「泣ける、という感情のなかに、いろんな意味があるのを知ったのは、あのときだったな。ほんと、自分のうちがわで、なにかが、変わったような気がした」


 ぼくたちは、電灯が、しかたなくひかっているような、さびれた道を、ただ歩いていた。ひとも猫もいない、あかりがついているだけの家しかない、あやしい道を、ならんで。


 黒木は、数年前にすこしだけ話題になった、ある賞をとりのがした、小説のはなしをしてきた。ぼくは、かれが小説を読むようになったのは、いつからなのか、ちょっとだけ、気になった。


「でさ、ネットで検索してみたのよ。おなじ感情になったひとって、どれくらいいるんだろうってさ」


 ぼくたちは、歩きはじめてからというもの、一度も目があわなかった。


 歩いても、歩いても、あたりは、ほとんどが、くらやみにのみこまれている。それなのに、ぼくたちは、歩いていた。


「そしたら、いろんなひとが、悪口をいってるわけ。おれ、ぞっとした」


「ぞっとした?」


 ぼくはずっと、適当な相づちを、うちつづけていた。


「そう。だってさ、ネットをさきに見ていたら、おれはあの本を買わなかっただろうし。だとしたらさ、あんな感動をさ、味わえなかったかもしれないんだぜ」


 黒木は、つぎの言葉をつぐまえに、じぶんのひたいをなでた。


「おれは、思ったよ。ああいう悪口はさ、だれかの、人生をかえるかもしれない出会いを――その可能性を、うばってしまうほどの、とてつもない暴力なんだって」


 なぜか、黒木のはなしをきくことが、嫌ではなかった。むしろ、そこには、不思議と魅力のようなものが、あった。


「たださ、そんな悪口を言ってるやつが、おれの前で、その悪口を言うとしたら、もしかしたら、ようすがかわってくるんじゃないかって、思ったんだよ」


「どういうこと?」


 黒木は、なんの迷いもなく、つぎつぎに言葉をつなげるおとこだった。むかしから、そうだっただろうか。


「俺は、そいつの身ぶりそぶりを見たら、それに応じて、なにか身ぶりそぶりをとるだろ。おたがい、その反応をみたら、おたがいが大事にしているものを、尊重しあおうって、ちょっとは、思えるんじゃないかな」


 やっぱり、黒木は、ためらいなく、はなしをするおとこだった。


「おれたちは、書かれたものにたいして、書いたものでしか、こたえをかえせない、ようは、ロボットどうしがしゃべっているのと、おなじような、そんなところで、ちゃんと会話をしようと思っちゃ、いけないんだよ」


 黒木は、前をむいたまま、少しだけ、えみをうかべているようだった。

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