第24話 香の思い

 香さんの突然の登場に、伊織くんは驚きのあまり目をパチクリさせていた。


「これは一体……」


 と、口から声を漏らすと、こっちへと振り返る。


 その視線は、ただ真っ直ぐわたしを見ていて、


「どういうことなんですか、先輩……」


 まあ、伊織くんがわたしに尋ねるのも無理もない。


 だって、伊織くんをここに呼んだのは、わたしだから…――。


「あ、あのねっ。今の伊織くんだと、香さんに本当の気持ちを言うことはできないと思ったから、その……お店の奥でこっそりわたしたちの会話を聞いてもらっていたの」


 それから、わたしは今回の経緯の説明をした。


 突然恵ちゃんに力を貸してほしいとお願いされ、それをわたしが承諾すると、場所のセッティングをわたしに任せて、恵ちゃんは香さんに来てもらうように連絡をした――。


「――ということなんだけど……」


 一通りの説明を終え、ふと伊織くんを見ると、


「………………」


 こっちを無言で見つめていた。


 えっと……。


「ねぇねぇ、立ち話もなんだし、私も一緒に座っていいかな?」


 そう言って香さんは、恵ちゃんの横にある席に座った。


 すると、カウンターにいたマスターが持ってきたメニュー表を、香さんは目を輝かせながら眺めていた。


「う〜ん……じゃあ、アイスコーヒーと、あとショートケーキを……あ、みんなはなにか食べる?」

「……今はいい」

「お、お構いなく」

「…………」

「じゃあ、今言った二つをお願いします」

「かしこまりました」


 注文を終えて、閉じたメニュー表を受け取ったマスターは、カウンターに戻って行った。


「…………」

「ねぇ、伊織君」

「……なんですか?」


 と伊織くんが明らかに不機そうな声で言うと、予想外の言葉が返ってきた。


「私のこと……嫌い?」

「……え?」


 伊織くんは目を見開いていた。


「……正面から言われて、はいそうですって言える訳ないでしょ……」


 それもそうだ。


 面と向かって言えるわけがない。


「まぁそうだよね。じゃあ質問を変えるね」


 香さんは伊織くんの目を真っ直ぐ見ると、「ふっ」と微笑んだ。


「修一さんのことは、嫌い?」


 ? どうして伊織くんのお父さんのことを……。


「……お母さん?」


 恵ちゃんも、質問の意図がわからないようだ。


 ……だが。


 香さんは「ふふっ」と笑みを浮かべてウインクをした。


 そして、伊織君の方を見た。


 それに対して、伊織くんはというと…――


「……それは、どういう意味ですか?」

「意味もなにも、前から聞いてみたかったの♪」


 ニッコリな笑顔は、重い空気が漂うこの場にはあまりにも眩しかった。


「………………」


 伊織くんは顔を俯かせて考え込むと、ゆっくり口を開けた。


 小さな声で、


「嫌い……ではありません。……でも」

「でも?」

「……怒っているところはあります」

「そっか〜。修一さん、怒られていることに気づいてないんだろうなぁー」


 そう言って、丁度マスターが運んできたアイスコーヒーを飲んで、背もたれにもたれかかった。


「あ、ケーキ食べよっ」


 香さんはテーブルに置かれていたケーキにフォークを伸ばすと、満面の笑みでケーキを一口分に切り分け、口に運んだ。

 

「う〜んっ♪ 美味し〜い♪」

「………………」

「? どうしたの? やっぱり、ケーキ食べたかった?」

「い、いえ……。その……どうしてあんなことを聞いてくるのかなって思いまして…――」

「――ダメだよっ!」

「え……?」


 突然、香さんは否定の言葉を放つと、今度は悲しそうな顔で伊織くんを見た。


「……やっぱり、敬語の方が話しやすい?」

「別にそんなことはないですけど……あ」

「ふふっ」


 その様子を見つめる香さんは、全然怒っているようには見えなくて、寧ろ《むしろ》我が子を見つめる母親のような表情だった。


「ねぇ、伊織君。私と修一さんが同じ会社で働いていたのは、知ってるよね?」

「……はい、父から聞きました」


 これまた新しい情報が手に入ったらしい。


 でも、どうして急に……?


 頭に浮かんだ疑問は、すぐに明らかになる。


「……実はね。修一さんは、わたしがまだ新人だったときの直属の上司だったの」

「え、父が……ですか?」

「うんっ。昔の修一さんは、今となにも変わらないよ。仕事に真面目で、部下に慕われ、そして――誰よりも自分に厳しい人だった」


 その声は、どこまでも優しさに溢れていて…――


「もしかしたら、そういうところに惚れてしまったのかもしれない。あのときから。まあそのときには、とっくに修一さんは既婚者だったけどね。あはははは……」


 伊織くんのお父さんの話をしているときの香さんは、とても楽しそうだった。


 余程好きだったのだろう。


 でも、相手は既に既婚者。


 実るはずのない恋、か……。


「………………」

「………………」

「………………」


 しーんとした空気が流れる。


 香さんは、口を閉じていたわたしたち三人を見て、


「ま、こんなところかなっ」


 ストローでコップの中の氷を混ぜると、カランカランと涼しさのある心地いい音が鳴った。


 すると、


「恵の前ではちょっと話しにくいことだけど……」


 と前置きをしてから、


「……結婚すると同時に専業主婦になって、恵と茉奈が生まれて、幸せいっぱいだったんだけど……あることが原因で、去年離婚したの」


 それから香さんは話を続けて、


「まぁ、あれから色々あって前と同じ会社に復職して、修一さんに再会したんだけど。……そのときに奥さんが亡くなったことを聞かされたの」

「そうだったんですか……」


 と、伊織くんがポツリと呟く。


 その表情からは驚きが伝わってくる。


 どうやら、それは恵ちゃんも同じようで。


「あのときの修一さんの顔は、今でも忘れられないなぁ」

「え?」

「……だって、あんな辛そうな顔を見たのは、初めてだったから……」


 香さんにとってはギャップがあったのだろう。


 わたしは会ったことないけれど、今の話を聞けばそのときの香さんの顔が想像できる。


「そのときかもしれない。この人は、実は心がとても繊細な人なんだって知ったのは……」


 そう言って、食べ進めていたショートケーキの最後のイチゴをパクリと食べて、フォークを置いた。


「美味しかった〜♪ 買って帰ろっかな」


 と、なぜか真剣に悩み始めたところで、伊織くんが徐に香さんの方に体を向けた。


「あ、あの……香さん……」


 そして、少しの沈黙の後――。


「今まで勝手なことばかり言ってしまって…………すみませんでした」


 と言って、伊織くんは深く頭を下げた。


 ………………………………。


「伊織君」

「はい……」

「ありがとう」

「え?」


 伊織くんは反射的に顔を上げた。


 その瞳は、予想外の言葉を発した香さんを見て離さない。


 自分に向けられている視線を感じながら、香さんはゆっくりとした口調で言った。


「伊織君が、ずっと胸に抱えていた気持ちが知れて、私とっても嬉しいの」

「僕はただ、自分の気持ちが一体なんなのか、わからなかったんです……」

「うん……わかってたよ、最初から」

「さ、最初から……?」

「……修一さんがねっ、伊織君が怒りの矛先を向けているのは、本当は私ではなく自分だって言ってたの」

「っ!?」

「修一さん、相談も無しに結婚の話を進めたこと、ずっと気にしてたよ。いつ、どうやって謝ろうか悩んでいたし」

「そう……だったんですか……」


 どうやら伊織くんのお父さんは、既に全てを見抜いていたようだ。


「それから……私の方こそ――ごめんね」

「! ど、どうして香さんが謝るんですか!?」


 と伊織くんが尋ねると、香さんは彼の目を真っ直ぐ見て。


「……修一さんに言われるまで、伊織君の気持ちに気づけなかったから」

「そんな……悪いのはこっちなのに」

「ううん。いくら避けられていたからって、話す機会は作れたはずだから」


 伊織くんの手を取り、自分の思いを伝える。


 今まで離れていた距離を一気に縮めるように。


「ゆっくり……ゆっくりでいいから、いつか伊織君にお母さんとして認めてもらえるように頑張るっ」


「………………………………っ」


 伊織くんは涙を堪えるのに必死だった。


 たった数ヶ月。


 しかし、二人にとってはその時間は余りに長かったはずだ。


 少しずつお互いのことを理解していくことでわかり合えていける。


 ときにはすれ違うこともあるかもしれない。


 でも、あの二人なら大丈夫だろう。


 恵ちゃんもいるし。


 わたしは、そう思う。


 すると、香さんはふとこちらを見てニコッと微笑んだ。


 ……うん?


「じゃあその第一歩として、まずはこっちにいるときの伊織君のあれやこれやについて教えてもらおうかな~♪」

「……はい?」


 テンションの高い香さんは、伊織くんの方を見て「ふふっ」と笑みを浮かべた。


(――冬佳さんの思い、必ず引き継いで見せます。だから、見守っていてくださいね)


「いいよね、二人とも♪」

「はいっ! もちろんです!」

「うん」


 わたしは元気よく頷き、恵ちゃんはコクリと頷く。


 すると、


 その様子を見ていた伊織くんが声を上げた。


「ちょ、ちょっと待てぇー! 二人とも一体なにを話そうと――」

「――まあまあ、いいじゃん♪」

「よくないですよ……!!」

「伊織のヒミツ、どれにしよう」

「恵まで……って、僕の秘密って……!?」


 と慌てた声で尋ねられると、恵ちゃんは口元に指を置いて「内緒」と呟いたのだった。

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