第8話 写真と母

 その後。


 濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに入ると、わたしは髪を拭く手を止めてリビングを見渡す。


 あれ? 伊織くん?


 そこに、伊織くんの姿がなかったのだ。


 ここにいないってことは、もしかして自分の部屋に戻ってるのかも。


 そう考え、リビングを出て廊下を進むと、リビングに近い部屋の扉の前で止まった。


 扉に掛けてある木製のドアプレートには、アルファベットで『Iori』と書かれている。


 ちなみに、隣の恵ちゃんの部屋の扉にも、伊織くんと同じくアルファベットで『Megumi』と書かれたドアプレートがかけられていた。

 

 このドアプレート、二人で一緒に買いに行ったんだろうな……。

 

 その光景が嫌でも目に浮かぶ。

 

 こんなことにも嫉妬してしまうとは……。

 

 はぁ……。

 

「……伊織くーん。…………あれ?」


 扉をコンコンとノックするが、中からの返事はない。


 ……もしかして、寝てるのかな?


 もう一度ノックをしてみたけれど、やはり返事はなかった。


 こ、これは、もしや貴重な寝顔を見るチャンスなのでは…――


(――ダメだよ!)

(だ、誰っ!?)

(ふふっ。私はアナタの天使よ!)

(……て、天使?)

(――おいおい、ちょっと待ちな)

(!? 次は誰っ!?)

(あぁん? アタシが誰だって? ……はっはっはー。アタシはな、お前の中に住む悪魔だよ)

(あ……悪魔?)

(もう、どうして出てきたの?)

(あぁん?)

(あの……)

(おいっ、いいのか? このままだと寝顔が見られなくなっちまうぜ?)

(休んでいるところに勝手に入っちゃ、伊織君が起きちゃうよ!)

(……あのーっ!)

(なんですか?)(なんだよ)

(っ!! い、いえ、なにも……)


 すると、突然扉がガチャリと開いて、


「ふぁ~……あ、先輩」


 中から、目元を指で擦っている伊織くんが出てきた。


 寝起きの表情が、なんとも愛らしい。


「体は温まりましたか?」

「!! う、うんっ…………」

「? ……あ」


 伊織くんは、目の前にいたわたしを見ると、慌てて顔を逸らした。


「伊織くん?」

「な、なな、なんですか……!?」


 ? どうしたんだろう……?


「……わたしの顔になにか付いてる?」

「っ!? そ、そんなことはないですよ!?」


 慌てた顔で手を横に振る伊織くん。


 ……?


「僕は、な、なんにも見てませんからねっ!?」

「…………」

 

 わたしのじーっとした視線を感じている間も、一向に目を合わせようとはしない。


 顔を覗き込もうとしても、なぜか避けられてしまう。


 もしかして、湯上がりのわたしを見てドキドキしたり……なんてねっ。あははははっ。


「…………っ」


 え、ええぇ?


 なに、その反応……?


 すると、伊織くんはわたしの方を見て、


「せ、先輩は、髪は乾かさなくて大丈夫なんですか?」

「もう少ししてから乾かそうかなって思ってるけど」

「そ……そうですか……」


 と声を漏らして伊織くんは顔を俯かせる。


 どうやら、この状況に耐えきれなくなったようだ。


 うーん……。


 頭の中でどうしたものかと考えを巡らせていると、チラッと部屋の中にある棚に目が止まった。


 正確には、棚の上に置かれている写真立てに。


(あれって……)


 まだ顔を逸らしている伊織くんの横を通って、写真立ての前に立つ。


 そこには、一軒家らしき建物の前で三人が並んでいた。


 真ん中には、子供のような無邪気な笑顔を浮かべている男の子。これは、伊織くんだね。


その隣には、如何にも厳格そうな顔の男性。


 お父さん、かな。


 そして…――


「――先輩、どうしたんですか?」


 伊織くんは、わたしの視線の先にある写真立てを見て「あ」と声を漏らす。


「伊織くんと一緒に写ってる女の人が、とても綺麗だなって思って……」


 そう。伊織くんの隣に、柔らかな笑みを浮かべている女性が写っていたのだ。


 お姉さん? それにしては年が離れているように見える。


 年が離れた姉弟きょうだいなのかな……?


 すると、伊織くんはなにか言いにくそうな表情を浮かべて言った。


「……その人は、僕の実の母です」

「へぇー、そうなんだ……って――えぇ!? ほんとに!?」

「はい」


 と言って頷く伊織くん。


 お……お母さん、だったんだ……。


 わたしが驚きのあまり、ポカンと口を開けたまま写真を眺めていると、


「……母は、すべてを包み込むような優しさを持った人でした」


 ………………。

 …………。

 ……。


 黒瀬冬佳くろせふゆか


 母の名前を思い浮かべるたびに、ふと寂しさがこみ上げてくる。


 朝起きれば、いつも「おはよう」と聞こえていた日常が、次の日にはもうこの世にいないという現実……。


『伊織〜〜〜〜っ♪』


 子供のように無邪気な笑顔でこちらに手を振る母は、いつも元気をくれた。


 僕と父が喧嘩をしたときも、母の満面の笑みと落ち着いた声によって、気づいた頃にはいつも仲直りをしていた。


 真面目、頑固を人物に例えるなら、僕は間違いなく父・黒瀬修一と答える。


 それほどまでに厳しい人だった父でさえも、母の前ではペコリと頭を下げる程だった。


 ………………だが。


 そんな幸せな時間は、突如として終わりを迎える。


 …――母の体調が悪化したのだ。


 母は小さい頃から体が弱かったようで、よく寝込んでいた。


 そのたび僕は水で濡らしたタオルを、おでこの上に乗せていた。


 子供ながらに心配だったのだろう。


 自分にできることが限られていたから余計に。


「僕が中学の頃は、そこまで酷くなることはなかったんですけど、高校に上がってから少し経ったときに、急に体調が急変して……。母は、病院に入院することになったんです」


 病院での母は、子供の前ではいつもと変わらない自分を見せようとしていた。


 あとから聞いた話では、僕が帰ったあと、体中の痛みと高熱に涙を流し続けていたという……。


 それを知ったときは、自分の無力さに泣いたことを今でも憶えている。


「……会いに行くたびに弱っていく母の姿は、今でも忘れたことはありません」


 なんとか少しでも元気になってもらえないかと自分なりに考えていた頃。


 …――それは、突然やって来た。


 いつも笑顔を絶やさなかった母は、薬の副作用に苦しみながら闘病を続けていたのだけれど、最後は病院のベッドの上で息を引き取った――。


 ……。

 …………。

 ………………。


「そう……だったんだ……」


 初めて知ったお母さんの話を聞いて、わたしは言葉に詰まった。


 わたしの胸は、伊織くんの知らなかった一面に触れて、喜びよりも悲しいという気持ちでいっぱいになっていた。


 大切な人の死が、どれだけ悲しいことなのか。


 それを自分の胸の内に閉まっておくことが、どれだけ辛いことなのか。


 伊織くん……。



 ――――――――――――。



 少しの沈黙の後、伊織くんはふと笑みを浮かべて部屋を出て行った。


「………………………………」


 部屋に残ったわたしは、伊織くんの後を追うように部屋を出た。




 その日の夜。


『へぇー。そんなことがあったんだ』

「うん……」


 しーちゃんと電話をしながら今日あったことを話していると、電話越しでも分かるほどの楽しげな声で言った。


『それで、実際どうだったの?』


「……わたし、聞いちゃいけないことを聞いちゃったのかな……」


 話しているときの伊織くんの顔を思い出すと……


 はぁ……。


 わたしが、伊織くんに悲しい記憶を思い出させてしまったことを後悔していると、


『それもだけど、私が聞きたいのはまた別の方よ』


 と、しーちゃんはきっぱり言った。


「え?」

『ほら、さっき乙葉が言った恵ちゃんのあの……』

「あぁ……それはね…………わたしの完敗です」


 恵ちゃんのあの、わがままボディは今でも頭から離れない。


『まぁ仕方ないよねぇ』


 まるで他人事のように言うしーちゃん。


 もぉー…………。


 伊織くんのお母さんのことは今もずっと気になっているけれど。


 これ以上、この話をするのは気が引けるので、ここで話は終わりを迎えた。

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