第3話

「走れ!」



 背後で諷呂フウリョの鋭い声がした。莉榛リハルは思わず涙ぐんだ。自分を庇う諷呂への思いが、今一心に込み上げてきたのだ。自分が元の世界に帰ればもう二度と諷呂と会うことなどない。もう二度と莉榛と名乗ることもない。この世界での出来事一切が莉榛の――詩織だけの記憶となる。諷呂はそれで良いのだ。彼女がもと居た場所へ戻れれば。諷呂の思いの一番暖かい所へ触れた気がして、莉榛は涙が溢れた。


諷呂フウリョ!」


 莉榛リハルは前を向いたまま、彼の名を呼ぶ。あまりに惨い別れだ。呼び止めることはなくても、彼の名を叫ばずには居られなかった。


諷呂フウリョ!わたし――」


「行け、莉榛リハル


 瞼を瞬かせて、歪む視界を必死で凝らした。最初に来た祠はもう目の前にあった。この世界にやって来て、最初に目にした場所だった。


 ずっと後ろの方で破壊音が響いて、莉榛リハルは飛び上がった。そして凄まじい轟音が相次ぐ。諷呂フウリョが魔法を放ったのだ。後から追手の悲鳴も聞こえる。恐怖で手足が強ばった。一目散に祠の木柵に駆け寄り、手をかけた。心臓が、文字通りばく、ばくと脈打ち、歯がカチカチと音を立てた。


 ――殺される。その前に逃げなければ。柵を、またいで、あの中へ。


 どうしても後ろを振り向けなかった。もし振り向いた瞬間、諷呂フウリョが倒れて居たりしたら――それがなによりの恐怖だった。


 急げ、急げと身体が急かす。胸の中の音が耳まで響く。手足が震えて力が入らないのが余計に莉榛リハルを焦らせた。


 祠の小さな扉を無理矢理こじ開けると、狭い空間に井戸のような穴の空いた岩があった。岩には苔が生え、祠の中は外からの光によって、塵と埃が煌めいて舞い散る。


 莉榛リハルは妙な光景に囚われて突っ立っていた。我に返り、井戸の縁に手をかける。中を覗くと、漆黒が風を取り込んで混沌と漂っていた。風をきる音が何かの声のようだ。髪がゆっくり井戸の中へとなびいて、吸い込まれる感覚に陥った。


「わたし、ここから来たんだわ」


“竜の眠る祠”――莉榛リハルはここの奥底に住まう主に引かれて、この世界へ迷い込んだ。


 取り込む風が一層強さを増した。主が鎌首をもたげたのだ、莉榛リハルはそう悟って叫んだ。


「主よ!祠の竜!」


 風が唸る。


「還ってきたわ、わたしを戻して」


 何かが唸る。


「約束の眼よ」


 莉榛リハルが懐から取り出したのは二枚の銅貨。どちらにも蒼い宝石が埋め込まれている。竜の目は蒼い。宝石は、もとよりこの竜の双眼であった。銅貨が音を立てて漆黒に消えた。


 次の瞬間、穴の奥が光り出す。莉榛リハルが瞬いて、あっと言わぬうちに蒼く淡い光は込み上げて、覗き込む莉榛の頭を包み、ちっぽけな祠の屋根を、光は貫いた。竜だ。

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