第九話『夕餉団欒』
『やぁ仁藤くん、どうしたの?』
「荷物が運び終わりましたので、ご連絡をさせて頂きました……なので真緒さんと一緒に、今日は上がらせて頂きます」
『うんお疲れ様……明日からはまた、歌舞伎町の方の事務所に九時集合ね』
「……了解です。 失礼致します」
午後八時……二回目の荷物も無事に運び終わり、社長に退勤の連絡をして通話終了のボタンを押す。
夜になった、宅配倉庫の土地一帯の景色……。
電気はついているのに、車などの目につくものが一切動かず、人の気配も全くしない不気味さを感じる。
潜入するのには絶好の機会ではあるが……予め斬江からは余計な事はするなと釘を打たれている。
ここで無理に潜入を行い、奴等に見つかって捕まってしまうのが最悪の結末という事だ。
斬江の言う事を信じて、とりあえず今日は退散して何十キロも自転車で移動した体を休ませるとしよう……。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
……やがて電車に乗って新宿駅に着き、夜でいつもの縁日騒ぎのような歌舞伎町へと戻ってきた。
通行人達は必ず誰かと一緒に歩いており、楽しそうに夜の時間を過している者達とすれ違いながら、今日の目的地である黒百合を目指す。
別に通行人達の事など羨ましくはない……今日はその者達と同じように、ストレスを発散させる為に俺も黒百合に向かうのだ。
しかし……その期待と同様に、俺の中では真緒さんがいつ何処で現れるかが分からないという緊張もあった。
潜入をしているのか、帰ったのか……彼女は今日も倉庫にて、いつの間にか姿を消していたのだ。
「……」
一体真緒さんは何がしたいのか。
彼女の目的について考えていると、いつの間にか俺はあずま通りの黒百合の前まで到着をしていた。
今日は瀬名さんが真緒かんに黒百合の事について紹介をしていたので、それを聞いた真緒さんが店に現れる可能性は高い。
黒百合の使徒……黒い下地に、赤い殴り書きのような文字で書かれた、そのヴィジュアル系じみた看板のデザインは、初見の客を一切寄せ付けない不気味さを醸し出している。
一体真緒さんはいつ店内に現れるのか……それとも既に、彼女は俺よりも早く先に来店をしているかもしれない。
ドアに立てかけてある看板が営業中である事を確認して、扉を開けて中へと入る。
「いらっしゃ〜い」
聞き慣れたドアベルの音と、聞き慣れたブルヘッドさんの声。
「いらっしゃいませ……」
昔からその二つの音を聞きながら黒百合に来ていたが、最近はその来店する度に耳にしていた音に長内さんの声も追加された。
店の中にはまだ誰もいない……どうやら俺が本日最初の客であるらしい。
その事に安心をしながら心を落ち着かせるようにして、開けたままであったドアをそっと閉めた。
「いらっしゃ〜い、待ってたわよぉやまちゃん」
「こんばんは、仁藤くん……これ、お水……」
「……ありがとうございます」
俺の前に水を置いて、そっと微笑む長内さん。
彼女は人見知りというステータスを持ちながら、多少は接客業という物に慣れてきていたのか。
大変恐縮なのだが、このような俺が来店をしてきて嬉しいと思ってくれているのか……普段は無である長内さんの表情が柔らかくなっているような気がした。
「今日のおすすめメニューよ!」
俺が勝手に、長内さんの成長に対して微笑ましく思っていると……ブルヘッドさんが勢いよく俺の前でメニュー表を置いた音により、そのほわほわとした気持ちはかき消されてしまった。
「……これは」
二枚重ねられていたメニュー表の上には、ブルヘッドさんの言う今日のおすすめメニューとして、ビーフシチューの写真が五百円にて載せられていた。
「……安いですね」
「そうよぉ、しかもその写真のやつ、ちーちーが初めて作ったお料理なの!」
「ブルちゃん……ダメよ、まだ私……上手に作れないわ……」
我が娘が作るかのように、自慢げに長内さんの肩に手を置いたブルヘッドさんとは対照的に……当の本人は手を組んでモジモジとしながら、自信が無さそうな態度を示した。
「大丈夫よ! オーナーの私が美味いと認めたんだから、自信を持ちなさい!」
「で、でも……」
「俺も、長内さんが作るビーフシチュー……食べてみたいです」
「……仁藤くんが、そう言うなら……」
「ビーフシチューなのぜ!?」
そう長内さんが心を開き始めているのを感じた時、連動するように唐突に開かれたドアの方へと一斉が振り向いた。
「あらとみー、いらっしゃ〜い!」
「皆こんばんはなのぜ! やまちゃんはまた会ったのぜな!」
「はい、ご無沙汰しています」
そうして次に来店してきたのは瀬名さん。
彼女は俺の隣に座ると、真っ先に俺の前に差し出されていた、ビーフシチューのメニュー表を手に取った。
「ひとみちゃん、聞いていたの……?」
「うん! あたい食べ物に関しては、どんな事も聞き逃さない自信があるのぜ!」
「どれだけ食い意地が張っているのですか……」
「えへへ、照れるのぜ……」
「褒めている訳では無いのですが……」
自身の頭を撫でながら頬を染めて、色々と勘違いしていそうな瀬名さんであったが……本人は楽しそうであるから、まぁ良しとしよう。
「どう? とみーもちーちーが作ったビーフシチュー食べてみるー?」
「食べるのぜ〜っ!」
「んぅ……」
ご馳走をする対象が増えて、緊張からか益々長内さんの顔から生気が無くなっていく……。
「じゃあ作りましょうちーちー、大丈夫よ! 私も手伝うから!」
「ちーちー頑張れなのぜ!」
「うん、頑張る……」
そうして長内さんは、俺達の前でビーフシチューを作りを開始した。
玉ねぎやにんじん、ブロッコリーにジャガイモ……そして牛肉が、長内さんの手によって色々な切り方で細かくされていく。
「ちーちー、包丁さばき上手いのぜな〜」
「そんなに見ないで……恥ずかしいわ……」
「指をケガしないように気をつけるのよ〜」
「うん、大丈夫……」
一方のブルヘッドさんは、徐々に店に来始めた客からの注文を受けて、別の料理を作りながらも長内さんのビーフシチューが作られていく工程を見守っていた。
客は数人しかいなくて少ないが、いつも二人だけで客達に料理を振舞っている。
この間に初めて黒百合で働いていた時、これで開店してからも出勤が出来ていたら、どれ程に料理で二人に貢献が出来ていた事か……。
「いいなー、あたい料理は出来ないから、ちーちーが羨ましいのぜ……」
「ここで働いている時には、お料理を作るのでは無いのですか?」
「あたい、いつもはウェイトレスとして働かせて貰ってるのぜ」
「ひとみちゃんにも、お料理……今度教えてあげるわ……」
「やったのぜ〜!」
「良かったですね」
「料理を教えて貰ったとしても、料理が作れる台所がある、家が無ければ意味も無いと思いますが……」
「おっ、お仕事が出来る幅が広がるだけでも違うのぜな〜!」
やがて料理の方は、肉が焼かれて野菜は炒められて……それら全てが赤ワインと共に鍋に入れられて、煮込む工程に入っていた。
「後は、煮込まれるのを待って……デミグラスソースを入れたら終わり……」
「おお! 意外と早かったのぜな〜」
「と言っても、あと一時間ぐらい待たなければいけないのだけれど……」
「大丈夫です。 全然待ちますよ」
「それで……他には何か頼まない……?」
「シャーリーテンプルでお願いします」
「クリームソーダなのぜ!」
「分かったわ……」
暫くして飲み物を俺達の前に差し出すと、長内さんは他の客に料理を作っているブルヘッドさんの援護に向かったのだった。
「そういえばまおまおはどうしたのぜ?」
「それがお仕事が終わる頃には何処にも見当たらなくて、多分用事か何かがあって先に帰ったんだと思います」
「そうなのぜかー、まおまおともまた会いたかったのぜなー……とりあえず乾杯するのぜ!」
「はい、乾杯ですね」
「乾杯なのぜ〜っ!」
クリームソーダという、バーには似合わなすぎる飲み物で俺と乾杯をする瀬名さん。
……とは言っても、俺の方もシャーリーテンプルもアルコールが入っていない、所謂なんちゃってカクテルである。
今は酒なんて飲み物は死んでも飲みたくは無いが、俺も瀬名さんも互いに成人を迎えれば、その内に酒を飲むようになるのか……。
「あーさむっ、あら美味しそうな匂いねぇ」
そう思っていると、今度はロイヤルメイデンでの仕事を終わらせた飯田さんが、俺達の前に姿を表した。
「いらっしゃ〜い!」
「凪奈子ちゃん、いらっしゃい……」
「なーな! 今ちーちーがあたいらにビーフシチューを作ってくれてる最中なのぜ!」
「ブルヘッドさんが言うには、今日のおすすめメニューらしいですよ」
「あら良いじゃない、私も頂こうかしら、でも大丈夫?」
「うん……凪奈子ちゃんも食べると思って、余分に作っておいたから……」
「用意周到ね……とりあえず喉が乾いたわ、シンデレラもお願い」
「畏まりました……」
そうして飯田さんの所にも飲み物が届き、本日二度目の乾杯を瀬名さんと共に行った。
「そういえばなーな! 今日まおまおと会ったのぜ!」
「ん? まおまお?」
「帝真緒さんの事ですよ」
「えっ、なんであんたが真緒の事知ってんの」
それから飯田さんには、昼間に瀬名さんと会った事、彼女を真緒さんの元に連れて行ってお互いを紹介させた事を話した。
「そういう事だったのねー……大丈夫? 真緒に何か変な事されてない?」
「?……特に何もされてないのぜよ?」
「ほっ、それならいいんだけど……」
「まおまおとなーなは、どんな関係なのぜ?」
「この中では誰よりも付き合いが長い、ただの友達同士よ」
「なるほどなのぜな〜」
「因みに真緒さんは、ロイヤルメイデンではよく飯田さんを指名する程の常連らしいのです」
「へぇ〜、あたいもそのお店行ってなーなを指名してみたいのぜ!」
「お願いだから来ないで……そもそもキャバクラって言うのは、あんたみたいなバリバリの女の子が来るような場所じゃないのよ」
「まおまおも女の子なのぜ?」
「いや真緒の場合は特別というか……」
キャバクラというのは本来は水商売、その店に訪れる男達は、下心の一つや二つを抱いてキャバ嬢達に会いに行く。
しかし女であって下心も一切無さそうな瀬名さんの場合は、コンビニでアルバイトをしている友達を揶揄いに行くようなノリで、飯田さんの事を指名しそうであった。
「あ、あの……」
「ん? どうしたの千夜?」
一方……先程から俺達の会話に参加したそうな感じで、こちらをじっと見ながら洗い終わった皿を布巾でふきふきしている長内さん。
「その真緒ちゃんって言うのは……一体誰……?」
「ああ、千夜はまだ会った事が無かったのよね」
「まおまおは銀色の髪で、赤いおめめをした……何と言うかカッコいいお姉さんなのぜ!」
「そして俺が今バイトをしている、会社の先輩なのです」
「そうなの……怖い人……?」
「全然、むしろ意外とフレンドリーな方ですよ」
長内さんから真緒さんの印象を聞かれて、俺がこれまでに彼女に対して思ったイメージを、頭の中で並べてみる。
……確かに瀬名さんの言うように、真緒さんは可愛いと言うよりは、宝塚歌劇団では男役を演じていそうなイケメンのタイプだ。
「目付きは悪いけどね」
「そうなの……?」
「ええ、あとは鈍感だったり、一応女の子なのに全然女の子らしくなかったり、挨拶代わりに一々体を触ってきたり……」
今度は飯田さんが真緒さんの事を紹介する番となったが……やはり一番付き合いが長いのか、彼女は次々と真緒さんについての情報を口にする。
彼女の口から放たれるのは、どれも彼女についての文句ばかり……
しかし満更でも無さそうな表情で真緒さんを語る今の飯田さんは、文句を言っていても、それでも真緒さんの事が好きなんだ感が満載であった。
「ふふっ……」
「へへへ……」
それを察したのか、長内さんは指を口に当てながら微笑んで、瀬名さんの方は八重歯を出しながらニコニコと笑っていた。
「な、何笑ってんのよあんた達……」
「やー、それぐらいにまおまおの事好きなんだなって、思っただけなのぜ!」
「凪奈子ちゃん……何だか嬉しそう……」
「別にマジでそんな事無いわよ……もう」
「……誰が鈍感だって?」
「えっ?」
カウンターの一番端から聞こえてきた、聞き覚えのあるハスキーな声。
……もうそろそろ現れるのでは無いかと思ってはいたが、彼女はまた唐突に俺の前に姿を現した。
「なっ、真緒っ!?」
「え……あの人が真緒ちゃん……?」
「やあ男女諸君、今日も外は賑やかな夜であったな」
ほら出た。
席から立ち上がって戸惑いを見せている飯田さんを筆頭に、いつの間にか端の席に座っていた真緒さんは、二本指を軽く振りながら俺達に向かってキザな挨拶を決めた。
「はい、お待ちどおさま〜、ご注文のモスコミュールよぉ」
「うむ、かたじけない」
「まおまおなのぜ!」
「帝さん……」
「あら皆お知り合いなの?」
料理を作ったりと仕事に集中していたのか……俺達の会話に着いて行けず、蚊帳の外にいるブルヘッドさん。
彼は真緒さんと俺達が纏まっている席の方を、キョロキョロと交互に見ていた。
「よう仁藤、ひとみ……凪奈子、ここが黒百合の使徒で合っていたみたいだが、店内はまるでミリタリーショップのような内装だな」
「うふふっ素敵でしょう〜、私の趣味なのよぉ」
「あんた……いつからいたのよ」
「ふっ、仁藤とひとみがシャーリーテンプルとクリームソーダを頼んだ辺りからだな」
「大分前からいたのですね」
「全く気が付かなかったのぜ……」
「ふっふっふ……」
結構近くに座っていたのに俺達に存在を悟られない、自身の隠密能力を自慢げに思っているかのように笑いながら、モスコミュールを持って俺の隣に座ってきた。
「改めて自己紹介をしよう、私の名は帝真緒と言う、宜しくな」
「お、長内千夜です……宜しく……」
遂に見えた初対面の二人……
真緒さんは相手を怯えさせない、優しそうな表情で名前を名乗ると……長内さんの方も体をもじもじとさせて噛みそうになりながらも、自己紹介をした。
「気をつけなさい千夜! 離れてないと何されるか分かんないわよ!」
「えっ……?」
「おいおい、人をそう危険物のように扱ってくれるな」
「まおまおの飲んでるその飲み物、美味そうなのぜ!」
「おぉ、これか? モスコミュールというノンアルコールカクテルだ、お前も飲んでみるか?」
「飲んでみるのぜ〜♪」
……そして漸く集結した、俺が歌舞伎町で働き始めるようになってから出会ってきた四人の少女達。
一人と会うだけでも充分に疲れを癒させてくれるのだが、今目の前では四人全員が集まっているのだ。
夢の共演とうたって、最近の特撮映画で見るような豪華さを感じる。
「……それでビーフシチューだったか、私にも作ってくれるかな」
「大丈夫よ……作れるわ……」
「皆より早く来てるんだったら格好つけてないで、もっと早くから注文しなさいよね」
「ふっ、普通に登場してもつまらんからな、ちょっとしたサプライズという奴さ」
「本当にびっくりしたのぜ〜」
「もうすぐ出来上がるわ……」
皆の視線が真緒さんの方へと集まっている中、長内さんは皿にビーフシチューをよそって、それぞれが座っている席の前に置き始めようとしていた。
飯田さん、瀬名さん、俺……そして真緒さん。
長内さんがいるカウンター側から見て、右側に座っている者からビーフシチューが配布される。
「どうぞ……」
「うむ」
そうして最後に真緒さんの方にもビーフシチューが行き渡った。
飲食業では当たり前な、初対面の客に店で作った手料理を食べさせるという行為。
真緒さんに向けた、千夜さんの不安げな表情からなる緊張感が、こちらの方にまで伝わってくる。
そんな自信の無さそう長内さんだったが……ビーフシチューの方は、冷えた体を温めるには十分そうなぐらいに湯気が立っており、数十分煮込んだ牛肉の匂いが鼻を包んだ。
「おお、美味しそうなのぜ〜っ!」
「じゃあ、早速頂きましょうかね」
「どうぞ……」
「「頂きまーす」」
食事の号令をした飯田さんと瀬名さんに遅れを取られたが、俺も頂きますと呟いて、真緒さんと共にビーフシチューを口に運んだ。
「んん゛っ、あっっつ!」
「バカねあんた……ふーふー冷まさずに口の中に突っ込んだら熱いに決まってるじゃない」
「えへへ……でも美味しいのぜ〜」
「本当ね〜、牛肉が柔らかいわ」
頬を動かしている瀬名さんと飯田さんのやり取りを見ながら、俺もビーフシチューを味わう。
飯田さんの言うように、デミグラスソースの出汁が効いた牛肉は、舌で転がしていくと解れていく程に柔らかい。
「そう……? 美味しい……?」
「はい、美味しいですよ」
「パンと一緒に食べたい所だな」
「良かった……」
祈っているようなポーズをして皆の食べる様を見守っていた長内さんは、皆から味の感想を聞くと、腕を降ろしながらほっと溜息をついた。
「本当に良かったわねちーちー、日頃の練習の成果が出たわねぇ」
「うん……ありがとう……ブルちゃんのおかげよ……」
皆に食べさせる料理が作れるようになるまでは、積み重ねた練習量からなる努力があったという事か。
ブルヘッドさんから頭を撫でられている長内さんの瞳は、一瞬だけだが光が入っていたような気がした。
「うーん、でも本当に美味いわこのビーフシチュー」
「んまんまなのぜな」
「今度私も作ってみようかしら」
「なーなも作れるのぜ!?」
「まぁね、でもビーフシチューって作るのに時間がかかるから、余程暇な時じゃないと作れないわ」
「良いわねぇ、お料理が得意なら是非うちで採用したいわぁ」
「あはは……すみません、私にはロイヤルメイデンでのお仕事があるので……」
料理に対して知識がありそうな飯田さんをすかさずスカウトしようとするも、あっさりと振られてしまったブルヘッドさん。
真緒さんだけでなく、飯田さん長内さん、瀬名さんと共に働ければどれ程に楽しい時間が過ごせるのか……
しかし同時に仲が良いからこそ、無様な姿は見せられないと緊張してしまい、仕事どころでは無くなってしまう可能性も考えられる。
「……さーて、私はそろそろ帰ろうかしら」
「ええっ、もう帰っちゃうのぜ!?」
……暫くして飯田さんは、時計が二十一時を報せる鐘を鳴らすと、そう言いながら席から立ち上がった。
「ひとみちゃん、仕方が無いわ……凪奈子ちゃんは、住んでる所が遠いから……」
「あっ、それならしょうがないのぜな……」
飯田さんの住んでいる地元は神奈川の厚木市。
実家暮らしの彼女は往復二時間を費やしながら、新宿駅や田町駅を行き来している……なので今から帰らなければ、終電に間に合わなくなってしまうらしいのだ。
「いい加減近くに越してきたらどうだ? 山手線沿いに住めば少しは楽だろう」
「そういう訳にもいかないの、ブルヘッドさんお会計お願いします!」
「はぁい、毎度あり〜」
「……そうだ凪奈子、どうせなら駅まで送ってやろう」
「……え?」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
……その後。
「あーさむっ、とっとと電車に乗りたいわ」
「今日はよく冷えるらしいからな、帰る途中で風邪を引かんようにな」
「ありがと、気をつけるわ……」
「……てか」
……真緒さんと会話をしていた飯田さんは、何者かの視線に気づくとその者達の方へと向いた。
「……どうも」
「んっ……さむい……」
「えへへっ、ちーちー着込みすぎてペンギンみたいになってるのぜ〜」
「……何であんた達まで着いてきてんのよ」
……そう、俺は長内さんと瀬名さんと共に真緒さんき便乗をして、飯田さんを送ろうと新宿駅まで同行しようとしていたのだ。
「てか私一人で帰っても、全然大丈夫だったのよ?」
「ただの暇つぶしだ、気にするな」
「あんたの言い方は、何だか問題があるわね……」
「夜の街を、女性だけで歩かせるには危険ですから」
「皆と一緒に帰った方が、きっと楽しいのぜな〜!」
「ブルちゃんが……私も一緒に行ってらっしゃいって、言ってくれたから……大丈夫だと思う……」
「ありがとう……歌舞伎町からこんな人数に駅まで送って貰うのは初めてよ。 けど何だか恥ずかしいわね」
軽はずみな発言をした真緒さんとは一方……
俺達に対しては、温かそうに頬を染めて、口を緩めながら自身の頭を撫でる態度を示した飯田さん。
……俺も四人に囲まれている影響からか、人口密度が高く、真冬の夜なのに体が温かく感じる。
この温かさは、ただ歩いているだけの理由では無いと思う。
「でもやっぱり、お別れするのは寂しいのぜ〜」
「なら今度の日曜日、皆でどこかに遊びに行かない?」
「えっ、いいのぜ!?」
「大丈夫……?」
「ええ、皆さえ良ければなんだけど……」
「ならどっか行くのぜ!」
「どっかって、どこ……?」
「何処でもいいけど、なるべく都内でお願いね」
片方には長内さん、片方には飯田さんと手を繋いで、ぶらぶらと腕を揺らしながら歩いている瀬名さん。
黒百合の外にいる事自体が貴重で、瀬名さんに手を繋がれて戸惑っている様子の長内さん。
はしゃいでいる瀬名さんを、実の姉のように優しい眼差しで見ている飯田さん……。
「……ふむ」
そして三人が並んで歩いている光景を、真緒さんは腕を組みながら俺と共に後ろから眺めていた。
「……皆さん、楽しそうですね」
「ああ……あんなに楽しそうにしている凪奈子を見たのは久しぶりだ」
「そうなんですか?」
「今までの凪奈子にとって、この歌舞伎町はただの仕事場としか思っていなかった筈だ」
「そのようなストレスが多い環境で、友人が出来たというのは……本人にとってもかなり嬉しかった事であろう……」
瀬名さんの事は飯田さんが見守っていると思いきや、実は真緒さんの方からも飯田さんの事を見守っていた。
飯田さんの背中を見つめている真緒さんの表情は、微笑みながらもどこか切なくて儚げであった。
「真緒さん、飯田さんと何かあったのですか?」
「いや何にも無いぞ……まぁ私の話はどうでもいいさ」
「……それよりもお前、あんなに女の知り合いがいたとはな、女には興味が無さそうであるのにやはり隅に置けない奴め」
少しだけ真緒さんの過去に触れようとしたが、そうはさせないかのように、真緒さんは話題を変えて俺に良からぬ表情を浮かべながら肘をついてきた。
「はい……?」
「あの中であればどの娘がタイプだ……ん? 」
「そんな……選べませんよ。 仲良くして頂いているだけでも有難いのに」
「むぅ……変な所で謙虚な奴だ。誰かの事を好きになって何が悪い」
「直接言わなくても、一方的に想っているだけなのであれば誰にも迷惑はかからんぞ」
「そうですか……まだ分かりません。 皆さんとお会いしてから、まだ日も浅いので」
「それもそうか……まぁゆっくりと考えてみるといい」
「はい……」
「だが皆と仲良くなる為には、まずその敬語口調から直していかなければな」
……やはり指摘をされた、誰に対しても敬語で話すようにしている俺の癖。
今までにあまりにも敬語で接しすぎたので、タメ口で話すのは別に構わないのだが、その口調で話し出すタイミングが分からない。
何かきっかけがあれば良いのだが……元々コミュニケーションが苦手である俺は、改めて人と仲良くなるという行為の難易度を思い知っていた。
「あんた達はどうすんのー? 日曜日一緒に来るのー?」
「お台場に行く事になったのぜ!」
「ああ、私も仁藤も揃って参加をさせて貰うぞ」
「ちょっ、真緒さん?」
日曜日の予定を思い出していると、やはり真緒さんは俺に考える隙を与えず、俺に肩を組みながら飯田さんからの誘いに乗った……俺と共に乗らせたと言った方が正しいか。
「これで、全員参加……」
「日曜日が楽しみなのぜな〜」
幸いにも日曜日は、唯一斬江から許し与えられた休みの日だ。
日頃の潜入の仕事は大変だが、明日も真緒さんに会える以外に、日曜日の為に頑張ろうというモチベーションがもう一つ追加された瞬間であった。
「じゃあ皆とはここでお別れね」
……暫くして到着した、小田急新宿駅前の改札。
駅前は飯田さんと同じように、疲れた体を休ませる為に一刻も早く家に帰ろうとしている社会人達で混み合っており、彼女が今から満員電車に遭遇をしようとしているのは明らかだ。
「皆送ってくれてありがとう、気をつけて帰んのよ〜」
「それはこちらのセリフだ」
「また、お店にも来て……」
「ばいばいなのぜ〜っ!」
そうして改札を通り、人混みに消えて山手線のホームへと向かって行った飯田さん。
「……」
彼女がいなくなり、心にあるパズルのピースが一つ欠けたような気分だ。
……そして俺達も歌舞伎町へと引き返し、家路を纏まりながら歩いて、それぞれの帰るべき場所へと帰っていく。
「じゃああたいは、ここで失礼するのぜ!」
瀬名さんは歌舞伎町一番街にある漫画喫茶へ。
「二人とも、またね……」
長内さんはあずま通りの黒百合の使徒へ。
一人……また一人と消えて行き、寂しい気持ちが膨れていく中で、とうとう真緒さんとも別れる時がやって来てしまった。
「……では俺は、花道通りの方に帰りますので」
「うむ、そうか……ではここでお別れだな」
俺が区役所通りの方から通って帰ろうとすると、真緒さんは道を外さずに突き進むのか、引き続き靖国通りを通って自宅へと帰ろうとしていた。
「……そう言えば、真緒さんはいつも何処で寝泊まりをしているのですか?」
「歌舞伎町外れにあるアパートだ、ここから歩いて十分程だな」
そう言ってゴールデン街の方へと指を指す真緒さん。
どうやら俺達の中では凪奈子の次に、彼女が家に着くまでの時間が長くなりそうであった。
「アパートという事は、一人暮らしですか?」
「ああ、最近始めたのだが……私の事が心配なのか、度々仕送りを送ってきたり様子を見に来たりするのだ」
「親には頼らず生きていく為に、私の意思で始めた一人暮らしだったのだが……生活に困らないという意味では助かるな」
愚痴と共に、真緒さんの口から溜息が漏れる。
「……それ程、お父様から愛されているんだと思います」
「そうだろうか……一応人並に料理や家事も出来るし、生活をしていく自信もあるのだが……」
真緒さんの父親とは、勿論我々皇組と敵対をしている、帝組組長の帝真である。
厳つい、怖いなど……血の気が高そうなイメージしかない組長の存在だが、帝真の場合は案外娘思いなのかもしれない。
……そんなに自分の事を愛してくれる、血の繋がった者がいるとは羨ましい限りである。
「……では私は失礼するぞ」
「ええ、道中お気をつけて……」
「ふっ、心配は無用だ。 私はそこらの娘とは違って強いからな……痴漢など私にとってはサンドバッグに過ぎん」
「中々のパワーワードですね……」
何なら真緒さんを、彼女が住んでいるアパートまで送って行きたい所ではあるが、斬江を待たせる訳には行かない。
「またお互いに明日頑張ろう」
「ええ、お疲れ様でした……」
そうして真緒さんとも別れて、俺はまた独りぼっちになった。
孤独感に心を蝕まれそうになるも、早く斬江の元に帰らなければならないという使命感にそれを剥がされる。
もう俺の周りには誰もいない。
付き添って歩く必要は無く、素早く行動出来るようになったと考えれば利点だ。
……だがその時、スラックスのポケットに入っているアイフォンが、着信を受け取ってバイブで震えた。
俺の電話番号を知っているのは斬江のみ。
一応着信画面に彼女の名前が表示されている事を確認した後、通話開始のボタンをタップしてアイフォンを耳元に当てる。
「……はい、仁藤です」
『もしもし、大和……今から私の部屋に着てくれる?』
「……了解です」
彼女の部屋とは、東宝ビルの最上階にある、斬江が普段から寝泊まりをしている場所の事だ。
……このような時間から、そのような場所に、俺を呼び出す斬江の目的とは一つしか無い。
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