第34話 わたしたちはきっとこれから。
幼馴染組と別れて、彼らは高台に向かう。
海と山の間にある町は、少し坂を登れば見晴らしの良い景色が広がるだろう。
「いい場所知ってるんだ。昔よく来た」
足取りは履き慣れない下駄にも関わらず軽い。
むしろ地に足つかない浮遊感。祭りの気に当てられたまま飛鳥は、危なげなくついてくる隣の彼女を見やる。
こうして二人きりになったのは、同じ
咲耶は所用で数日実家に戻っていたし、飛鳥もまた後始末で数日を費やして、あれからまともに話す時間を取れてはいない。
二人きりの会話をどうやるのだったか、と僅かに逡巡して。
当たり障りないことを言う。
「楽しかったな、今日は」
「ふふっ」
咲耶は軽やかに、相槌がわりに笑みをこぼして。
足止めた。
すうっと夜に溶けるように笑みを消す。
何も取り繕わない無表情になる。
「──本当に?」
飛鳥もまた、上げた口角を下げる。
「俺はそこまで嘘が上手くないよ」
「そうね。そうだったわ」
再び歩き出した、二人の足取りは軽いとは言えなかった。
互いに気を遣い合いながら、腹の底を探り合うような微妙な距離感。
気不味さはない。しかし気安さもまた、ない。
──日常は未だ修復が叶っていないまま、今日を迎えていた。
お互い「いつも通り」の維持には一家言ある。
夏を取り戻すのだというお題目を掲げた手前、友人たちの前ではそんな素振りを見せず年甲斐もなくはしゃぎ倒すことなど朝飯前だ。
切り替えがよくなければ異世界帰りで人生などまともにやってられない。
だが、こうして二人きりになった今。
憂いなく楽しむために必要な仮面もまた剥がれ落ちる。
そして思い出す。
──何食わぬ顔をして日常に戻るには、入った
沈黙のまま足を進め、高台に辿り着く。
周りの建物の影になって、知らなければ気がつかない穴場だ。
下は軽く崖のようになっており、開けた視界からは町が一望できる。
他に人の気配はない。
花火はまだ始まらず、海と繋がった広く暗い夜空もまた、幕が降りたように沈黙していた。
眼下には無数の街明かりが、星のように瞬いていた。
その光景を前に彼女は思い出す。
遠い過去にも思える夏の始まりに、夜の屋上で共に星を見たことを。
『文月咲耶』が抱え続けた恋の呪いを解いて、好きだと言ってくれた日のことを。
夏の終わりの夜の、ぬるく湿った空気を深く吸い込んで。
彼女は口を開く。
「本当に良い場所。ここならできそう」
「何を?」
「大事な話を」
振り向いた、彼女は丁寧に作られた微笑を浮かべて。
「忘れた? 『大事な話をするなら場所を選べ』って言ったの、あなたじゃない」
かつて夜の屋上で彼が言った言葉の意味を、咲耶は今なら完璧に理解できる。
「そうだな」と彼は頷く。
確かに、大事な話をするのは半端な道端では駄目だ。
それなりの雰囲気に酔えて、崖のように逃げられないほど高いところがいい。
「そうでしょ」と彼女も微笑む。
家は駄目だ。大事な話をするのに向かない。
だって守るべき安息の地では日常を破壊する言葉を告げられない。
だから、ここで。
二人きりになったのは向き合うためだ。
過去と感情と、今に。
彼女は目を、閉じて。開く。
昂る心に呼応して溢れ出した魔力が、眼球に張り付くレンズを突き抜けて片の瞳を赤く染めた。
──あの夜の屋上で好きだと言ってくれたことは、大事な思い出だ。忘れてない。
だけど。
「ひとつ確かめさせて」
晩夏の風が彼女の前髪を吹き上げる。
硬く結われた後髪の先で、揺れる簪が寂しげに鳴った。
「
彼は答えない。
表情は、恐ろしいほどに凪いだ無だった。
その顔をされては感情を読み解けない。
彼女は構わず畳みかける。
「あなたは『好きに理由はいらない』と言ったわ。潔いと思う。けれど、その潔さは『理由を考えてはならない』という意味ではなかった?」
まるで彼の「理由」を知っているかのような物言いに、彼は目を尖らせ彼女は目を伏せた。
「ごめんなさい。ひとつ謝らなければいけない。あなたの夢に入った時に言ったわ、思考も記憶も読んでないって。それは本当。でも、
……痛いほど。
だから気付いてしまった。
──彼を呪う彼自身の怨念にも、
痛みに胸を押さえた。
それでもはっきりと声を上げる。
「ねえ本当に、わたしたちの関係は正しかった? 傷の舐め合いじゃなかった? 雛の刷り込みではなかった? ただの共依存ではなかった?
──あなたの感情は本当に、恋だった?」
その問いかけに躊躇いは少しもなく。
瞳は濡れながらも、真正面を見据えていた。
彼は、口の端に諦めを浮かべる。
「それ、言ってしまうのか」
それは薄々察していて、互いに口にしないようにしてきたことだ。
「わたしたち、今までずっと上部でやり過ぎたでしょ。表面上だけ取り繕っていい感じでいようとした。知るのが怖かったから。
でも、もう。知らないのも怖いの」
彼と彼女の関係はその時必要な隣にいる理由に合わせて何度も名を変えた。
けれど〝因縁の元宿敵〟も〝友達〟も〝恋人未満〟も本質は何も変わらない。
だが都合のいい関係でいるには戻れないところまで来てしまった。
もう抜け出せないほど深くて、見て見ぬ振りにも限界がある。
互いの過去も感情も。
(わたしたちはもう、知ってしまった)
◇
彼女の糾問を聞いて。
深々と溜息を吐きたいのを堪えた。
──人の恋愛を笑っている場合ではなかった。
なにせこちとらそれ以前の話だ。
まさか知られたくない感情が筒抜けになっていたとは思わなかった。
今すぐ墓穴を掘って埋まりたい心地だが、それを責める気はない。故意ではなく事故だったのもある。
あの時俺を救おうとした彼女には、知る権利が当然にあったろう。
問題は、そのせいで彼女が
……そういうことは場所なんてどうでもいいから早く言ってくれればいいのに、とは自分が要求した手前文句を言えない。
彼女の問いを整理しよう。
何を
複雑な話ではない。
一連の問いかけは、要は「この関係はなんなのか」という『関係の再定義』であり「この関係でいいのか」という『契約内容の確認』であり。
「これからどうするのか」という、シンプルな話だ。
まるで別れ話だな、と苦笑する。
はぐらかす気は元よりないが、こんな崖っ淵に追い詰められては本音を言うしかないだろう。
──何から答えようか。
そう逡巡して目を逸らした。
未だ花火の上がらない、伽藍とした黒い空を眺める。
「俺は、本当はたいしたことないんだ」
口をついて出たのは弱音だった。
墓の下まで持って行きたかった感情を「知っている」と言われては、もう。
本音しか言えなかった。
「うん、知ってる」
彼女は淡々と相槌を打つ。
「俺は君が思うような『絶対』なんかじゃなくて」
「うん」
「普通の、いや……普通にすら戻れないんだろうな」
「……うん」
「どうしようもない奴だ。君がいなければ今頃その辺で野垂れ死んでる」
「最悪ね。否定できない」
単純に、彼女の存在は生命線だったのだ。
断てばおそらく使い物にならないだろう。
彼女と共にする食事はちゃんと味がして、隣にいれば生きている心地がした。
なんでもないことを楽しいと思うことができて、過去も未来も考えずにいられた。
だから離れられなかった。
それだけを恋と呼ぶには、あまりにも情けない。
「だから君が言うように、正しい感情でも正しい関係でもなかったんだろう」
だが。
「それでも好きだ」
たとえこの関係の始まりも過程も間違っていたとしても、救われたという
今日一日考えて、思い知った。
感情は確かに冷えている。
だが論理的に考えて、俺が彼女を好きでないはずがない。
少し客観視をしてみればわかることだ。
ならば
「今の俺はまだ真っ当な理由を言えるほど人間ができていない。それでも、君の全部に惚れ直すだろう」
だからどれほど道に迷っても戻れるように標を、揺るぎない金科玉条を、『定義』を決めたのだ。
恋など初めからくだらないものだと。
ならば。
このくだらない感情もどうしようもない執着も全部。
そういうことでいい。
「俺は咲耶のことをかっこいいと思ってるし、咲耶が俺のことをそう思ってくれるのなら、まだ格好付けたいよ」
手放したくない。
「実は俺は、君の気を引くのに必死だ」
彼女の目を見返す。
糾弾し、告発する瞳に、答えを叩きつける。
遠くで弾ける音と閃光。
黒い空に花火が上がり始める。
だが花火なんて見ていなかった。
無言、見つめあう。
彼女の潤んだ目に、光が灯っては散る。
花火二発分が散る長い、長い沈黙の後。
咲耶は小さな唇を震わせた。
「待って。もう一回言って。今の良かった。録音する」
「……なんて?」
夜の中爛々と輝く目は、完全に据わっていた。
「録音してアラームに設定する」
「外道か?」
天を仰いだ。
なんでも言うことを聞くとは言ったけど、それは無い。
──冷静に考えて。
俺の感情が冷めてるの、咲耶が変なせいでは?
ちょっとこの女に正気で熱を上げるの無理じゃないか?
普通の人間には荷が重いだろう。
いや、俺は普通じゃないからいいのか。よくねえよ。
「ふふ、冗談よ。嬉しくて永久保存したくなっただけ。毎朝聞いて目覚めたいと思っただけ」
「そう、か。よかっ……いやよくねえ」
言ってること何も変わってないじゃないか、おい。
だが彼女の穏やかな表情を見ていると、どうにも毒気が抜かれて。
何も言えなくなってしまう。
空に打ち上がる音の中でさえ、彼女の穏やかな声は確かに耳に届く。
「あなたの気持ち、伝わったわ。ありがとう。……何度もわたしに告白してくれて。だからわたしも返事をしなくてはね」
花火の明かりに照らされて彼女は、静かに微笑んだ。
◆
わたしは思い返す。
これまでのことを。
──この夏のことを。
『それは、本当に恋愛なのかい?』
鈴堂瑠璃の軽蔑に、口を引き結ぶ。
人を見透かす天才の言葉は一足飛びに答えを当てた。
ええ、その通り。
わたしたちは本当から目を背けていた。
『恋愛って茶番だと思うんです』
寧々坂芽々の愛ある罵倒に、胸の内で頷く。
不可解な色恋を面白がる友人の言葉はしっくりと馴染んだ。
ええ、本当に。
わたしたちは茶番ばかり繰り返してどうしようもない。
『殺して、救わなければ、救われない』
聖女ネモフィリアの極論を、分かりたくないと思いながら反芻して。
けれど愛を知ってしまった人形の論理を、分かってしまうことを確かめる。
言葉に力はなく、祈りに報いはない。
わたしたちは人なんか救えるようにできていない。
目の前の彼を見る。
日南飛鳥を。
相も変わらず、その目は輝くことも腐ることもない。
『人を殺したんだ』
知っている。
彼の背負うものを、取り憑かれた影を、それはきっと隕石なんかで簡単に破壊されてくれないものだと。それがどうあがいても解けない呪いであることを。
分かっている、つもりだ。
『人生なんて演劇みたいなものだ』
現実から逃避するための支えでしかなかったそれは、いつしかわたしを現実に立たせるためのものになった。
もうわたしは
あなたが、本当は強くなどなかったのだとしたら。
──わたしは、あなたの強がりに救われてきたのだ。
だから今度はわたしの番だ。
息を深く吸い込んで。
心の中で、呪文を唱える。
『定義する』
──恋愛とは茶番劇である。
あなたが好きだと態度で示し続け、自らの持てる力を尽くし、互いに合わせて己すら作り替える。
浮いた愛の台詞を吐き続け、ときめきを再生産し続けて。
あるいは隣で、この世で最も安らぐ沈黙を演出し続ける。
それが嘘でも欺瞞でも貫き通せば本物に相違ない。
たとえ言葉に何の力がないのだとしても。
わたしはそれでも、想いを口にしよう。
たとえ魔女が人を救えない生き物だとしても。
「あなたの人生全部を頂戴。
あなたは報われないし救われないし許されない。
でも生きて。だとしてもしあわせになって。わたしと。
誓うわ。人生かけてしあわせにする」
それは祈りではなく願いで、そしてわたしにとって願いとはただの約束だ。
花火の音は止んでいた。
空は暗く、静寂が満ちている。
崖下の星灯りを背に、彼は。
夜の逆光の中でくしゃりと、眉を下げる。
「そうか、じゃあ」
「君を幸せにするまで死ねないな」
わたしは──冷ややかに見つめ返した。
「……いや、わたしより先に死んだら殺すから」
「ひでえ」
「わかってる? あんた本当にわかってる? ねえ」
「ははは」
「笑うな!」
わかってない!
こいつ、絶対わかってない!
わたしがどのくらいの覚悟だったかとかなんかもう全部、伝わってる気がしない!!!
頭が急速に沸騰した。怒りなのか悔しさなのか羞恥なのかよくわからないまま、びしりと指を突きつける。
「一生かけてわからせてやるわ! 覚えてなさいよ。最後にはわたしが勝つんだから!!」
その瞬間。
背後で盛大な爆発音がして、空が真昼のように明らんだ。
音と光にびくりとして振り返る。
どんどんぱらぱらと続く花火は、爆発炎上もかくやという勢いで夜空を金色に染め上げていた。
ぽかんとする。
これ、人死にが出る火薬の量じゃないの?
最近の花火って、すごい……。
わたしの魔法でもここまで派手じゃない……。
いや、うーん。頑張ればできるのかしら?
でも見た目だけ綺麗でも肝心の威力がなければ爆発四散はさせられないし……。
見た目イマイチでも破壊できればすべて良しだし……。
などと、つい魔女の性で考え込んでしまって。
隣でくつくつと笑い出した彼に、遅れて気付く。
「おまえは血の気が多すぎる」
失礼な!
だけど飛鳥が、あまりに楽しそうに笑うから。
気が抜ける。
「話の続きは後にしましょうか」
「そうだな。折角の」
穏やかに目を細めて。
「綺麗な花火だ」
その笑みを、瞬きの間に消えていく光を、目に焼き付けて。
願う。
一生笑ってて。一生。
そのためならわたし、どんな魔法だって使える気がするから。
◆
──きっとわたしたちの戦いはこれからで。
わたしたちの
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