クロとの距離 ③
――ジャンナ。
懐かしい顔の男性、もう長い間顔さえも拝見していない元婚約者が私に優しい顔をして笑いかける。
そこは懐かしい場所——王城の一角。
『救国の乙女』になる存在として、私は王城の本宮に住まい、何不自由なく暮らしていた。
その光景を前に、ああ、これは夢だと自覚する。
もう、『救国の乙女』としての力を覚醒させることはないだろう。
そんな風に諦められてしまった私は、王城に行けるわけもないのだから。
それに元婚約者はもうとっくに結婚している。——その報せを受けた時、少しだけ衝撃を受けていた当時の自分に驚いていたっけ。
もうその隣に立つことなどありえないと、そんなことは分かりきっていた。
『救国の乙女』になれやしない村娘が王城に行くことなどありえないことを、元婚約者と話すことさえままならない立場であることを、十分承知していた。
それでも元婚約者が結婚した時に衝撃を受けていたのは、当時の私が確かに元婚約者の事を愛していたからにほかならないだろう。
今思えば私の初恋だったと言える。
八歳の頃に『救国の乙女』になるであろうと言われ、連れて行かれた王城で出会った心優しい少年。
田舎から出てきた世間知らずの私が恋するのには十分だった。
初恋は叶わない。
その言い伝え通りに、私の初恋は叶わなかった。
――ジャンナ、君はどんな――になるだろうね。
彼はいつだって私の前で微笑んでいた。
楽しそうに私との未来を語っていた。
当時の私はそれに答えたかった。——だけど、私は彼の期待にも、周りの期待にも応えることが出来なかった。
――無理をしなくていいよ。
元婚約者は私が幾ら『救国の乙女』としての力を発現させなかったとしても、厳しい言葉をかけなかった。
いつだって私の事を心配してくれていた。
私が『救国の乙女』としての力を発現させなかったから、元婚約者だって貴族たちに好奇の目を向けられていたことも知っていた。
……私は、子供だった。
ただ自分の事だけしか考えられなかった子供。
そんな当時の事を思い出しながら、久しぶりにこんな気持ちになるなと何とも言えない感傷に浸ってしまう。
夢だとは分かっている。
分かっているけれど、今はもうその淡い初恋さえも心には残っていないけれど――、ただ昔の淡い初恋を出だすと、心が動かされた。
――君が、また此処に戻ってくることを待っている。
私がこの場所に追いやられる時も、元婚約者はそう言っていた。
私はその期待にさえも応えられずに、今もなお、此処で暮らしている。
幾ら私が頑張ったとしてもそれは『救国の乙女』と言われるほどの基準を満たさなかった。
この場所でたった一人になった時は、本当に悲しかったな……。
「……ナ」
誰からも手紙さえも来ることはなく、会いに来る人たちは『救国の乙女』の監視をするためだけであり――本当に独りぼっちになっていた。
自分が独りぼっちなどと感じて寂しくなるなんて今はない。けれど当時の私はまだ若かったから傷ついていたんだっけ。
「……ンナ」
王城での暮らしは最初は天国のようだった。村では考えられないような恵まれた暮らしをして、その恵まれた暮らしが続くと信じていた。
けど、それが覆され、どんどん私の環境は悪い方向へと変わっていった。
周りの視線が変わり、周りの言葉が変わり、周りの態度が変わる。
私が『救国の乙女』になれなかったから、そんな風に周りはかわってしまった。
「ジャンナ」
声が聞こえる。
誰の声だろうか。
私の名前を今、呼ぶ人などそうはいないはずなのに。
――そう思いながら私は瞳を開ける。
「ジャンナ」
私の名前を呼んでいたのは、クロだった。
ああ、そうだ。
今は『魔王』の側近なんて言われているクロと一緒に住んでいるのだ。
一人ではなく、放っておけなかった年下の青年をこうして此処に住まわせているのだ。
先ほどまでぐっすり眠っていたはずのクロだけど、もう目を覚ましている。
空を見れば、日が落ちてきていることが分かる。——結構長い間、私は眠ってしまっていたらしい。
「ジャンナ、大丈夫か」
「何が?」
「泣いている」
そう言われて、ハッとなる。
確かに私は涙を流していた。
……久しぶりに昔の夢を見て感傷に浸ってしまったからだろうか。
年下の男の子に涙のことを指摘されるなんて何だか恥ずかしい。
クロが涙を流していた私を心配そうに見ていて、やっぱり幾ら『魔王』の側近だなんて言われていてもクロは優しい子だとそんな風に思った。
本当に極悪非道な『魔王』の側近だと言うのならば、こんな風に私を心配することなどありえない。
ふふっと思わず笑ってしまう。
涙の跡があるというのに、笑った私を怪訝そうにクロが見る。
「昔を思い出してちょっと感傷に浸っただけだから、涙は気にしないで。
クロは、優しいね」
私がそう口にすれば、クロは不思議そうな顔をする。優しいなどと言われるとは思ってなかったようだ。
それとも『魔王』の側近と呼ばれて生活をしているからこそ、そんなことを言われることが久しくなかったのかもしれない。
私はぽかんとした表情のクロに、「中に入りましょう」と声をかけるのだった。
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