第25話 わたしの知らないあなたのこと。
◆
『明日、時間はおありですか』
水曜日の放課後。
寧々坂芽々に呼び出されたのは、例の喫茶店だった。
飛鳥は今日は別のバイトで、笹木君は部活だそうで、話を二人に聞かれる心配はない。
鮮やかな緑色の扉を開いて、薄明かりの喫茶店の中へ。
一度見たら忘れない、明るい髪色の
窓際のテーブル席で、曇りガラスの光を浴びながらスマホをいじっている。
「寧々坂さん」
近寄って呼びかけると、顔を上げて「お待ちしていました」と返事が返ってきた。
「ところで、名前で呼んでいただけませんか?」
「苗字で呼ばれるのが苦手なの?」
「長ったらしい呼び名が苦手、ですね」
曖昧に相槌を打って、対面の椅子に座る。
「親しき仲なら、短くて簡潔なあだ名がいいと思いません?」
テーブルに肘をついて、組んだ手の上に小さな顎を乗せ、言う彼女。
そういえば笹木君のことを、「マコ」なんて随分と可愛らしい呼び方をしていたな、と思い出す。
「いかがです? 咲耶さんもあだ名で呼ばれてみる気は」
「わたしたちは親しい仲かしら?」
「そうですね……では、今はまだ〝咲耶さん〟で。いずれ呼ばせてくれると嬉しいです」
「……わかったわ。芽々」
にこにこと、食えない笑顔を人懐っこく浮かべる芽々。
愛嬌のいい子は好きだ。
でも……それを素直に受け取れる気分じゃなかった。
「とりあえず、注文しちゃいましょうか」
注文が届くのは早かった。
わたしは
芽々は、小豆入りのコーヒーなるものを頼んでいた。
芽々は澄ました顔でカップを口に運んで、
「甘ぁ……こんなの、ほとんどおしるこじゃねーですか」
微妙な顔でぼやいた。
「なんで頼んだのよ」
「好奇心です。ま、でも意外と悪くないですね。飛鳥さんの言ってた通り」
……そう、飛鳥のことだ。
彼について話があると呼び出されたのだ。
わたしもコーヒーを啜る。
店内を流れる静かな音楽。
カチャリとカップを置く音。
さらりとした苦味で頭を切り替える。
「それで、話って? ……いえ、その前に聞くべきことがあるわね」
底の小豆をスプーンで掬って食べている芽々に問いを投げる。
「あなたって、何者? 一昨日の、路地での件……流石にあの反応は、おかしいわ。元々わたしに近付いた理由だって不可解だし、飛鳥にも聞いたけど、彼への絡み方も不自然よ」
友人になれたら、という願いはある。
けれどわたしは、彼と違って楽観なんてしない。
「……わたしは、あなたを少しも信頼していないわ」
元々、口が堅いことがわかっている笹木君は保留としても。
目の前の、寧々坂芽々という女の子からは怪しい匂いがしてならなかった。
けれど芽々は、少し困ったように眉を下げてスプーンを回して言う。
「あ〜、その辺の理由は、気にしないでください」
「……どういうこと?」
「えっとですね。要は芽々、オカ研の人間なんです」
オカルト研究部の略称。
「だから、近付いたのは概ね好奇心ですね。元々気になってたんですよ謎の失踪事件」
その辺はあまり興味を抱かれないように、ある程度の魔法は使ってあったのだけど。
〝まあいいか〟となりやすい、くらいの暗示なので、好奇心が強い人には効かなかったのかもしれない。
「野次馬根性で咲耶さんに近付いたのはすみません。でも、失礼は働いてないでしょ?」
「そうね」
「路地のアレをあっさりと受け入れたのは、オカ研の性質だとでも思ってください。ファンタジーを鼻から吸うのが生きがいなので、幻覚めいた現実にも、冷静に対処できるのです」
「すっごい言い方するわね」
だからと言って、「カメラに映るかどうかを確認する」なんて発想が瞬時に出るだろうか。
頭の回転が速いだけと言ってしまえば、そうなのかもしれないけれど。
「え、それだけ?」
「大体は」
「……にしては、あなた、胡散くさくない?」
「その辺はま〜、アレです」
にっこりと微笑む芽々。
「クセになってるんですよね、意味深な言動するの。楽しくないですかー?」
「……変な子」
どうやらこの分だと、変わった喋り方も自覚的にやっているんだろう。
……喋り方については、わたしもとやかく言えない方だけど。
「ですが」
一転。
「『何者』か、という問いについては。
芽々は真面目なトーンで、わたしの目を見つめ返す。
「──中学が、同じだったんですよ」
誰と、なんて言わなくてもわかる。
話題の中心はひとりだけ。
「飛鳥さんの元後輩なんです、芽々。たまに勉強とか教えてもらっていました」
さらりとそう言って、甘ったるいコーヒーを啜る芽々。
わたしは口の中の苦さから逃げるように、掠れた声で返す。
「……アイツはそんなこと、言ってなかったわ」
「ええ」
中身の減ったカップを、ことり、と置く。
芽々はレンズの向こうの大きな瞳を、冷ややかに細めて言った。
「──覚えてなかったんですよ、
◇◆
これまで。
彼と彼女の日常は、僅かに軋みを上げながらも、つつがなく回っていた。
月曜日。喫茶店でささやかな出会いをし、終わったはずの過去を見た。
火曜日。二人で夜を明かして、何事もない一日を送った。
水曜日。文月咲耶と寧々坂芽々が、密会を開いた。
──日常はゆるやかに過ぎ去って、天秤は、反対側に傾く。
木曜日。
その日の夜は丁度、満月で。
雲ひとつない晴れの夜空に煌々と輝く月が、夜道を冷たく照らしていた。
日南飛鳥は帰路についていた。
自転車を走らせながら、脳裏に思い浮かべるのは僅かな違和感。
朝の、彼女の様子がほんの少しだけおかしかったことだ。
たとえば、口数が少なかった。
たとえば、朝に眠たげな様子がなかった。
たとえば、いつもよりも──表情が、
それは気のせいで片付けても構わないほどの、些細な引っ掛かり。
それを無視するほどに、飛鳥は思考を軽んじてはいなかった。
けれど、違和感の正体を確かめる機会は日中にはなかった。
昼休み、彼女は屋上には訪れず。
放課後もまた、すれ違ったまま。
それは普通の友人としては何もおかしくない距離感だが。
それが〝おかしい〟のだと、既に理解していた。
どれほど定義の防壁を築いても。
どれだけ論理で武装しようとも。
既に──否、きっと初めから。
『普通の友人』でい続けるには、無理がある。
──天秤は既に傾いていた。
そのことに気付けないほど。
彼の目は、腐ってはいなかった。
帰路を行く自転車は、分かれ道に差し掛かる。
そして。
いっとうに暗く、ひと気のない、道の真ん中に、彼女が立っているのを見つけた時。
総毛立ったのは、この先に何が起こるのかを予感したせいだった。
「……こんなところで何してんだよ」
問う。
まるでいつかと同じように。
自転車の照明に照らされた彼女が、顔を上げる。
夜の闇の中。
月明かりと照灯の光を受けて。
「決まってるでしょ」
ぞっとするほど美しい笑みを、
紅の引かれた唇が、いつもより赤かった。
制服に似合わない、普段の彼女ならば絶対につけない、濃い赤は。
鮮やかな血のようだった。
「わたし、ね。あなたを待っていたのよ。あなたに会いたくて、あなたの顔が見たくて……」
嫌な、予感がずっと肌を焼いていた。
「……なんてね。別に、ただ。あなたに聞きたいことがあるだけよ」
彼女は仮面を剥がすように、先程まで浮かべていた、〝魔女〟の笑みを落とす。
残るのは、この数日ですっかりと見慣れた綺麗な無表情。文月咲耶の素顔。
けれども唇だけが、ずっと赤いまま。
「そうか」
自転車を降りて、黒い地面に立ち、彼女に向かい合う。
距離は遠く保ったまま。
「話は、なんだ」
我ながらひどく冷淡な声が出たな、と。
なんの感慨もなく、そう思った。
彼女は知っている。
彼は誤魔化しやふざけたことは言っても、本当の虚言や真っ赤な嘘は言わないということを。
──思えば兆候、手掛かりはあったのだ。
『昔のことはあまり、覚えていない』
『……そんなこともあったな』
『忘れた』
昔の話を振ると妙に歯切れの悪い返事をすることが、多々とあった。
『記憶力はいいんだよ』
話が、矛盾していた。
寧々坂芽々の話を思い出す。
『たまに勉強とか教えてもらっていました』
寧々坂芽々は成績上位者だ。
一方、今の彼は下から数えた方が早い。
けれどそのことに、咲耶は疑問を抱かなかった。
彼女は知っている。
昔の彼は、器用な人だった。
それは勉学についても例外ではなかった。
昔からバイトばかりしていたはずなのに、いつだって順位は上の方。
好きな人のことを知りたがる陰湿な気質の咲耶が、昔の彼の順位を把握しているのは当たり前だ。
当時の日南飛鳥ならば確かに、年下の芽々に教えるくらいはできてもおかしくない。
──そう。本来、わたしなんかの助けを必要としないはずだったのよ。
二年のブランクがあるのは同じだ。
同じなら、どうして。
勉強が苦手で仕方ない咲耶が取り戻せた遅れを、彼は取り返せていなかったのか。
答えは、想像が付く。
『あの人、芽々のことを覚えてないんですよ』
もしも
「あなた、現世のこと。ほとんど忘れていたんでしょう」
彼女は知っている。
彼は、滅多に嘘を吐かない。
でも、隠し事はするのだということを。
「だったら、どうした?」
飛鳥は答える。
「わざわざ話すようなことでもないだろ」
なんでもないことのように。
「そうね、笑えないもの」
咲耶は頷く。
予想通りの返答だった。
「それに、忘れていたって言っても。けっこう割と覚えているぞ。更地のショックで生い立ちとか丸々思い出せたし……ほんと、気にするようなことじゃねえよ」
飛鳥は薄く笑って、軽く言う。
「だけど、まあ……気付かせた、ってことは。おまえに心配かけたんだろうな。悪かったよ。でも、黙っていたことを悪かったとは思わない」
「ええ。それについて謝る必要はないわ。わたしたちは嘘も隠し事も咎めない。……そういう関係、でしょう?」
「そうだな。俺もそう認識していたし。そう、定義したつもりだ」
『言わなければわからない』
それが、重々に認識しなければならない教訓だとかつて言った。
けれど、その言葉には二つの意味がある。
『言わなければ分かり合えない。だから、必要なことは共有しなければならない』という表の意味。
『言わなければわからない。だから知られたくないことは、お互いが言わない限りわからないままでいよう』という裏の意味。
その両方の意味を、言外のままに、どちらもが把握していた。
どちらもが、すべてを話せるような生き方をしてこなかったから。
どちらもが、すべてを詳らかに明かすことを望まなかったから。
かつては敵だった彼と彼女が、〝良き理解者〟でいるためには。
互いの
互いに踏み込みすぎない一線が、どうしたって必要だった。
──だからわたしは、あなたの隠し事を咎められない。
──わたしもまた、あなたに嘘を吐き続けていたのだから。
「それに、おまえのことはちゃんと。全部、覚えている」
そう、だから咲耶は気付けなかったのだ。
自分のことを忘れていなかったから、彼の記憶の不確かを疑うことがなかった。
「だから、何も問題はない」
淡白すぎる声色。
彼はきっと、本気で言っているのだと思った。
拳を握りしめる。
「問題ない、ですって……?」
拳の中で、握り締めた口紅のケースがみしりと音を立てた。
「……ふざけるな」
感情も表情も取り繕わず、咲耶は激昂する。
「問題、ないわけがないでしょう!!」
◆◆
水曜日の放課後。
喫茶店の、壁に囲まれた奥の席で。
寧々坂芽々はこう語る。
「後輩、とは言っても。芽々はそんなに親しくありませんでした。どちらかというと、『飛鳥さんの直属の後輩の友達』くらいの遠い距離感──言うなれば〝准後輩〟ですね」
「ですので、忘れられることもあるでしょう。……それはそうとしてムカついたので、クソスタンプは爆撃しましたけど」
「でも芽々、人に忘れられること、滅多にないんですよ。見た目も言動も記憶に残る方だと自覚しています」
「忘れていたにしても。まったく初対面のような反応をする、なんてのは、
「二年前、あなた方に何があったかは知りません。というか、あだ名で呼べないうちは聞きませんが」
「でもひとつだけ。咲耶さんの耳に入れておいた方がいいだろうと、芽々は判断しました」
「昔のセンパイはどんな人だったか、です。ええ、咲耶さんの言う通り。昔の日南先輩は、誰にでも優しくて、人当たりが良くて、友達が多い人でした」
「常識的で、普通で。間違っても、初対面だと思い込んでいる相手に対して『自我を論じる』なんておかしなことを、やったりはしなかった」
ひとつのカップはとっくに空で。
もうひとつの中身は、とっくに冷えている。
文月咲耶は、マネキンのように硬直して。
ドールのような愛嬌を滲ませたまま、寧々坂芽々は喋り続ける。
「芽々が飛鳥さんに近付いた理由は、実は他にもあるんです」
「好奇心だけが理由なら、芽々は普通に声をかけるだけでよかった。咲耶さんにやったように」
「それを、わざわざ『初対面では絶対にしない挨拶』をしてまで、飛鳥さんに絡んだのは、確かめるためでした」
何を、確かめるというのか。
「昔の飛鳥さんと仲の良かった後輩の子が……変なこと言ってたんですよ」
「『
「──咲耶さんも、気付いているんじゃないですか?」
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