詠三日 海座

読み切り1話

 ――ずっと、曲を作っていた。


 思い立って少し背筋を伸ばし、椅子に座り直す。首を左右に傾けると、関節が鈍い音をたてた。目線を上げて時計を一瞥した。かれこれ4時間、作詞に打ち込んでいた。


 おもむろに腕を伸ばし、煙草の箱を掴む。中身を1本取り出して、火をつけ、息を吐く。慣れたもんだ、前までよく蒸せていたのに。


「さて、なにかなぁ……」


 ――昨日、失恋を、した。その日はまるで言葉が味方してくれなくて、一日中泣いていた。そのまま寝落ちしたようで、適当な時間に起きてからずっと腫らした目を持ち上げて、さっきメロディーが出来上がり、今まで歌詞を書いていた。昨日のことを、少しでもどこかに記しておこう、そう思った。


 辛い、今でも辛い、一晩でなにかすっかり晴れてしまうわけもないのだ。だからまた煙草に手を出した。誰も憎めない。


(わたしは弱いからなぁ……)


 息を吐く。視界が曇る。灰の欠片が、手元の紙の束の上に落ちる。殴り書きされた紙の束。全て作詞のためのアイデアたちだった。


 昨日、あの子はわたしを呼びたした。元気がなかった。理由ははっきりしていて、なにを話されるかも検討がついていた。


「今、あたしね、あたし、付き合ってる人がいるの」


 わたしは名前を言い当てた。わたしの好きなあの人の名前でもあった。するとあの子は、たちまち目に涙を溜めて、ごめんね、ほんとにごめん、とわたしを抱擁した。何度も謝った。たぶん、わたしも泣いていたからだ。俯いて、あの子の肩に目を押し当てていた。髪が垂れて、視界の端で揺らいでいた。赤に染めたばかりで、毛糸みたいだ、とちらっとそんなことを考えた。


「ごめん、あたし知ってたのに」あの子は言った。

 清い心を持った子だった。優しい子だった。そのはずだ。わたしは弱い人間だった。弱いわたしに、あの子はやっぱり優しかった。かけがえのない、友人だった。そのはずなのだ。だからだ。あの子はわたしにとって酷いことをしたのに、わたしはあの子を憎めなかった。あの子は眩しいほど優しくて、わたしは惨めなほど弱い人間だったから。


「わたしは、わたしの好きな子と好きな人が一緒にいて、笑っていてくれるんだったら、わたしも幸せだよ」わたしは言った。


 なんでそんなことが言えるの、あの子はまた泣いた。わたしも泣いた。でも紛れもない本音だったんだ。わたしの好きだったあの人は、わたしとは不釣り合いで、優しいあの子とならきっと、きっと2人には美しい日々が訪れるはずだ、そう思う、信じて疑わない。だから許した。頭を強く打ったような衝撃を感じながら、覚えた足取りに任せて帰路を行き、家に帰った。


「ああ、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得がたるべし。されど我が脳裏に一点の彼を憎む心今日まで残りけり。」


 ――森鴎外の『舞姫』の文末をふと思い出した。ここで言われる「憎む」とはもっと複雑なものがある。これは自分勝手で調子のいい豊太郎の自己弁護に過ぎない「憎しみ」であり、わたしの一方的被害を被った「裏切り」や、当然な「恨み」とはわけが違う。けど、心のおける友人の存在であったり、それらからの壮絶な背信行為、信頼の失踪、一点の曇――まぁ、ただ思い出しただけだから、どうでもいいし、深い意味もない。ただ彼と重なる感覚を覚えた。もしかしたら「恨み」という概念の檻の中、豊太郎が自己弁護に浸る隣で、わたしは己を慰めているのかも知れない。


「全く、酷いことされたなぁ」


 これからも、あの子を憎まないで居られるだろうか。2人で並んで帰る背中を、そんな姿でも見てしまったら、わたしはなにを思うのだろう。


(怖くて仕方ない)


 だから、歌おうと思った。わたしは歌が好きだったから、歌に全て流し込んで綺麗に型どって、どこかにしまっておこうと思った。あの子を憎む心が、一点の種が、芽を出してしまう前に。

こんな姿を見て、あの子もまたなにを思うだろう。短くなった煙草を、無造作に灰皿へ投げ捨てた。


 あの子は酷くて優しくて、わたしを抱擁してくれる。とてもいい匂いがして、わたしの髪色も褒めてくれる。


(でも、でもね……)


 あの子は自分の歌を持っていない、歌を書けない。

 大学に通い始めてから、わたしが初めて涙を見せたのはあの人の前で、あの人が最初に助けを求めてくれたのはわたしで、あの人の病気のことも、抱えてることも、わたしは知っている。わたしはあの子よりもずっと、あの人のことを知っている。あの子は、どこまであの人を知っているのか、そう思う時もある。あの子の知らない彼を知るわたしこそ、あの子の知らないわたしを知る彼に、真に見合った人として、正しき審判を下せる自信がある。


 そう思えたわたしのなんと不埒な心。豊太郎に重ねたのはあながち間違いではないのかもしれない。それでもこの本心が、満更でもないと語るのである。

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詠三日 海座 @Suirigu-u

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