第21話 山田かまちが生きてたら①

1977年、自宅でエレキギターを練習している最中に感電死した天才山田かまち。


死後、自宅から大量の絵や詩、日記やノートが見つかった。


高崎市には彼の創作物を展示した「山田かまち水彩デッサン美術館」が遺族や支援者たちにより設置された。


もし彼が生きていたら、62歳になる。


彼の幼馴染みに氷室京介と松井常松がいる。


氷室京介はBOØWYというバンドで一世風靡し、現在は聴覚の病気により、引退している。


一般社会で言うと、定年退職の年齢でもあり、職場で「おじいちゃん」と呼ばれている立ち位置だ。


身近にいる60歳と比べてはいけない。ファンに怒られる。


僕は、山田かまち(以下かまち)が生きていたら、いずれ氷室京介(以下氷室)、松井常松(以下松井)とバンドを組んだんじゃないかと勝手に想像している。


彼らの性格を知っている周辺の人々は、それを否定するかもしれないし、肯定するかもしれない。


かまちが亡くなった時には、すでに氷室と松井はBOØWYの前身バンドを組んでいた。


かまちは、バンドの練習には参加していたという話なので、高校卒業後合流はあったかもしれない。


もし彼らがバンドを組んでいたらと想像することで、夢が広がる。


その後、氷室は同郷の布袋寅泰(以下布袋)をリードギターとして誘った。


ここで、運命が決まった。


もし、この段階でかまちが氷室たちのバンドに加入していたら、布袋とはどうなっていたのだろうか。


多分、早々に解散していたと推測する。


早熟の天才かまちとスーパースター布袋の調和は無いと考える。


殴り合いで終わればいいが、もしかしたら、二人ともこの世にはいなかったかもしれない。


リスペクトという言葉をもってして、やりあうんじゃないかと思う。


仲裁に入った松井は弾き飛ばされ、どちらの援護についていいか分からない氷室は、一服しにどこかへ行ってしまう。


しかし、布袋と出会わず、かまち、氷室、松井らがバンドを組んだらどうなっていたか。


ムッシュ・カマチ(かまやつ)というバンド名でデビューし、鳴かず飛ばずで早々に消えていたように思う。


氷室は、布袋の存在があってこそ輝いていけたからである。

 

もちろん、氷室は大スターであることは大前提だが…。


始めに、かまちと氷室がバンドを組んでいたら夢が広がるなんて言ってみたが、全然広がらなかった。


結果、かまちは大天才過ぎて、誰も近寄れない。


夭折の画家として、後世に受け継がれる存在がベストなのかもしれない。


そして、もし、生きていたら、絵描きにはならなかったと想像する。


幼少期、芸術的な才能を発揮し東京都知事になった小説家石原慎太郎のケースを考えると、かまちも、スリリングで人間の欲がぶつかり合う激しい場を求めたんじゃないかと考える。


この二人を重ねるのは無理があるが。


かまちは、芸術はさっさと辞め、政治家として活躍していたと想像する。


すっごい、短絡的で幼稚な発想だが、今頃、総理大臣に上り詰めていたんじゃないかと・・・。


山田かまち論はもう少し続きます。










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