第十七話『宵の護衛』

……やっと休憩だ。


今日の午前帯は明治通りの道路工事の仕事だ……五月の今、冬の時とは違い暖かい為に、動く度に流れる汗の量も増す。


ノースリーブに短パンと、かなり通気性の良い真夏の格好でいても丁度いい程だ。


都心に集う数多の自動車を捌き、それぞれから聞こえてくるエンジン音に耳を詰まらせながら、車が通る分に劣化していく道路を補正していく。


俺に与えられた役割は、その道路から出るコンクリートのカスの掃除だ。


集めては捨てて、集めては捨てる……そんな繰り返しの作業を朝から行っている。


「……では行ってきます」


「おう、五分前には戻ってこいよ」


「了解です」


……そんなこんなで今は昼。


現場監督の人に休憩を貰い、俺は作業服のまま歌舞伎町に戻ってきた。


歌舞伎町は繁華街、居酒屋が多ければ飲食店も多く、そこで食事をする為に外から来た休憩中の社会人達が集まる。


更には元々町の中で働いている者達もいる……軽く済ませるならラーメンや牛丼、コンビニ飯等がいいのだが、昼飯時の今はどの店も混雑している。


いつもなら汗臭そうな店内に突撃してまでもエネルギーを補給する所なのだが……今日だけはそれらの店と違って行く場所があった。


ガスト新宿靖国通り店……本来ファミリーレストランであるその店は、とても工事現場の仕事をしている男が一人で来るような場所では無いだろう。


……しかし今の店内では、飯田さんが真緒さん達と共に大学のテスト勉強をしている筈なのである。


「いらっしゃいませ〜、何名様でのお越しでしょうか〜?」


「あっ、待ち合わせです」


「かしこまりました〜」


店員に入店の許可を貰い、店内へと入り客席にいる飯田さん達を探す……。


「……さて、この問題の答えは何だ?」


「aね」


「bなのぜ!」


「c……」


「全員違う、答えはdだ」


……いた。


彼女達は一番窓際の席に座っていた。


そしてテスト勉強するに至って、真緒さんが出題をして、飯田さんと何故か長内さんと瀬名さんまで混ざって、それに答えるという勉強法で実践しているようだった。


「という訳で最後の一個は私が貰おう」


「あ〜ん、それ食べたかったのぜ〜」


「……どうも」


「おっ、やまちゃんなのぜ〜!」


「あら、今日はスーツじゃないのねあんた」


「工事の仕事をやっていたので……今は休憩中です」


「何だか、新鮮……」


「とりあえず座ったらどうだ?」


「失礼します」


そうして真緒さんと飯田さんに奥の方まで詰めて貰い、テーブル席のシートに重い腰を下ろす。


「何か頼むか?」


「はい……今はどんな状況なのですか?」


「数学の勉強をしてるわ」


「それでまおまおが問題を出して、正解するとこのフライドポテトとかが一個貰えるゲームをしてたのぜ!」


「大学の問題って、難しいのね……」


「あんた達が勉強する必要は無いと思うけど」


「でもフライドポテト食べたいのぜ!」


「普通に食べればいいじゃない」


ハンバーグ、フライドポテト、パフェ……テーブルの上には既に四人分の様々なメニューが卓上を覆い尽くしていた。


その中に紛れている、飯田さんの大学の物だと思われるノートや教科書……山積みになっているそれらの本から、食事に来たのではなくあくまで勉強をしに来たという飯田さんの戦意を感じた。


「それで、調子はどうですか?」


「順調よ、家でも沢山勉強してきたし、何とかいけそう」


「数学なんぞ公式さえ覚えれば簡単だからな」


「うう……分数の計算とか分かんないのぜ」


「それは小学生の時に覚える範囲だぞ」


「えっ?」


真緒さんからの指摘に困惑の表情を浮かべる瀬名さん。


やはり十七歳の癖に高校に行っていなさそうなひとみは、彼女達の勉強会にあまり役に立っていないようであった。


「うう……頭悪くてごめんなのぜ」


「大丈夫よひとみ、最悪算数とかは足し算さえ出来れば仕事とか出来るから」


「こういう数学とかの応用は、あくまでいい学校に行く為の経験値に過ぎん」


「私も……分数の掛け算とか忘れちゃったかも……」


「そ、そうなのぜか……」


そんな落ち込んでいる瀬名さんは、真緒さんと飯田さんと長内さんと、彼女にとっての姉組にフォローを入れられていた。


……だが俺も高校は愚か中学校も真面に通って来なかったのが事実。


真緒さんのように勉強を教えられる程の学力を、生憎持ち合わせていない。


「もう普通に食べちゃっていいわよ、そろそろ冷めてくる頃だろうし」


「分かったのぜ! んーうまうま」


「冷めてるけど、美味しい……」


「後はここだけ分からないわ」


「……それは、ここの公式を使った方が楽なのでは無いか?」


「あらそうねぇ……あっ、仁藤くんもこれ食べていいわよ」


「ああ、ありがとうございます」


……それからクイズ形式は終了し、真緒さんが飯田さんに勉強を教えている間、長内さんと瀬名さんと俺で残りのサイドメニューを処理していく事となった。


「ご注文をお伺いします」


「えっと……ミックスグリルお願いします」


「畏まりました」


「やまちゃん、それも食べるのぜ?」


「ああ……何か頼まなきゃ、皆さんのご飯を貰う為だけに来たと思われてしまいそうなので」


「気にしていないわ……」


「……てか何であんた大学行ってない癖に、大学の範囲知ってんのよ」


「公式さえ覚えれば、高校の数学も大学の数学も関係ない」


「まおまお頭良いのぜな〜」


「私は、見てるだけで眠くなっちゃいそう……」


「……まぁ今の仕事には全く役に立っていないがな」


飯田さんと長内さんと瀬名さん……今度は真緒さんにとっての妹組に囲まれて褒められているような彼女だったが、本人は誇らしげに思う事無く、仕方の無い表情でシャーペンをクルクルと回している。


本人が言う通り、どんなに勉強をしてもそれに合う仕事に就かなければ意味を成さないという事か……。


しっかりと高校に行って、大学にも行っていたらどのような人生が待っていたのか……それを踏まえて、大学卒業後はどのような仕事に就いていたのか……


もうヤクザという進路が決まってしまった今、そのようなもしもを思っていても無駄だろうが、基礎から発展まである終わりの無い勉強をするよりは、常識さえあればこなせる仕事をしていた方が遥かに楽そうだ。


「じゃあ次は英語を勉強しようかしら」


「ん、私の出番……」


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「えっと……America is the third largest population in the world」


「おおお……!」


それから教科は英語へと変わり、飯田さんは英単語帳のような物を鞄から取り出した。


「……アメリカとワールドだけは、何とか聞き取れたのぜ」


……とは言っても、皆で英単語を覚える訳では無く、教科書を開いて英語の問題を解いたりする訳でも無く。


俺達は日本語を話している時とは違う、饒舌な英語でペラペラと話した長内さんに驚かされていた。


「まるで別人の様だったな」


「因みに何と仰ったのですか?」


「アメリカは、世界で三番目に多い人口です……って言ったの……」


「千夜……英語上手なのね」


「アメリカって世界で一番の人口だと思ってたのぜ……」


「それは中国だな」


「上手って言うか……私、小さい頃から、アメリカで住んでたから……」


英語を話さなくなった途端に、長内さんは元の日本語をゆっくりと話しながら、恥ずかしそうに下を俯いた。


長内さんの日本語が上手く話せないような所は、今までアメリカにて英語しか話していなかった事が影響しているのだろう。


名前にカタカナは入っていないのでハーフでは無く、長内さんは完全な日本人であると伺える。


「いいな〜、アメリカに住んでたんだったら、英語の勉強もする必要無いわけでしょ?」


「その代わり、日本に戻ってくる時……日本語の勉強が大変だった……」


「英語は大変だけど、外国人にとっての日本語は結構難しい所が多そうなのぜな〜」


「うん……」


「ああ〜、英語のテストの時だけ代わってくれないかしら」


「そんな理想を考えてる暇があったら勉強するぞ、ほらさっさと教科書開け」


「どうせ日本から出る事なんか無いし、英語なんか勉強しなくてもいいじゃない……」


そして飯田さんは真緒さんに尻を叩かれ、日本人なら誰もが思いそうな事をブツブツと呟きながら英単語の本を手に取った。


……しかし、休憩時間終了はそろそろ十分前にさしかかろうとしていた。


勉強会……俺が飯田さんに対して教えた事は何一つ無いが、そろそろ学力など関係ない肉体労働に戻らなければならない。


「じゃあ……俺はそろそろ失礼します」


「ええ、もう行っちゃうのぜ〜?」


「もうすぐ休憩が終わってしまうのです」


「ふむ……もうそんなに時間が経過していたか」


「楽しい時間は、あっという間……」


「本当は俺からも、何か教えられる教科とかあれば良かったのですが……何もなくてすみません」


「そんな事無いわ、休憩中なのに無理して来て貰ってごめんね」


……半分は遊んでいるようにしか見えなかったが、結果的に飯田さんはしっかりと勉強出来ていたのだろうか。


そんな彼女は俺の学力を分けられなかった事を否定しつつ、謝罪に謝罪で返してきてくれた。


「無理なんかしてないです。 休憩って言っても、ご飯を食べる以外は何もする事も無かったので……では皆さん、また後ほど」


「お仕事頑張ってなのぜ〜!」


「黒百合には、いつでもおいで……」


「ロイヤルメイデンでもまた会おう」


「やっぱりあんたは今日もお店に来るつもりなのね」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


……やっと工事の仕事が終わった。


「お疲れーっす、はいこれ、今日の分の給料ね」


「……ありがとうございます」


十七時になっても、空はまだ明るい。


冬の時とは違い、これから徐々に気温が上がっていくに連れて、日の長さが伸びていくのを感じながら監督から給料を貰った。


「……チッ」


頭を使わずに体を使った分、肩や腰に鋭い痛みを感じる。


このまま事務所に帰って風呂でも入りたい所だが、今日はまだロイヤルメイデンでの仕事が控えている。


ロイヤルメイデンに行けば飯田さんに会えるし、飯田さんに会えれば、真緒さん長内さん瀬名さんにも会える。


体が痛くてもそれらの期待だけを胸に詰め込んで、重い足を一歩ずつロイヤルメイデンへと運んで行く。


そして漸く着いたロイヤルメイデン。


「あら、仁藤くんじゃない」


すると、さっきも会った飯田さんが英単語帳を片手に読みながら靖国通りの方から歩いてきた。


「ああ……飯田さん、今日は遅刻せずに来れたのですね」


「当たり前じゃない、ずっと歌舞伎町の中にいたんだから」


「あれからずっと勉強をされていたのですか?」


「まぁね、おかげで結構捗ったわ」


「……あの三人は?」


「千夜は黒百合に帰ったわ、真緒とひとみも今日は黒百合の方から最初に行くって」


「なるほど」


「とにかく早く中に入りましょ、出勤時間過ぎてからタイムカード切るなんて二度とごめんだわ」


「分かってます」


そう飯田さんに背中を押されながら、ロイヤルメイデンの従業員専用口から中に入る。


「おはーっす」


「あっおはようございます」


「おはようございまーすっ♪」


まだドレスにすら着替えていないのに、早速スイッチをナナコへと切り替えている飯田さん。


彼女はその状態で次々とすれ違うボーイやキャバ嬢に挨拶しながら、タイムカードを切った。


「飯田さん、もうキャラが変わっていますね」


「変わってないわよ、普通に挨拶しただけじゃない」


売り上げに対しての競争心が激しく、ライバルも多いと思われるこの世界で、ナナコのような性格が客に受けても従業員には受けずに、敵を増やしてしまっているような気もする……。


「じゃあ私はここだから」


「はい」


「また後で……まぁ出来れば客席の方では会いたくないんだけど、今日は何の仕事をするの?」


「分かりませんが……厨房とか裏方の仕事だと思います」


「そっ、厨房とかなら私と会う事は無いわね」


そう言い残すと、飯田さんは女子更衣室の中に入って行った。


そこまでナナコの姿を見られたくないのか……こちらからはロイヤルメイデンに通い始めてから毎日のように見ているので今更のような気がする。


「何だ大和、女子更衣室の前に突っ立って、覗きか?」


すると将太さんがニヤニヤとしながらそのように声を掛けてきた。


「い、いえ……考え事をしていただけです」


「今日のナナコは遅刻せずに来れたみてえだな」


「はい、大学での授業が終わってから、お昼の内にすぐにこちらに来ていたようなので」


「流石じゃーまねだな、ナナコの事よく見てんじゃねえか」


「……俺は何もしてません」


「まぁ今日もウエイターの仕事を任せっからよ」


「今日は俺はサポートしねえから、何もかも一人でやってみようぜ、でも何か分かんない事があったらすぐに呼んでいいからな」


「……分かりました」


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キャバクラの中でのウエイター……つまりボーイの仕事。


ウエイター兼ボーイとは、黒服と呼ばれる仕事の中の一つであり、後の二つに店長とマネージャーの仕事がある……その中で今の俺は二つ兼用をしているという事だ。


キャバクラの中での男の仕事は殆どが裏方だけの仕事だと思っていた……飯田さんも仕事中は俺と会いたくないと言っていたが、残念ながらボーイはキャバ嬢と同じく客席ホールで仕事をしていく役職である。


「注文をお願いしま〜す!」


「はい……ご注文をお伺いします」


「生二つと、ウイスキー二つと、チーズたこ焼きと山盛りフライドポテトをお願いします」


「了解です」


様々なキャバ嬢に注文を頼まれて、客席に行き注文を聞きながら、タブレットにメニューの個数を入力していく……


ここまでなら一般的なレストランや飲食店と同じだが、キャバクラでのウエイターはレストランとは違って"片付ける"頻度を多くしていかなければならない。


「失礼します」


「おお、ありがとう」


キャバクラでは、客が頼んだ酒や氷……物が無くなるまで待つのでは無く、半分を切った時点ですぐに継ぎ足さなければいけないのである。


「失礼します」


「あっ、あざっす」


それに対して灰皿にタバコが一本だけ捨てられていても、ピーナッツの殻などのゴミがテーブルに置いてあった場合もすぐに交換だ。


このように無くなる物はすぐに増やし、逆に増えていく物はすぐに無くしていくようにと……注文よりは、交換と廃棄がウエイターの主な仕事だと将太さんは言っていた。


「ユキちゃんは、ゴールデンウィークに何する?」


「んーっ、友達と一緒に旅行でも行ってこようかなって思ってます!」


「いいなー、俺も着いて行っていい?」


「ダメですよ〜」


キャバ嬢達と客達がそれぞれペアになっている席から聞こえてくる会話を耳にしながら、テーブルの上に異常はないか目を光らせる。


「ゴールデンウィークも仕事だよー、佳奈ちゃん〜、働きたくないよ〜」


「私もゴールデンウィークはお仕事なんですよ……連休クソ喰らえって感じですよねぇ」


「シフト制だと、どうしてもそうなっちゃうよねぇ」


「お互いお仕事頑張りましょ」


客の中にはキャバ嬢の手に触れたり、抱きついたりしがみついたりと、酒の勢いもあるのだろうが構わずスキンシップを取ろうとしてくる者達もいる。


……いつかは胸や尻を触り出すのでは無いか、その客の様子もしっかりと見張って置かなければならない。


「ナナコちゃんは、今学生さんなんだっけ?」


「そうですよ〜♪」


……そしてその中には、当然ナナコもいて客に酒を飲ませながら話をしている訳だ。


彼女は俺の方に目を合わせる事無く、客と自身の私生活について盛り上がっていた。


「もうすぐテストなので、今すごい勉強してるんですよねぇ♪」


「あれ、それならお仕事休んででも勉強した方が良くない?」


「それだと今度はお金が足りなくなっちゃうんですよ〜」


「うーん……そこら辺のバランスって難しそうだよね」


やはり本人は悩んでいた学業と仕事の両立。


俺達の前では話題にすら出さない癖に、客に対してはその愚痴を聞いて欲しいレベルだったという事か。


……どちらかと言うとその悩みを聞くのは、マネージャーの俺の仕事である気がするが。


「……とりあえず私の話はいいんです! お客さんについての話をしましょ!」


「あっ、うん、その前にトイレ行ってもいいかな?」


「あぁ、かしこまりましたぁ♪ ちょっと待っててくださいね」


……すると、今までこちらに見向きもしなかったナナコが、俺の方を向いて二本指を立ててきた。


「……あっ」


……この合図は、キャバクラやホストクラブの業界では、トイレが空いているかどうかの物らしい。


すかさず俺は耳につけているインカムから、店内を徘徊している仲間のボーイ達の内から、トイレ近くにいるボーイにトイレの状況について連絡を入れる。


「……了解です」


そうして席が空いていた場合、ナナコに俺の方からも二本指を立ててトイレが空席である事を伝えるのである。


「……あっ、良かったぁ♪ 今なら空いてるらしいので行ってきても大丈夫ですよぉ♪」


「あっ、分かったありがとう。 じゃあ行って来るね」


「自分が御手洗までご案内致します」


「おっ、ありがとう」


そして客をトイレまで案内した後……


「宜しければこれをお使い下さい」


「あっ、ありがとう」


用を足し終わり、トイレから出てきた客には必ずおしぼりを渡す所までの一連の流れも、一般的な飲食店との大きなサービスの違いである。


ただマニュアル通りに仕事をこなすのでは無く、客に気配りもしようとする心が無ければ出来ないこの仕事。


店内のシャンデリアや七色に煌めく豪華な装飾

も相まって、どこかの城に執事として仕えているような感覚だ。


「いやぁごめんね! 話の途中でトイレに行っちゃって!」


「もう、お客さんお酒飲み過ぎなんですよ〜」


「いやぁ、仕事終わりだと結構美味しくてさ」


そして今のナナコは隣の国からやってきた王子を饗す城のお姫様といった感じか。


……他のキャバ嬢と会話をしている客達もそうだ。


皆、そのような王子になった非現実的な気分に浸る為に、このロイヤルメイデン城に来て金を散財する。


……しかし金が無ければ、この遊園地の中のアトラクションを体験する事は出来ない。


金も飲食店でのワンコインでは足りない程に、決して安く利用出来る訳では無い。


もしこの場所で飯田さんが働いておらず、キャバクラに行ける程の金があったなら……自分なら他にどう使うか、仕事をしながらその無駄な事を考える事で時間があっという間に過ぎていくのを感じたのであった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


……やっとロイヤルメイデンでの仕事が終わった。


飯田さん達に会えるからという理由だけで動かしていた身体は既にボロボロ。


昼の工事現場から夜のロイヤルメイデン……今日は一日に何歩歩いたのかがわからない。


このままマラソンでも始めたら、足の関節が腰から分離しそうな程の損傷だ。


「くっ……」


しかし退勤時のタイムカードを切らなければ、永遠に仕事は終わらないしこの店からも出られない。


「ぷはーっ」


……タイムカードの装置が見えたその時。


すぐ側にある休憩室では、ナナコが飯田さんに戻っており、自販機が近くにあるベンチに座りながらミルクセーキを飲んでいた。


「あら仁藤くん、お仕事終わったの?」


「……飯田さん、いつの間にかお仕事を終わらせていたのですね」


「これあげるっ」


こちらに気が付いた飯田さんは席から立つと、俺にもう一缶ミルクセーキを手渡してきた。


……どこかで遭遇した事のあるこの展開。


「……これは?」


「お疲れ様って事で先輩らしく選別よ。 仕事終わりのミルクセーキって超美味いから飲んでみ?」


「ああ……ありがとうございます」


彼女に言われるがまま、缶を開けてミルクセーキを飲む。


……甘く、牛乳のように濃い味。


しかしシャーリーテンプルとは違って、若干のとろみがある風味は、疲れた俺の体を癒した。


「……美味いです」


「でしょ〜、私は冬ん時の温かい方が好きなんだけどね」


「……それよりもどうしてここにいるのですか? 」


「この間のお返しよ、あんただって私よりも早く着替えたのに私の事待ってたでしょ」


「ああ……俺の事待っててくれたのですね。 ですが勉強の方は大丈夫なのですか?」


「いいのいいの、今日は家ではやらない分、歌舞伎町に来てから真緒達と沢山やったから」


「いいからあんたは早くタイムカードを切ってきなさいよ」


「はい」


自分から呼び止めた癖に、飯田さんは俺を休憩室から追い出して事務所の方に急がせた。


「よし、今日も黒百合に行くわよ」


「飽きないですね……まだバーに入り浸るようなお歳では無いでしょう」


「いいじゃない、別にお酒を飲みに行ってる訳じゃないし……それにあんただって、この仕事終わったら黒百合に行くつもりだったんでしょ?」


「……はい」


「おっ、二人ともお疲れ〜」


「「お疲れ様で〜す」♪」


将太さんとすれ違いで挨拶をした後、今日も二人でロイヤルメイデンの外へと出る。


今日も昼よりも人が多い、歌舞伎町一番街。


これからやってくるゴールデンウィークに人々は浮かれ、まだ始まってもいないのに連休気分でいると言う事か。


……それにしても本当に人が多い。


「良いわねぇ学生じゃない人達は、こっちはテスト週間真っ只中だってのにさ」


すれ違いに楽しそうにしている通行人を目で流しながら、飯田さんはそのような愚痴をこぼした。


「因みにテスト本番はいつからなのですか?」


「ゴールデンウィーク明けすぐよ」


「……じゃあ勉強は、この連休期間中にしろと言われているようなものですね」


「まぁ連休中も仕事なんですけどね」


休みたいけど勉強をしなければならない、勉強をしなければならないけど仕事もしなくてはいけない。


二方向から包囲されている今の状況……遂に飯田さんは客にだけではなく、その理不尽さを愚痴と共に吐き零した。


キャバ嬢のメンタル管理……これもマネージャーとしての仕事の一環か。


俺のロイヤルメイデンでの仕事は、どうやらまだまだ終わりそうにない。


「そうですか……じゃあ休める今の内に、沢山休まなきゃですね」


「ええ……本当はこのままカラオケに行きたいぐらいなんだけど、そんな時間無いわよね」


「……あっ、そうだ黒百合行く前に、先に駅に行ってもいいかしら」


「別にいいですが……どうしてですか?」


「私が黒百合から帰る時の駅の改札って、いつも混んでるから……今日はスムーズに帰れるように、先に定期にチャージしときたいのよね」


「そうですか……ですがそういう定期って、先に半年分くらい買っておくものなのでは?」


「それが期限が昨日で切れちゃってさ」


そんな苦笑いを浮かべている飯田さんと共に、新宿駅に向かう。


……このまま明日の仕事も忘れて、飯田さんと二人で電車に乗って何処かに出掛けられないだろうか。


「……何の騒ぎだ?」


……そんな現を抜かしていると、俺達は小田急新宿駅前で出来ている人集りに気がついた。


「……っ!!」


その人集りを見た瞬間、飯田さんは何かを察するような表情をした後、人集りが出来ている改札前へと一目散に駆け出した。


「なっ……ちょ、飯田さん……!?」


飯田さんの後を追い、俺も人集りの中へと突入していく。


周りにいる者達は、皆怒っている顔をしており……駅員に向かって罵詈雑言を言っている者、携帯電話で誰かと話している者、何かに諦めたような顔をして駅から離れていく者などがいた。


……その人集りの先にある、改札の手前に飯田さんはいた。


「……」


飯田さんは改札前に立っている看板を見ながら、世界の終わりのような表情をして立ち尽くしていた。


「一体何が……」


飯田さんの、死んでいる瞳の先にある視線を追って、俺も看板を見た。


……そこには『小田急線、運転見合わせ。 原因:人身事故』というふうに記載されてあった。


「……これって」


それから飯田さんは口を震わせながら、ゆっくりと口を開いた。


「……あーさいあく」


……そう、俺達は忘れていたのだ。


敵は休日を妨げる勉強だけでは無い、勉強を妨げる仕事だけでは無い。


……いつ遅延してもおかしくない、家路を妨げる電車鉄道もその一つであったという事を。

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