3節 君は無慈悲な夜の魔女。
第19話 完璧な朝、なんて全部嘘。
──何かを守り、救うために命を使うことは正しいことだろうか?
正直に言おう。
自己犠牲なんてクソ食らえだ。
他人のために身を差し出すなんて正気じゃない。
慎重に堅実に、生きて、長生きして、畳の上で死ぬ。
それ以上にいい人生なんてあるだろうか? いいや、ない。
それが
「日南」という致命的に無鉄砲な家系に生まれ育った反動だ。
人が呆気なく死ぬことを知っていて、自分がそうはなりたくなかった。
平穏凡庸安定志向。器用にそれなりに上手く立ち回って、そこそこの幸せさえ手に入れられればいい。
俺は、「普通の人生」が欲しかった。
けれどやはり。
──何かを守り、救うために命を使うことは
そうでなければ俺を守って死んだ両親が間違っていることになる。
そうでなければ見知らぬ子供を救って死んだ祖母が間違っていることになる。
死者の冒涜は、絶対に許されない。
だから。
『どうか世界をお救いください』
異世界に召喚され、そう
答えた。
『俺でいいのなら』
迷いは、少しもなかった。
たとえそれが自分の願いと相反するものだとしても。
それが「正しい」と信じたから。
『正しく生きなさい』と祖母は言った。
『正しく生きるってのはね、死ぬ時に笑えることさ』
俺は、笑えない人生を選ぶのはごめんだった。
──教えは死んだ人間のものであるほど重い。
◆
一夜が明けて、わたしが目を覚ましたのは良い匂いがしたからだ。
こんがりと焼けるトーストとお味噌汁。
この半年に身に染みた、朝の匂い。
異世界にはない、この世界で最も素晴らしいものの一つ。
「ん、んぅ……」
ソファの上でのたうつように寝返りを打った。
「おまえさあ、ソファで寝るなよ」
飛んでくるのはあきれたおはようの代わりのお小言。
半分、身を起こす。
「そろそろ起きると思ったよ。おはよう」
わたしはふわふわと寝ぼけ眼で曖昧な返事と挨拶を返して、二度三度と目を擦った。
飛鳥がテーブルで頬杖をついてこちらを見ていた。
少しやつれていて、絆創膏が目立っているけれど、あいかわらずTシャツはくそばかで、わたしに意地の悪い顔で笑いかけている。
──まるで昨日、何もなかったかのように。
跳ね起きた。
わたし今昨日のこと全部思い出した。
寝惚けている場合じゃない。
ずり落ちた毛布を蹴っ飛ばして飛鳥に詰め寄る。
「大丈夫なの!? ていうか大丈夫じゃないでしょ!?」
テーブルに並んでいるのは
──な、何、呑気に朝ご飯作ってるのこいつ!!?
椅子に座ったまま退けぞって手を上げる飛鳥。
「うわびっくりした」とか言ってる場合じゃない!
「昨日、自分がどうなったか覚えてないの!?」
「覚えてる覚えてる。おもくそゲロ吐いて、帰ってきてそのままぶっ倒れた」
「合ってる! けど!」
言い方ッ!!
「まじごめんね」
「軽すぎる……!」
目に焼き付いているのは、そんな、軽い光景じゃない。
──血と吐瀉物の臭い。真っ暗の中、芋虫みたいに縮まる背中。
思い出すだけで背筋が寒くなる。頭が真っ白になって、涙が溢れそうになる。わたしは何もできず立ち尽くしているだけだった。何かとても、悪いことが起こっているのだと思った。
なのに。なのに!
「いやぁ今世紀で一番ダサかったな昨日の俺」
なのに穏やかな朝の光景が、朝食のいい匂いが、あまりにへらへらと笑う目の前のこいつが!
わたしを強引に日常に引き戻して──力が抜けそうになる。
「心配かけて悪かった。急に昔のこと思い出してさ、情報量で悪酔しただけだ」
──それだけなものか。
「俺さぁ、めっちゃ酔いやすいんだよね。船とか酒とか人混みとか」
──それだけな気がしてきた。
「大丈夫だよ。飯さえ食ったら治る」
目を見る。
──やっぱり、そんなわけない。
ひりつくような違和感があった。
その違和感は、テーブルから発せられていた。
規則正しく並べられたお皿。
こんがりと焼き上がったトースト。
お気に入りのジャムに、湯気の立つお味噌汁。
そして飲み物の用意だけがまだ。
完璧な朝の用意だ。このまま学校に行けてしまう。夏休みだけど。
……そう、夏休みなのだ。
几帳面を基本とするわたしたちでも休日は堕落を極める。変な時間に起きて適当に朝ご飯なのか昼ご飯なのかわからないものを食べたりする。
まして今は非常事態で、規則正しい生活なんてものにかかずらっている場合ではない。
目の前の光景は
察しのよくないわたしにもわかることだってあるのだ。
わたし自身のこととか、わたしと同じモノのこととか。
このやり口はよく知っている。
かつてのわたしと同じ手口じゃない?
ねえ飛鳥。うまいこと平気なフリをしたつもりでしょうけど。
年季が違うわ。わたしにそれを仕掛けるのは無謀というものよ。
でも。
追求は吐き出さず、飲み込んだ。
「……コーヒー淹れてくる」
身支度をして、使い慣れた揃いのマグカップを下ろして、インスタントのコーヒーを作る。
追求をしようと思えばできたけど、やめた。
聞かれれくないなら話したくないなら、何事もなかったことにしたいなら、取り繕ったそれを無理矢理剥がすことはしない。
──できない。
どれほど日常を共有しても、わたしたちの関係の本質は何も変わらない。
良き隣人、良き理解者。
定義とルールと気遣いと不文律で成り立つ、
傷に触れてはいけない、だけど目を背けてもいけない。
予防線を蜘蛛の巣のように張り巡らして、許される範囲で冗談を言い合う。
今更隠し事はしないと表向きは言い張るけれど、聞かれなければ答えないし、本当に言いたくないことは言わない。
友達であっても、恋人ではない。
──わたしたちの関係はその実、五月のあの夜から一歩も踏み出せてはいなかった。
キスはしても付き合ってない。
一緒に住んでも結婚してない。
抱きしめたって愛してるなんて言えない。
どれだけわたしが好意をぶつけても、あいつが応えることはない。
つまるところ今のわたしの定義は「都合のいい女」であり、それが演じるべき役で、実際わたしは都合のいい女でいたいと願っている。
都合がいいっていうのはつまり、嘘に騙されてあげる甲斐性くらいはあるということだ。
……なんか、癖で難しいことを考えてしまったけど。
要は信じたってこと。
八割強がりっぽい雰囲気がするけど。
飛鳥が大丈夫だと言うのなら本当に大丈夫ということにしてあげなくもない。
ま、実際軽口を叩く元気はあるようだし?
わたしに気を回す余裕だってあって、何よりちゃんとご飯を食べる気がある。
えらい。もう人間として百点あげちゃう。満点は千点です。
あいかわらず素直に弱みを見せないのはどうかと思うけど!
煩悶と葛藤はコーヒーをぐるぐる回していたら溶けて消えた。
もしかしたら飛鳥の理由もシンプルに「飯作ってたら落ち着く」とかいうものかもしれないなと思った。
はいはい杞憂。わたしの悪癖。心配も過ぎれば毒だ。たまには飛鳥の楽観主義を見習うべき。
「お待たせ」
切り替えて、朝ご飯。
歓談を交え、今後の方針と今日の物騒な予定を切り出しながらコーヒーを飲む。
「あれ。わたし、飛鳥の分に砂糖入れたかしら?」
両方ミルクは入れない主義だ。
見た目に違いはわからない。
考えごとをしながら作っていたせいで、いまいち記憶があやふやだった。
飛鳥は半笑いでマグカップを置く。
「どうりで変だと思ったよ」
そのままテーブルの砂糖瓶から四つ、真っ黒な液体の中へ。
ぽちゃん、と落ちる音を聞いて。
「相変わらず歯が溶けそう」
「美味いぞ」
そして溶かしたコーヒーに、飛鳥が再び口をつけるのを見て。
その時。
わたしは──気付いてしまった。
立ち上がる。
椅子が倒れる音がした。
「あんた、大丈夫じゃないでしょ」
「何が?」
「そのコーヒー、
思い出したのだ。
──わたしはちゃんと、キッチンで砂糖を入れていた。
飛鳥はゴトリ、とマグカップを置いた。
「大丈夫だ」
──そんなわけない!!
叫ぼうとした。
「……そういうことにしてくれ。頼む」
何も言えなくなった。
立ち上がったままでは俯いた顔が見えない。
だけど掠れた声が、もう全部、言ってる。
……下手くそ。
もっとうまく、演じなさいよ。
「〜〜〜〜っ!!!」
胃の底がくるくるくるくる唸っているのはお腹が空いたせいなんかじゃなくて、今すぐすべてをめちゃくちゃにしてしまいたくなった。
その衝動のまま、飛鳥のコーヒーを奪う。
「あ、おい!」
飲み干す。
砂糖八つ分。
溶けきってさえいない。
毒みたい。
──甘い甘い甘ったるくて、反吐が出る!
……本当に、最悪な味。
唖然とした飛鳥の眼前に、空っぽのマグカップを静かに叩きつける。
「あなたがそのつもりなら、いいわ」
わたしは都合のいい女なので。
頼みを断ることなどできやしない。
わたしはあなたの魔女なので。
願いを聞くことしかできないのだ。
「
大丈夫。こんなものはただのいつもどおりの奈落だ。
──だから、お願い。
壊れるな世界。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます