第二十一話『メディカルギフト』

……草木も眠る丑三つ時。


皿洗いが終わり、飯田さんが風呂から上がり、俺が風呂に入る番になった頃には、既にその時間を過ぎてしまっていた。


「ふぅ……」


俺は今、自身の体を洗った後に三姉妹が入った残り湯に浸かっている。


風呂の温度が少しぬるめだった為、浴槽側面の腰壁に取り付けられてある給湯器リモコンから追い焚きのボタンを押した。


俺は風呂に入る時は、四十二度と少し熱めの温度で入浴するのが好みだ。


「……」


窓の外のどこか遠くから、複数のバイクのようなエンジン音が聞こえてくる。


どこかの大通りを、ゴールデンウィークで暇している暴走族でも走っているのだろうか。


深夜二時を過ぎたにも関わらず、そのような遅い時間になってまでも未だ活動しているとはご苦労な事である。


「仁藤くん、入るわよ」


「……ああ」


それからエンジン音が徐々に遠ざかっていくと同時に、廊下から脱衣所へと入る扉の向こうからノック音と飯田さんの声が聞こえてきた。


ザラザラとしている網ガラス製の風呂の扉の向こうで、飯田さんらしき者が扉の前を通り過ぎた。


「バスタオル……ここに置いとくわよ」


「……ありがとうございます」


「てか仁藤くん着替えが無いじゃない、どうするの?」


「仕方が無いから、今ある物をそのまま着る事にします」


「……良かったらパンツだけでも貸しましょうか?」


「飯田さんのをですか?」


「ちっ、違うわよ!そんな訳ないじゃない……親父のパンツ、貸してあげるわ」


「良いのですか?」


「大丈夫よ、勝手に穿いても怒られやしないわ……どうせいないんだし」


「?」


「……何でもないわ! とりあえずパンツ取ってくるから」


そして飯田さんは気になる台詞を言い残した後に廊下へと出て行き、暫く経ってから再び脱衣所へと戻ってきた。


「パンツ……バスタオルの上に置いておくわね」


「……ありがとうございます」


「良いのよ、お料理とお皿洗い手伝ってくれたお礼だわ」


飯田さんが言うように、本来なら大黒柱であるべき父親がこの家にはいない。


それは母親も同じである。


飯田さんの両親は今、娘達三人を放置してどこに行ってしまっているのだろうか。


本来ならば芽依さんと舞依さんが帰ってきた時に叱るのは飯田さんでは無く、彼女達の両親が叱ってやらなければいけないはずだ。


料理、その材料の買い出しをする事は愚か、子供の世話をする事も無い。


それだから芽依さんと舞依さんのような深夜になっても家に戻らないような不良ギャルが生まれてしまう。


「……」


……その時の俺は、彼女達三人を何とかしてあげたいという情の気持ちが芽生え始めてきていた。


飯田さん達からしたらお節介かもしれない。


両親がいなくとも、飯田さん達はこのままの方がいいと思っているかもしれない。


俺のせいで環境が大きく代わり、今よりも更に飯田さん達を苦しめてしまう事になるかもしれない。


しかし飯田さんは一切の弱音を吐く事無く、大学と仕事で心身がボロボロになろうとも妹達の面倒を見ている事だろう。


そのような姿を見ていると、五年前に母親を見捨てて逃げた事に対しての罪悪感が湧いてくる。


飯田さんは俺とは違い、飯田家の今の家庭環境と懸命に戦い続けているのだから。


……飯田さんを助ければ、少しは母親を捨てた罪滅ぼしの代わりになるだろうか?


助ける……と言っても、今の所は先程のように料理や買い出しの手伝いぐらいしか出来ないのだが……


……飯田さんはもう出て行ったのだろうか。


それから少々逆上せ気味になってきた俺は、給湯器リモコンの電源を切り、風呂の窓を開けた後に、浴槽の湯を抜いて風呂から上がる事にした……。


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「……おかえり、気持ち良かった?」


「……はい、お陰様で今晩はよく眠れそうです」


「そう……良かったわ」


……その後、俺は服を着て風呂から出た後に、麦茶を飲む為にリビングへと戻ってきていた。


リビングのソファには、先程風呂場にタオルとパンツを届けに来てくれた飯田さんが座って、深夜にも関わらず本やノートを広げて勉強をしていた。


「……隣、座っても宜しいですか?」


「どうぞ」


そして俺はキッチンへと行き冷蔵庫から麦茶を取り出して、コップを二つ持った後に飯田さんの隣に座った。


「スーツとネクタイは何処に置いておけばいいですか?」


「ここのソファにでも掛けておいたら?」


「分かりました……飯田さん、麦茶飲みますか?」


「うん、ありがとう」


「……あのお二人は?」


「もう寝ちゃったと思うわ」


「……そうですか」


飯田さんは俺が麦茶を注いでいる間、長内さんのような半目の眠たそうな顔をしながら大きく欠伸をした。


俺がちょこんと肩を押してソファに倒したら直ぐに寝てしまう程、今の彼女は物凄い睡魔に襲われているのだろう。


「乾杯しましょ」


「はい、良いですよ」


「乾杯」


"キンッ"というコップ同士がぶつかり合う音が鳴ると共に、俺達は冷たい麦茶を一気に飲み干した。


「勉強は……こんな時間からでもするのですか」


「ええ、休みが明ければすぐテストだし、ゆっくりしてる場合じゃないっていうか……」


「こうして教科書を開いて勉強してると……何だか落ち着くのよね」


「邪魔しちゃ悪いですね……俺どっか行きますか?」


「別に平気よ」


「了解です」


……友人として、今の飯田さんに何が出来るか。


肩でも揉んでやろうか……という提案を無理矢理持ち込むのは、あまりに不自然すぎる。


……一体どうすれば飯田さんを喜ばせる事が出来るか。


彼女の勉強を手伝う……とは言っても、ガストの時のように、俺には人に教えられる程の学力は持ち合わせていない。


「……ふぅ」


シャーペンをくるくると回しながら教科書を睨んでいる飯田さんを見て、その力不足さが俺の心に突き刺さる。


「……あれから勉強は進んでいますか?」


「そりゃ勿論、今んとこ七十六パーセントって感じよ」


「微妙ですね」


「それに明日も歌舞伎町に行って真緒達と勉強するし……何ならあんたも来る?」


「あ、ああ……行きます」


「そこで更に追い込みを掛けるって感じね」


「明日も勉強するのであれば、今日はもうお休みになった方が宜しいのでは?」


「逆に今日やる分、明日の分の勉強を少なくしておくのよ」


「……なるほどな」


盾の上から更に盾を重ねて行き……テストという脅威から身を防ぐ為に、寝る前も惜しんで勉強をしている飯田さん。


……しかし、前日の勉強にいくら時間を費やしても、テストは一瞬で終わってしまう筈だ。


その時間が比例していなくてもテストで良い点を取れれば、それが彼女にとっての一番の幸せなのだろうが、"勉強していて良かった"以外の幸福感を、俺から何か与えられないだろうか。


「……飯田さん」


「……ん? 何?」


「飯田さんは……今何か欲しい物とかありますか?」


「欲しい物……? そうね……」


その質問をすると、飯田さんはシャーペンを耳にかけると、更に難しそうな顔をして考え始めた。


「……加湿器かしらね、いい匂いがするやつ」


「……じゃあそれ、テストが終わったらプレゼントとして差し上げますよ」


「え? いいの?」


「はい、しかも良い点を取っても、悪い点を取っても関係無くです」


「えぇ、でも悪いわ」


「受け取ってください、友人からのシンプルな貰い物として」


「うーん……そう? ありがとう」


その者が欲しいと思っている物を、第三者が買ってやる……それが人を喜ばせる簡単な方法だったと思いついた。


しかもその為に、飯田さんも勉強のモチベーションが上げてくれるだろう。


加湿器なら、五千円くらいあればドンキで良い物が買えるだろうか……。


「ふわぁ……そろそろ寝ようかしら」


……それから飯田さんは今日一の大欠伸をして、空になった二つのコップをシンクに置き、そのままふらふらとしながら廊下の方へと出て行こうとしていた。


「……足元気を付けてください」


「分かってる……あ、そうだ。仁藤くん何処で寝る……?」


「ここのソファでいいですか?」


「分かったわ……毛布とかいる?」


「大丈夫です、スーツが毛布代わりになるので」


「そう……風邪引かないように気をつけなさいよ。 明日は十時くらいに家から出るから宜しくね」


「分かりました」


それから俺達はお互いに、戦場で離れ離れになる時に"お前……死ぬなよ"と言っているような顔をして、飯田さんは廊下に出て自分の寝床へと帰っていった。


死にそうな飯田さんであったが、仕事明けで疲れているのは俺も同じだ。


そうして俺は飯田さんがどいたソファにネクタイを掛けた後に、すぐ様そのソファへと横になって、視線の先にある天井を見ながら……やがて夢を見る事が出来ないくらいに深い眠りにつくのであった……。


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……翌日。


「い……いんぷるーぶ?」


「〜を向上させるね」


「ぷろ……ゔぁいど?」


「供給するね」


「……これなんて読むんですか?」


「ちょっと、こっちに見せちゃったら暗記した意味無いじゃない」


「あっ、すみません……」


俺は歌舞伎町へと帰る電車に乗りながら、飯田さんの英単語の暗記確認に付き合っていた。


単語帳に書かれている英語は、どれも何となくでしか読めない物ばかりだが、彼女の役に立てる事なら何でもやる次第だ。


単語帳は、何回開いたり閉じたりしたのか数え切れないくらいにボロボロであった。


「凄いです……全部合ってます」


「当然ね、伊達にスマホ触るぐらいに単語帳も開いて無いわ」


「この調子なら、真緒さん達と会ってもあんまり勉強しなくて良いのでは?」


「そうねぇ……もう後二十パーセントぐらいで終わるし」


「そしたら……今日の勉強が終わったら何をするんですか?」


「そもそも今日集まる所が渋谷だから、色んなお店に行く事になると思うわ」


「……渋谷?」


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渋谷……109やハチ公の銅像で知られるその場所は、新宿から山手線で三つ離れた箇所にある駅だ。


普段から行った事が無くても、渋谷という場所は服や化粧品といった商品が揃い、女性にとって金さえあれば天国のような場所であるというイメージはある。


そのような場所に行く目的が、勉強であるという事はどう考えても不向きだと思うのだが……


「はんえ〜、色んな服があるのぜな〜」


それもその筈、勉強の方はさて置いてといった感じに、今俺達は渋谷ヒカリエに来ているのだ。


「あれ? でも今って春なのに半袖の服しか売られて無いのぜ?」


「服屋さんには普通……次の季節の服が売られている物なのよ……」


「おおっ、そうなのぜか!」


店内のマネキンに飾られている服を物珍しそうに見ている瀬名さんに対して、長内さんが冷静なツッコミを入れる。


瀬名さんがボケて誰かが指摘をしている光景を見ると、改めて都心に帰ってきたという気持ちになる。


「てかいいなぁ〜、あたいもなーなのお家にお泊まりしたかったのぜ!」


「どうして、凪奈子ちゃんの家に泊まりに行ったの……?」


「泊まったというか、一番の目的は飯田さんの買い物のお手伝いです」


「そう言って本当は最初から泊まるのが目的で、昨夜は二人だけでお楽しみでもしていたのだろう?」


「ん、えっち……」


「違うわよ!」


「帰る頃には終電を過ぎていたので、仕方無く飯田さんのお家に泊まらせて頂いただけです」


俺の言い分に真緒さんがちょっかいを出して、長内さんが何かを察して、それに対して即否定した飯田さん、


やはり男女が同じ屋根の下で夜を明かしている最中に、何も起きない訳が無いという事で、真緒さんと長内さんはよからぬ事を想像しているみたいだ。


本当に何もしていないのだが、俺の口から出る言葉はどれも言い訳にしか聞こえない気がする。


あまり必死に言い返さない方が良いのだろうか……


「買い物は何買ったのぜか?」


「瀬名さん、純粋ですね……」


しかし瀬名さんの余計な事は考えないピュアな思考より俺達は助けられて、話はそこで終わりつつ適当な服屋に入った。


「しかし仁藤を家に泊める程の余裕があるのならば、勉強もさぞかし順調なのだろうな」


店に入ると真緒さんは目の前にあった、サングラスをかけているブルドッグがプリントされているティーシャツを手に取りながら、飯田さんに挑発が込められた言葉を言い放った。


「当然よ、特に英語が一番自信があるわ。 もう私に読めない英単語なんか無いわ」


ここで強気に答えるのが飯田さんの性……彼女はふふんと笑いながら腰に手を当てて、自信満々だと証明するが如く大きく出た。


「じゃあこれは何て読むのぜ!?」


すると瀬名さんは近くにあった、英語で書かれたティーシャツを手に取って飯田さんに質問した。


「アイムコック……? そんな言葉、単語帳には乗ってなかったわ」


「ん……」


そして一方の長内さんは、瀬名さんが手に取ったシャツを見て、頬を染めながら目を逸らした。


「コックってコックさんのコックなのぜ?」


「違う、それだと"cook"と表記される筈だ……だがこちらは"cock"だから違うだろう」


「長内さんなら、意味が分かるんじゃないですか?」


「言いたくない……その言葉、結構下品……」


「え?」


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……時刻はあっという間に昼だ。


時間の流れの早さと共に、俺と飯田さんは朝から飯を食っていなかったという事にレストランに入ってから気がついた。


今回来たのはサイゼリヤだ。


「あれ? ここのお店お箸が無いのぜ?」


「サイゼリヤは、イタリアンのお店だから……」


「店員さんに頼めば使えると思いますよ」


瀬名さんが箸を探している中、飯田さんはメニュー表を開く前に教科書を開いて、早速勉強をし始めている。


「凪奈子は何を頼む?」


「私はドリアでいいわ」


そんな飯田さんに代わって真緒さんがメニュー表を開き、彼女の物と一緒に料理を注文した。


「でもなーな、よくそんなに勉強が出来るのぜな〜」


「本を読むのは好きだけど、勉強の本は読んでると……眠たくなってきちゃう……」


「随分と真剣だな、先程の私の言葉に焦りでも感じたか?」


「違うわ、仁藤くんがねテストが終わった後に私の欲しい物を買ってくれるそうなの」


「ええっ!?」


「お前達、いつの間にかそんな約束をしていたのか」


飯田さんの勉強様を見ていた彼女達は飯田さんの言葉に反応し、続いて俺の方を注目した。


「はい、その方がやる気を出して頂けると思ったので」


「ずるいのぜ〜、あたいも何か頑張ったら何かくれるのぜ?」


「瀬名さんは既に家無しの状態で、毎日頑張って働いてると思いますが……」


「よし、では私がパフェを奢ってやるぞひとみ」


「やったのぜ! まおまおありがとなのぜなーっ!」


「でも何かプレゼントしてくれるなら、確かにやる気は出るかも……」


「考えたな仁藤、流石は凪奈子のマネージャーだ」


「それはキャバ嬢のお仕事と……関係無くも無いですね」


飯田さんが語った勉強をし始めた理由から、プレゼントをするという行為には意味があった。


結果的にモチベーションが上がれば勉強も出来て、テストも受かれば良い成績も残せてプラスになる事しかない。


しかし唯一の心配事と言えば、飯田さんが望んでいる加湿器を買えるかどうかぐらいだ。


テストが終わった後に、飯田さんと一緒に買いに行くという手もあるが、それだとプレゼント感が無い気がする。


なので予め購入しておき、飯田さんのテストが終わったというタイミングでプレゼントをしたいのだが……


「……真緒さん、後でお話があります」


「ん? 何だ仁藤」


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……後日。


月曜日……半分以上ある連休はまだ三日目だが、今頃飯田さんは自宅にて勉強のラストスパートをかけている所だろうか。


「……さて、来てやったぞ仁藤」


そんな中、俺は仕事の休憩時間に真緒さんを一番街まで呼び出した。


「ありがとうございます真緒さん……本当は仕事中では無かったのですか?」


「何、事件が無ければ基本は暇だからな、呼ばれればいつでも来るぞ」


「……普段は何をやっているのですか?」


「そこら辺りは企業秘密だ」


「……何ですかそれ」


「しかしお前の方から私を呼び出すとは珍しいじゃないか? デートのお誘いであるなら私は帰るぞ」


ふっと笑いながら、いつもながらお得意の冗談を口にした真緒さん。


その彼女を呼び出した理由はシンプル……俺よりも付き合いが長い筈である真緒さんならば、飯田さんの好みの加湿器を知っているのでは無いかと思ったからである。


俺はその事を、ドンキホーテに向かいながら真緒さんに話した。


「ふむ、なるほど……あいつは加湿器が欲しいと言ったのか」


「そうです……なのでご協力をお願いします」


「待て、お前それをドンキで買うつもりなのか?」


「?……はい、そうですが」


「人にあげる物ならもっと高い奴を買えばいいだろう、この新宿にはドンキ以外にも沢山店があるのだ、着いてこい」


「え? どこに行くのですか?」


そう言って真緒さんに連れてこられたのはタイムズスクエア内の東急ハンズ。


あまり時間が無いのでエスカレーターを歩いて昇りつつ、俺達は五階のインテリアコーナーまでやって来た。


「高い奴って何ですか、俺一番高くても五千円の物しか買えませんよ」


「心配するな、足りなくなったら私も少し出してやる」


「マジですか……」


「しかし、あの凪奈子が加湿器を欲するとはな……余程疲れているのだな」


「……俺が教えたっていう風には言わないで下さいね」


真緒さんはアロマコーナーにて適当な加湿器を手に取りながら、箱をぐるぐると回してそれぞれの加湿器の効果を確認している。


遂に癒し効果のある道具に頼り始めた飯田さんを知って、友人として真緒さんも心配しているのだろう。


……それ程親密であれば、もしかして真緒さんも飯田さんの家庭環境について知っているのではないか。


「……あの真緒さん?」


「何だ? お前もこちらに来て加湿器を選んでくれ」


「真緒さんは、飯田さんの家には行った事はありますか?」


「……ああ、あるぞ」


「……俺が飯田さんの家に行った時、飯田さんのご両親は家にご不在でした」


「……」


「真緒さんが行った時もそうだったのですか?」


「……そうだ」


真緒さんの箱を回す手が止まり、地雷を踏んだ事を意味するように真緒さんの表情が険しい物になる。


「……飯田さんのご両親は、今どこで何をしてるのですか?」


しかし飯田さんが、どんな状況で家事と勉強と仕事を全立させているのか知りたかった。


「……あいつにはそもそも父親がいない」


「……どういう事ですか?」


「離婚したそうだ……芽依と舞依が生まれたタイミングでな」


「……」


「そこから母親が頑張って凪奈子達を育てたのだそうだが、精神的な病にかかってしまい、凪奈子が高校生の時に入院……そして今に至るという事だな」


「……なるほど」


「お前の方こそ、私が仁藤に話したと、凪奈子には言うなよ?」


飯田家の闇の片鱗を垣間見ながらも、真緒さんは飯田家の過去をザックリと説明してくれた。


「ここまででお前も分かっているとは思うが、凪奈子は誰にも頼れない状況で、働いて、芽依と舞依の面倒を見て、尚且つ大学の勉強をしてる」


「いつかは母親のように、頑張りすぎて精神的に支障をきたしてしまい、体が壊れるんじゃないかと思う程だ」


「……しかし、私には止める事は出来ない。 凪奈子も望んでそれらの事を全てやっているのだろうし、止められた所で本人の迷惑になってしまうだろうしな」


「……だからせめて応援代わりに何か買ってやろうと思ったから、お前の加湿器購入に援助をしてやろうと思った次第だ」


「……と言っても、私が出す必要は無さそうだがな」


そして真緒さんは、自信が選んだ加湿器を俺に渡してきた。


「凪奈子は柑橘系の香りを好む……しかもそれなら持ち運びも楽そうだし、デザインも可愛いし、何よりも値段も五千円ぴったりだぞ」


「……これですか」


「本当は私自らがあげたい所だが、今回はお前においしい役を譲ってやろう」


「おいしい役も何も、プレゼントやるの思いついたのは俺ですよ……でもありがとうございます」


真緒さんから俺に、加湿器が手渡される。


それはどのような親密度でも関係なく、飯田さんを支えていく役のバトンタッチを意味しているような気もした。


かつての二人は何があったのかは不明だが、真緒さんは優しく笑って返事をしながらも、どことなく寂しそうな表情をしていた。


……とにかくこれで、飯田さんに加湿器を渡せる。


しかし課題は、どうやって飯田さんにそれを渡すかも残っていたのだった……。

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