」


「してますよ……当たり前です」


「ふふっ……」


飯田さんの手の熱が、俺の手から心臓へと伝わっていくように鼓動が早くなっていく。


これがイチャイチャするという名の、好きな人と一緒に過ごしている時の愛の証明……。


「顔も赤くなってきてる気がするわね」


「うるさいです……」


「ふふっ、可愛いわねあんた」


飯田さんの方も、俺に腕を絡ませてきたりして、俺の事をどれくらい好きでいてくれているのかを示してきた。


「……ですがこれ以上に、好きだと証明する事が無くないですか?」


「……まぁ今すぐに出来る事と言えばね」


「他には頭を撫でる……ぐらいしか思いつく事が無いのですが」


「そんな事よりも、もっと重要な事があんでしょうよ」


「……?」


「……キス、するとか」


二人で考えている内に、飯田さんがそう答えを漏らした瞬間に彼女と目が合う。


真っ赤な顔をしている、彼女の半開きの唇に目が行く。


「……なんて冗談よ。別に明日死ぬ訳でも無いし、そんなポンポンと恋人らしい事を急いでやらなくてもいいと思うわ」


「そうですか……そうですよね」


「だから今は……こうして手を繋いで歩いてるだけでも、私は楽しいわ」


「……」


「……仁藤くんは楽しい?」


……自分は今何の為に生きているのか。


趣味も好きな事も無い今の人生で……俺の生かす原動力は、仕事の中で生み出す誰かからのありがとうであった。


しかし今は違う。


歌舞伎町で出会ってきた皆が好きだから、飯田さんが好きだから……皆と会う為に、今の俺は生きているのだ。


……その事を、俺は飯田さんに簡単に伝えた。


「わ、私達に会う為に生きてるって……あんた本当に趣味とか無いの?」


「……無いです」


「別に私達と会うのが駄目って言ってる訳じゃないけどさ……一人の時に楽しめる趣味ぐらい、見つけた方がいいわよ?」


「……そうですか」


「そうよ〜、金がかからないって意味では、例えば絵を描いてみるとか……」


……その後、一夜限りの恋人関係になったとはいえ、元の友達関係の状態でも出来る雑談へと戻ってしまった。


恋人だろうが友達だろうが何でも良い……飯田さんと一緒にいる事さえ出来れば、それだけで十分だ。


「……とりあえず俺は、今のままでいいです」


「……そうなのね」


……その後、擬似的なデートは終了して、また俺は飯田さんを見送る為に、彼女と共に新宿駅と向かっていた。


「……今日はありがとね、仁藤くん」


「はい……それらしい事を全然させられなくて、すみません」


「いいのよ、私の方も幸せにさせてあげるとかカッコつけて言ったけど、結局出来てなかったし……でも楽しかったのよね?」


「はい」


「……良かった」


互いに不満は無く、互いに気を使った状態で平和に事を済ませる事が出来た。


……しかし唯一分からない点があった。


「……あの」


「……何?」


「……俺は別にいいのですが、飯田さんさえよければその内付き合ってもいいという事ですか?」


「……」


互いが好きになれば、当然交際関係にまで発展する事となる。


しかし今回は、好きとは伝えても付き合ってくれとは言っていない特別なケースだ。


飯田さんにその気があるのか無いのか、この際はっきりさせておきたい。


「ええ……でも今はちょっと忙しいから、もう少し落ち着くまで待って欲しいの……ごめんね?」


「……分かりました」


「でも待つって言っても、待ちきれなかったら別に私以外の好きな女の子見つけて、その人と付き合うでも全然いいから」


「……でもそういう人が見つからなくて、私が暇になったら……その時に付き合ってくれると嬉しいわ」


「……分かりました」


好きになってからすぐに交際出来ないのは悲しい……だが飯田さんの忙しさは十分把握している為、仕方が無いという気持ちで塗り替えていく。


「ちっ、因みに今付き合ってる人とかいないわよね?」


「……いないです」


「ああ良かった」


……だが無理して交際関係にまで発展させる必要は無いだろう。


変わったのはお互いに両想いだという気持ちだけ。


それ以外は、明日も日中は日雇いの仕事をして、夕方からは飯田さんと共にロイヤルメイデンで働くという変わらない日々を送る事になるだろう。


ゴールデンウィークが終わり、六月に向けて初夏を予想させる少し暑い日が続く今日この頃……その時まではそう思っていた。


「明日はゲーセンとか行きましょ、勿論皆も連れてね」


「はい、良いですね……」


コンビニでのシフトのように、社会で働いていく中での相手というのは、常に代わっていく物。


翌朝、唐突に斬江からのロイヤルメイデンでの解雇を告げられる事になろうとは……その時の俺は知る由も無かったのだった。

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