第十九話『都心の檻』
……ゴールデンウィークだ。
五月一日は土曜日……人々は月末で支給された給料を使って、旅行やら行楽を楽しんでいる事だろう。
その目的地の一つとして、俺が住んでいる新宿も含まれる。
都心の中の都心、新宿に行けば大抵の物が揃うので沢山の人が集まり、高島屋やルミネといったデパートは金週を狙ってセールを行っているらしい。
そして新宿は色々な路線へと通じる、日本の玄関口でもある。
そこを経由して、人々は新宿から出て行く一方で、普段は都心外に住んでいる者達もまた、この新宿に集まってくるという訳だ。
「ママー、これ欲しーい」
「あら……これ全部五百円で買えるなんて安いわね」
「いらっしゃいませ〜」
……その日、新宿中央公園はフリーマーケットを開催していた。
フリーマーケット狙いで、デパートにある商品より一円でも安く手に入れようと集った主婦達……。
狭い新宿の中で、唯一広々としている公園の敷地内を走る子供達……。
数あるデートスポットの中で、この中央公園を選んだカップル達……。
「……ふぅ」
……今日の俺は、そんな者達が出すゴミを掃除する仕事をしていた。
格好は昨日と同じような作業着。
だが昨日の工事現場とは違い、次々と命令される訳では無いのでマイペースに仕事を行える。
……しかし、人が多ければ多い程にゴミも多い。
秋の日に次々と降ってくる落ち葉を全て拾い集めるが如く、次々と出るゴミを回収していくのは大変だ。
そのような中、学校にあるグラウンドよりも何倍も広いこの敷地内で、俺よりも歳上なおっさん爺さん含めて十人体制で掃除をしていく。
時刻は夕方……空が暗くなるに連れて各地で店は畳まれ始め、それに合わせて人々も徐々に少なくなって来る頃であろう。
……飯田さんは今頃何をしているのだろうか。
瀬名さんと共に、もしかしたらこのフリーマーケットに訪れていたかもしれない。
大学に行ったりしているのであれば、電車が遅延したりせずに、しっかりと遅刻せずにロイヤルメイデンに来る事が出来るだろうか。
……そんな彼女の心配をしながら、俺は道端に転がっていた四千本目のペットボトルを拾うのであった。
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……終わった。
昨日は歩き過ぎて足が痛かったが、今日は何度もしゃがんだりしていた為に腰が痛い。
そうして今日も体の何処かしらに痛みを背負いながら、俺は歌舞伎町に戻ってきた。
……しかし、今日は例日よりも遅めの出勤なので、仕事開始時刻までまだ一時間程余裕があった。
それまでに何処で時間を潰すか……
一番街のゲートを潜って、見知らぬ顔の者達とすれ違いながら……ロイヤルメイデンの前と花道通りを横切りながら、歌舞伎町を徘徊する。
ふとバッティングセンターの看板が目に留まった。
ただでさえ腰が痛いのに、何故俺は腰をフルに使うバッティングセンターにやって来たのか。
「……」
しかし、他にやる事も思いつかなかったので吸い込まれるように中へと入って行く。
中では歌舞伎町に元々いる者、外から来た者達等、様々な人々がバッドを振ったり、ゲームコーナーで格闘ゲームのボタンを激しく押している客達等で賑わっていた。
客達がいる中で一つだけ、一番奥から二番目の所のバッターボックスが空いている。
「……」
バットなんて物を持ったのは、恐らく中学生の体育の授業で持った時以来、五年ぶり程である。
両手のどちらを上にして打てばいいのか、バットの持ち方すら忘れてしまった。
……早速金を入れて手始めに球速を百三十キロに設定してボールが飛んでくるのを待つ。
「っ!!」
一球目。
バットを振りかざした時には既に遅く、ボールは後ろにあるネットに力強く突き刺さった。
「……」
隣でスパンスパン球を打ち返している三十代くらいのサラリーマンにチラッとこちらを見られた気がした。
……羞恥心を飲み込み、気を取り直して二球目。
「はあっ…!!」
何とかボールを後ろへと逃がさずに捕らえる事が出来たが、当たりは悪くなってしまい、その影響でボールはあさっての方向へと飛んで行ってしまった。
いわゆるファールという奴である。
……あともう少しだ。
三球目。
三度目の正直となるか。
……はたまた二度ある事は三度あるの状態になってしまうのか。
今度こそホームランを打つ為に、俺は息を止めて、前のスクリーンに映っているピッチャーの男を睨みつけた。
ピッチャーがミットから右手を離し、前へと腕を振りかざした瞬間に顔面に当たったら一溜りも無いくらいのスピードでボールが飛んでくる。
……今だ。
「はあっ!!」
瞬く間に俺のバットの打撃部から響いた、カキーンという心地の良い音。
バットのど真ん中に当てられたボールは、スクリーンの上にあるネットについた的に突き刺さった。
「……ふぅ」
日頃から娯楽の無い人生を歩んでいる俺にとって、ホームランを打った時の快感は、度重なる仕事で死んでいた俺の心の蝋燭にメラメラと火をつけた。
だが長い時間で余韻に浸っている余裕など無く、ストライクになろうがファールになろうがホームランになろうが、白い弾丸は容赦無く次々と飛んでくる。
「……らぁっ!!」
ホームランを打つ感覚を覚えられた気がした俺は、時々ストライクになりながらも、先程感じた快感をまた味わうが為に、何度も何度もバットを振りまくったのだ。
「……あーん、全然打てないよ〜。 つまんない!」
「ボールをよく見なよ。 さっきからビビってんのか全然ボール見てないじゃん」
「ビビってなんか無いよ!」
……ふと隣から、二人組の女子高生らしき者達の会話が聞こえてきた。
「……おっ!! 今の見た!? あたしちゃんと打てたよ!」
普段は歌舞伎町内では絶対に見ない女子高生……この金週を機にここにやって来たのだろう。
女子高生という子供にしては似合わない、化粧や派手な格好をしていた内の一人は、バッターボックスに立って重そうにバットを振りながら、スカスカとボールをバックネットに逃がしており……
「当たったも何も掠っただけじゃん。 このままじゃコーラを奢ってもらうのは私の方になりそうかな〜」
そしてもう一人はボックス後ろのフェンスにて、怠そうにフェンスに腕で寄りかかりながらスマホを弄りつつ、もう片方の彼女と会話をしていた。
「えーっ、やだー! じゃあまだやる!」
「いい加減に諦めなって」
何か勝負事でもしているのだろうか。
早く帰りたそうにしているフェンスの少女など構わずに、ボックスに立っている少女はまだまだバッティングを続けるつもりのようだ。
……俺も百円を入れて、もう少し球を打ち返していく事にしよう。
タイミングさえ覚えてしまえば後は簡単だ。
俺自身、女子高生が隣にいるからと格好つけていた面もあった。
腰が痛いくせに、バットを思い切り振ってホームランをズバンズバン打ち返す。
「あーん……」
しかし隣の少女は最初に掠った時以降、またスカスカと球を逃がし始めていた。
「お兄さん凄いね〜」
暫くして球を打ち返していると、初対面である筈の隣にいた少女がそのように声を掛けてきた。
……ギャル特有のコミュニケーション能力という奴か。
「ほら、さっきのあんたと全然フォームも違うじゃん、ああいう風に打たないと一生球打ち返せないよ」
それからスマホを操作していた少女からも、直接俺とは会話をせずに、俺の打ち方を弄りながら、もう一人の少女に対して指摘を入れていた。
「……そうです。ボールもしっかり見ないと当たる訳が無いですよ」
「ならお兄さん打ち方教えてよ〜」
「……いいでしょう」
俺もスマホ少女が思っていた事のように、隣でバッティング少女のフォームを見て、幾つか指摘したかった事がありウズウズとしていた所だ。
スマホ少女にぽかんとした顔をされながらも、俺はバッティング少女のボックスへと移動した。
「まずは腰を落としてください。 でないと振る時に力が入りません」
「うん!」
「あとは何よりもボールをよく見てください……ボールは決まった軌道でしか飛んで来ないので、端にさえいれば絶対に体に当たる事は無いです」
「分かったよ」
ここは野球監督のように、少女の腕を触りながら打ち方のフォームを教えるのが一番やりやすそうだが、そういう訳にもいかない。
なので口頭でしか伝える事が出来なかったのだが……
「わぁ〜! 打てた! 打てたよ〜!」
少女は俺が教えた事を上手く飲み込めたのか、少女が打ち返したボールはピッチャー側がいる壁に初めて命中した。
「これでコーラはあたしのもんだね」
「は? 何で?」
その少女達は姉妹なのか。
少し青色が混じった黒髪……顔は二人共似ており、見分けがつくように一人ずつ左右それぞれにサイドテールを結っていた。
飯田さんとも顔が似ているような気がする。
この二人は、もしかして……
「……何か勝負でもなさっていたのですか?」
「うん! ボールを打ち返せた方が空振りした方にジュースを奢るの!」
「いや、明らかにあんたの方が空振りした回数多かったような気がするんだけど」
お前が打ち方を教えたせいで、この勝負に負けそうなんだが。
そう言わんばかりに、スマホ少女は俺の方を不満そうに睨みつけていた。
「……仕方が無いですね」
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「おいし〜っ!」
「やっぱり運動後のジュースは美味しいね」
……その後、外の自販機コーナーにて。
結果的にどちらも満足の結果になるよう、俺が二人にジュースを奢ってやる事で、強制的に勝負を終わらせたのであった。
二人はベンチに並んで座りながら、バッティング中に失った水分を補給していった。
「お兄さんありがとう!」
「でもいいの? ジュース奢ってもらっちゃって」
子供の癖に化粧をしていて、頭の悪そうな見た目をしていたが、一応しっかりとお礼は言える人柄のようだ。
……しかし結果的にこうなると分かっていて、最初からジュースを奢って貰う為に俺に話し掛けたのでは無いかと思ってしまう。
「はい……別に構いません」
「ふーん……お兄さん優しいんだね」
「お二人はこの辺りに住んでいる方々では無いですよね……県外から来たのですか?」
「そうだよ! ゴールデンウィークだからね!」
俺からの質問に答えたのは、俺がバッティングを教えていた元気そうな性格が印象的な彼女。
「東京ってやっぱめっちゃ人がいるから、迷子になりそうだわ」
……そして、俺と会話をし始めてから、今でも殆どの間でスマホを弄っていた、マイペースな性格をしていそうな彼女。
一体どちらが姉でどちらが妹なのだろう。
「ねーねー、そろそろ何か食べようよ!」
「えー、さっき夕飯食ったばっかじゃん」
「さっきのはご飯で今度はデザートだからいいの! クレープでも食べよ! それじゃあねお兄さん!」
「あぁ、はい……」
「ちょっと待ってよ」
そうして少女達は飲み終わった空き缶をゴミ箱に捨てると、俺の前から立ち去り、人混みに紛れて靖国通りの方へと走って行ったのであった。
「……」
……ご馳走様ぐらい言って欲しかったものである。
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「……という事があったのです」
「ふーん」
……その後、ロイヤルメイデンにて。
ロイヤルメイデンで互いの仕事を終わらせた後、今日も二人で事務所にタイムカードを切りに行きながら、俺は飯田さんに女子高生二人組についてを話した。
「女子高生が歌舞伎町ねぇ……そんな物騒な所に態々来なくても、東京ならもっと面白い場所沢山あると思うけど」
俺の話にあまり興味が無さそうな反応で返した彼女もまた、俺と同じく連休期間中でも構わず仕事をしていた内の一人だ。
しかし飯田さんは昨日から家に帰っていない。
なので家に帰って格好などをリセットしていないという意味では、まだ飯田さんの連休はスタートすらもしていないと言えよう。
……そして俺は全ての仕事が終わった今の時点で、月曜の朝まで期間のある貴重な休みがスタートしたという訳である。
「今日も黒百合に行きますか?」
「今日は真っ直ぐ帰るわ、下着以外は昨日と同じ格好だし……早く家の風呂に入りたいの」
ロイヤルメイデンから出たと同時に体に当たった夜風を心地よく感じつつも、折角の休みなのに飯田さんは家に帰ってしまうのかと寂しさも感じる。
しかし我儘は言えない、東京都心に立ち並ぶビルの檻に一日以上も閉じ込められていたら、疲れてしまうのも当たり前だ。
「それに今日は、スーパーに買い出しにも行かないといけないから」
「スーパーって……こんな時間でも空いているのですか?」
「駅の近くに二十四時間空いてるとこがあってね、本当は昨日買い出しに行こうとしてたんだけどあれだったし……きっと今冷蔵庫ん中に何も入ってないわ」
両親を含めるのであれば、きっと飯田家は五人家族……買い出しは母親がやるのでは無いかという事はさておき、五人分を買うとしたら相当な量になるのは間違い無い。
重そうな買い物袋も何個も持ちながら、トボトボと家路を行く彼女の姿が想像される……
「……良かったら俺も手伝いますよ」
「ええっ!? いいの?」
「はい……俺も偶には歌舞伎町の外に出てみたいですし」
「出てみたいって……あんた歌舞伎町の中に閉じ込められたりでもしてんの?」
……彼女が苦笑いで冗談のように言った事も、あながち間違いでは無い。
俺の行動は全て、
勿論、仕事が始まる前には帰ってくればいいかと自己判断で動いた時には、その状態で歌舞伎町に戻ってくる事は死を意味する。
「……ですが少しお待ち頂いて宜しいですか?」
「え、ええ……」
それから彼女に態とらしく背を向けて、スラックスのポケットからアイフォンを取り出してラインのアプリを開く。
連絡先は、当然これから要件を伝える斬江だ。
もしかしたらダメと言われるかもしれない……そう思いながら俺は、恐る恐る斬江との通話開始の箇所をタップした。
変な嘘をつく必要は無い、どうせ付近では今も俺の行動を武蔵さんが見張っているのだから。
『はーい、もしもし〜?』
「……もしもし、大和です」
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「……何だって?」
……電話が終わった後、振り返ると飯田さんが心配しているような表情をして、俺にそう尋ねてきた。
「……いいそうです」
そもそも俺は嘘をつくのは下手くそだ。
なので馬鹿正直に、今働いてるキャバクラの嬢の買い物を手伝いたいから、彼女の地元に一緒に行ってもいいかと聞いたのだ。
……結果は先程の通り。
仕事が始まる前に戻ってくれば何でもいいと……俺が思っていた理由と全く一致していたが、結果的に飯田さんの地元に行けるのであれば何でも良い。
「……そう、良かったじゃない」
そして飯田さんは何故か頬を染めて、俺から目を逸らしながらそう答えた。
俺と一緒に地元に行けるのが嬉しさを、素っ気ない態度で隠している……というのは行き過ぎた妄想か。
「……とにかく、行くならとっとと行きましょ。 早くしないと、夜割引の商品が売り切れちゃうの」
「はい、道案内お願いします」
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「……電車来るの遅いですね」
「……そうね」
「……また人身事故ですか?」
「ちょっと、変な事言わないでよ」
それから俺達は小田急新宿駅の改札を通って、のホームへと行き、そこで小田原方面行きの電車が来るのを、それぞれの家へと帰ろうとしている乗客達と共に二列に並んで待機していた。
俺達は列の一番後ろに並んでおり、前にいる乗客達は七列で、合計十四人もの人達が線路に向かって並んでいる。
俺達の列と同じドアから電車に乗ろうと隣に並んでいる者達も、こちらと同じぐらいの人数が長蛇の列を作っていた。
「……もう二十三時過ぎているのに、人が多いのですね」
「こんなの日常茶飯事よ。これから皆、このラッシュを頑張って乗り越えて、自分の家へと帰っていくのよ」
「俺達も乗れますでしょうか……」
「絶対乗るわよ!さっさと家に帰ってゆっくりするんだから!」
息が詰まりそうな程の人口密度の中、時計を睨んで電車の到着時刻を待つ事五分後……
やがてアナウンスがホーム内で流れると共に、青色のラインが入った電車が俺達の目の前へとやって来た。
電車の中は既にぎゅうぎゅう詰めで、その中にいる小田原方面から来た乗客達が降りて、一時的にもぬけの殻となる。
これからその電車に乗ろうとしている乗客達は、その電車内の光景を見て、何かの戦いに挑む前のような緊張している表情へと変わっていく。
『終点新宿駅、到着です。落し物、お忘れ物…』
「突っ込むわよ!」
「は、はい!」
それから電車の扉が開き、大量の乗客達が降りると同時に、列に並んでいた先頭の乗客達に続いて、皆次々と電車の中へと乗り込んで行く。
俺は何としてでもその電車に乗ろうとしている飯田さんに続いて、本当に二人とも電車に乗る事が出来るのかと心配しながら、後ろから乗客達に必死について行った。
そして俺達が電車に乗る番になった頃には、電車の中は人が二人分しか立てるスペースが無いぐらいに満員の状態と化していた。
俺達は乗客達に僅かに奥の方へと行ってもらい、そのお陰で何とか二人揃って同じ電車に乗る事が出来た。
「あっ、ありがとうございます……ふぅ、何とか乗れたわね」
「……はい」
その後、自分の周囲にて掴まる物が見つけられなかった俺達は、仕方なく出入口の扉が閉まった後に、そこへと寄り掛かるようにして、満員電車内での圧迫感と、これから訪れる電車内での激しい揺れに耐える事にした。
そして電車が動き出し、窓の外にある新宿の見慣れた景色が徐々に遠ざかっていく。
「それで、何処で降りるのですか?」
「本厚木ってと……っ!!」
突如、俺達は電車内で起きた揺れにより、奥の方で立っていた乗客達に窓の方へと押し出された。
「ちょ、ちょっと……」
その結果、俺は飯田さんを壁際まで追い込んで、彼女の右肩上を通り抜けるようにしてドアに手をつき、飯田さんの逃げ場か無い状態にしてしまった。
……いわゆる壁ドンという奴である。
「あっ、すみません……」
「……あんた、顔が近いのよ」
……それは飯田さんも同じであり、互いに目を逸らして、今の気まずい状況を乗り越えるしかなかった。
他の乗客達は、電車内での熱気に耐えて、顔に汗を流しながらスマートフォンを弄って時間を潰していた。
飯田さんも汗をかいており、彼女の首元を流れる汗が、鎖骨を通ってブラウスの中に入っていく。
その時の飯田さんは早く外に出たいと思っていたのか、本厚木駅とやらに着くまでの間、外の景色をぼーっと眺めていた。
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……それから相模大野駅に到着し、遂に電車は東京都から出た。
そこで一斉に乗客達が降車して、俺達はその席に座ろうとしている客達が周囲にいない事を確認すると……すぐ様その場所へと駆け寄って席に重い腰を下ろした。
「あぁー、やっと座れた」
「……飯田さん、いつもあんな電車に乗って家に帰っていたのですか?」
「行きはもっと凄いわよ、地面が見えなくなるぐらいに混むわ」
「そんなにですか……」
飯田さんは今日乗った行きの電車がどれくらい混んでいたのかを思い出していたのか、下を俯いて眠そうな顔をしながら小さく溜息をついた。
「眠たそうですね」
「ん……でも、まだ買い物とかしなきゃだから、気が抜けないわ」
「ですが少し目を瞑っているだけでも、起きた後に元気になれますよ」
「そうかしら……」
あまりの睡魔に、まるで長内さんのようなゆっくりとした口調になっている飯田さん。
それから徐々に時間が経過していくに連れて、飯田さんの口数が減っていき、俺達の間で静寂が流れ始める。
……暫くして、ふと俺は外を眺めている内に、自分の肩に誰かの頭が乗っているような感触に気が付いた。
「……」
その肩の方を見ると、飯田さんが俺の肩に寄りかかりながら、遂に寝息も立てずに、周囲に死んでいると思わせるぐらいに静かに寝てしまっていた。
ただでさえ家に帰れない状態かつ仕事で疲れているのに、それに加えて満員電車のストレスが加わり、本人もいよいよ限界の域に達していたのだろう。
本厚木駅に着くまでは起きないかもしれないと思うぐらいに熟睡している。
……飯田さんの体温を感じながら電車に体を揺らされていると、俺も徐々に瞼が重くなっていくのを感じる。
しかし俺まで眠ってしまう訳にはいかない。
仕方無く俺は起き続け、ドアの上にある電子掲示板を見て、本厚木駅に着くタイミングを見計らって、隣で寝ている飯田さんを起こしてやる事にしたのだった。
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……小田急線、本厚木駅。
普段は行った事が無くても、厚木市という名前だけは聞いた事があったその駅からは、俺達以外にも沢山の乗客達が降りた。
「あ〜、首痛え…」
「あんな状態で寝ていればそうなりますよ」
現在、俺は彼女と共に、深夜零時という事もあり、シャッターを閉めていた店に囲まれているロータリーにいた。
一方の飯田さんは眠そうな顔をしながら、首を傾けたり回したりしてぽきぽきと音を鳴らしている。
「……でも、やっと帰ってきたわぁ〜」
星を遮る都会の光が消えて、久し振りに見たような気がする星々。
先程までその都心の檻に閉じ込められていた飯田さんは、無事地元に戻ってきた事を喜ぶように、その夜空に向かって気の抜ける声を出しながら思い切り伸びをした。
歌舞伎町とは違って、どこの店も閉まっており全然眩しくない街並み……
その中に一つ、寂しく看板を光らせているスーパーマーケットがそこにはあった。
「こちらがそのスーパーですか?」
「そうよ、結構有名なスーパーなんだけど、知らないの?」
「はい……」
「あんた本当に普段から、歌舞伎町の中にずっといんのね……まぁいいわ行きましょ」
「了解です」
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