第10話 わたしの完璧な人生計画。

 ◆



 これはすこし昔の話だ。


 まだ『文月』でなかった頃のわたしは、うっすらと毎日が憂鬱だった。

 母親のろくに帰ってこない家。

 友達のひとりもいない学校。

 それが世界のすべて。


 何も持っていない昔のわたしは、伸び過ぎた背を縮めて地面ばかりを見て、息を殺して生きてきた。

 好きなものは物語──つまり、現実逃避と空想だけ。



 だから夜毎、夢に見ていたのだ。

 いつか、窓から素敵な魔法使いがやってきて。

 わたしに魔法をかけて。

 ここではないどこかへ。

 連れ出してくれる日が来ることを。


 ただ祈っていた。

 憂鬱な毎日が終わり、劇的に世界が変わる日が来ることを。




 そして十二の頃──祈りは聞き届けられ、夢は叶えられた。


「ある日突然お金持ちの家の養子になる」

 なんてことで、安っぽいほど劇的に世界は変わった。


 もうカップ麺の残骸が転がる六畳間で、帰って来ない誰かを待ち続ける必要はない。

 明日着る服がないことを嘆いたり、丈の合わない服の袖を引っ張って伸ばしたりもしなくていい。

 新しい苗字で通う新しい学校には、わたしの髪を引っ張るような意地悪な子はもういない。

 わたしは文句の付けようもなく幸せになった。



 けれど。


 たとえ世界が変わっても、中身は変わらない。

 十二年かけて培われた人格は、そのままだ。

 臆病で卑屈で陰気で頭が悪くて鈍臭い根暗女、どうしようもないわたしのまま。


 そんなわたしを誰が愛するというのだろう?

 ──血も、繋がっていないのに?



 わたしの境遇はいわば、念願かなって魔法使いに舞踏会に送り出されたようなもの。


 けれど、めでたしめでたしで終わらないのが人生で、幸せになったそこからが本番で。

 魔法が解けないように、踊り続けなければならなかった。


 みじめったらしい本当のわたしを迎えにきてくれる人なんて、この世のどこにもいるものか。


 ──その思考は悲観的な、シンデレラ症候群コンプレックスの裏返し。



 だからわたしは『完璧』になろうと思った。

 本当のわたしを包み隠して、嘘とはりぼてで、優等生を演じる道を選んだ。

 そうして誰に嫌われることもない「文月咲耶」を作ったのだ。


『わたしは間違えない』とのろった日からずっと。

 作り上げた「文月咲耶」の価値を示し続けることが人生の意味だった。


 そのためならば政略結婚だって喜んで受け入れる。

 恋なんていらない。

 本当のわたしなんて愛されなくてかまわない。

 一生、嘘吐きのままでいいから。

 『完璧』だけが欲しい。

 完璧でさえいればきっと幸せをこの手に留めていられるのだと、曇りなく信じていた。

 ──それが、文月咲耶かつてのわたしのすべてだった。



 だけど。



 ある日突然別世界に落っこちて、現実の世界に帰ってきたあとにはもう、積み上げたものの価値は全部なくなっていたのだから。

 笑えない話だ。


 完璧なんて砂の城だ。

 そんな人生計画なんてうまくいかないのが当たり前だった。


 帰ってきた途端、傷物扱いで婚約破棄。

 腫れ物扱いで家には持て余される始末。

 十六までのわたしが大事にしていたものは、あっけなく崩れて落ちた。



 ……まあでも。

 あいつの家が更地になっていたことよりはましだろう。

 わたしは一応、『おかえりなさい』くらいは言ってもらえたのだし。


 過去これまでが台無しになった、という点ではお揃いかもしれない。

 わたしはあいつのように感性が馬鹿じゃないから、ちっとも笑えなかったけど。


 そう、別に。

 昔のことなんて大した話ではないのだ。

 十八のわたしは今紛れもなく幸せで、大事なのは今だけだ。




 だから──今が、ずっと続けばいいのに。





 そんなことを思い出しながら歩くひとりきりの帰り道は。

 少し、寂しかった。




 ◇






 咲耶が芽々の家に行っている頃。

 俺は何をしているかというと、普通にバイトである。


 バイトはいくつも掛け持ちしているが、今日は例の喫茶店だった。

 喫茶木蓮。店内はコーヒーよりもカレーの匂いがすることが多い、駅前のレトロな店だ。


 夕方、仕込みのために入り口には『準備中』の札がかかっているため、客はいない。

 今日シフトに入っているのは俺だけだ。

 ホールでひとり、掃除をしながら考える。


 当然咲耶についてのことだ。


『わたしはあなたを愛している』


 前半はどうして素面で言えるのかがわからない小っ恥ずかしい台詞のくせに。


『だから。あなたに、恋をしたりしないわ』


 後半はどう考えたって理屈がおかしいあの言葉のことを、ずっと考えている。



 反論が思いつかないわけではない。

 でも、わからないのだ。

 咲耶があんな、どう考えてもおかしい理屈を言い放った理由を俺は知らない。

 ……知らずに無神経な顔をして、彼女の内面に土足で踏み入ってもいいものか。

 それを気にして思考が袋小路に入っていた。


 …………いや、面倒くせぇ!!


 まず対話しろ、と言ったのは俺だけども。

 今ならこの前、咲耶がいきなり喧嘩を売ってきた理由がわかる気がした。


 もう会話するの面倒くさいから全部ジャンケンで決めようぜ。

 俺が絶対に勝つから。


 

 ……などと、上の空で延々と同じところを掃除し続けていたら。

 喫茶店のマスターがいつの間にか厨房からひょっこりと顔を覗かせていた。

 見られていたらしい。

 ぼうっとしていたことを謝ったが、髭とエプロンが似合う人の良さそうなマスターは咎める様子もなく。


「何か悩みでも?」


 と聞く。

「ええ、まあ」と曖昧に返事をすると。


 マスターは髭を撫でながら言う。


「なるほど……では、カレー食べますか? それとも作りますか?」


「なんでそうなるんですか」


 悩みがある人間に出す二択ではない。

 が、マスターは至極真面目な顔だ。


「いや、なに。無心でスパイスを練る工程は瞑想や座禅に通ずるものがありますから。ついでに香辛料の刺激が脳によく作用し、閃きを得られるやもしれません」

「なるほど……?」


 一理ある、のか?


「まあ僕は君の悩みなどどうでもよく、いたいけなバイトをカレーの深淵に引き摺り込みたいだけなのですが」


 好々爺然とした笑顔のまま、本音をバラした。

 身も蓋もない。心配されていたわけではないらしい。

 俺は割と間に受けていたのだが。


「マスターって芽々に似てますよね」

「逆ですがね。よく言われます」


 この人が芽々の祖父だということをあたらめて思い知った。


 というか祖父って……今思うと、色々あやしくないだろうか?

 自分は魔女の家系だのなんだの、ヤバいことを芽々は言っていた。

 それが本当なら、祖父というのも曲者だったりするのでは……。


 じっと見つめてみる。

 カタギじゃないなら、なんかヤバいオーラとか漂ってないかと思ったのだが。


「なんです? 髭にカレーでも付いてますか?」

「いや、なんでもないです」


 全然何もわからなかった。


 やめとこ。

 触らぬ神に祟りなし。

 怪しいものには近付かないのが長生きのコツだ。







 などと無駄話をしていると。


「お客さんですよ」


 と、マスターが言った後。

 丁度、喫茶店のドアが開く音がした。

 長く店をやっていると客の気配が読めるらしい。  


「では、お願いしますね」


「あれ、今は準備中じゃ?」

「ええ、事前にこの時間に来ると聞いていたので。特別に」

「なるほど?」


 そういうこともあるのだろう、と接客に向かう。




 わざわざ準備中に来るということは、マスターと仲の良い常連客だろうか?

 と思ったが、客は見覚えのない女の人だった。


 和服を着た妙齢の美人だ。

 妙齢は誤用の方で、若くはないが綺麗に歳を重ねている。

 茶道とか花道とかの先生をやってそうな雰囲気、とでもいうだろうか。

 所作がやけに上品だった。


 ……普段まじまじと客を見たりはしないのだが。

 なんだろう。何故か気になる。

 既視感とでもいうか。

 会ったことがあるような、ないような……。


 芽々のように俺が忘れている誰かだろうか?

 ザルになってる記憶をさらうが、思い当たらない。



 思い出せないまま「ご注文は」と伺う。


 和服の婦人は、目尻を下げて俺を見た。

 値踏みされているような視線に、少し肌が寒くなる。

 どこか色香のある微笑みを浮かべ、その客は言う。



「注文はそうねぇ。まずは……あなたを頼めるかしら」



 ……は?

 なんだこの人。

 店員に絡む迷惑客か?


 固まった俺に構わず、微笑む女は言う。


「あなたが、日南君ね」


 その確かめ方は初対面のそれだ。

 どうやら知り合いではないらしい。


「なんで、名前を」


 ……いや、怖い怖い怖い。

 ストーカーか?

 さては最近、視線を感じた理由はこれか!?


 返答次第でそのまま通報しようと、身構える。

 だが、女は〝当然〟といった態度のまま。



「あらぁ。『娘が下宿先に男を連れ込んでいる』と知ったら、相手の素性を探偵でもなんでも使って調べるに決まってるでしょう?」



 ──娘。

 その言葉で既視感の正体を理解する。


 ……ああ、似ているのだ。

 顔ではなく雰囲気が。


 そして和服の女は名乗る。


「はじめまして。文月ことと申します」


 その物腰はしっとりと柔らかで、けれど今すぐ逃げ出したいような威圧感を放つ。



「──咲耶むすめがお世話になっているらしいわね?」



『あらいけない。お世話になってるんじゃなくて、お世話・・・されてる・・・・の間違いだったかしらぁ?』と副音声で皮肉が聞こえる。

 気のせいだろうか。

 どうか気のせいであって欲しい。


 というか世話されてない。

 ちょっと毎日ちゃんと飯食ってるか確認されているだけで…………あれ?

 それは、『されている』の範疇に入るのではないだろうか。

 ……これ以上考えるのをやめよう。





 文月母が何故か俺に会いにきた──その目的が何かはまだわからないが、状況は理解した。


 つまりこれは〝敵襲〟だということ。

 そして、突然の二者面談が始まろうとしているということ。

 あと、咲耶の継母ははおやは怖いということだ。


 ……今すぐ咲耶に電話したらダメだろうか。

 ダメかな。ダメか。



 助けてくれ咲耶。

 おまえの母親が怖い。

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