第23話 伊織の気持ち

 次の日。


「お、お客さん、来ないですねぇ……」

「そうだね~」


 今日の『喫茶ヒマワリ』は、時折外から子供たちのはしゃぐ声が聞こえるほど、しーんと静かだった。


 時刻はもうすぐお昼の一時。


 マスターは店の壁に掛けてある時計を確認すると、穏やかな声で言った。


「じゃあ、お客さんも来ないし、そろそろ休憩するとしよう」

「あ、はい」


 と言ってわたしがカウンター席に座ると、マスターがアイスコーヒーを出してくれた。


「ありがとうございます、マスター。いただきます」


 ストローを通って、コーヒーの香りと苦味が口の中に広がる。


 苦いのが苦手でブラックのコーヒーが飲めないわたしでも、なぜかここのコーヒーはそのまま飲むことができた。


「はぁ〜……美味しい〜……」


 マスターの技量があってこそなせる技なのか。


 その様子を見て、マスターは「ふっ」と笑みを浮かべた。


「今日は、一体どうしたんだい? いつも元気な乙葉ちゃんらしくないと思うんだが」

「え。そ、そんなことないですよ……?」

「そうかね?」

「…………」


 やっぱり、この人の前では全てを見通されているんだよね。


「……あの、マスター」

「なんだい?」


 ……ふぅ。


 一度心の中で深呼吸をしてから、わたしは言った。


「…………一つお願いがあるんですけど――」




『喫茶ヒマワリ』の中にあるテーブル席の一角に、わたしと恵ちゃんの姿はあった。


 その席は丁度この前、伊織くんと香さんがこのお店にやって来たときに座っていたテーブル席だ。


「………………………………」

「………………………………」


 テーブルを挟んで、時折顔を俯かせながら時間が経つのを待っていた。


 すると、


 カランカランという鈴の音と共に、少し不機嫌そうな顔の伊織くんがやって来た。


「マスター、こんにちわ」

「いらっしゃい。二人はあそこの席だよ」

「え、二人?」


 チラッとこちらを見て、伊織くんはわたしたちがいるテーブル席に来ると、


「あれ? 恵」

「伊織、待ってた」


 恵ちゃんがここにいたことに若干驚いた表情を浮かべている。


 すると、その目はそのままわたしへと向けられた。


「ど、どういうことなんですか?」

「あ……あはははは……。えっとー……まぁ、座って座って!」


 そう言ってわたしが、横の空いている席をポンポンと叩くと、伊織くんは促される形で席に座った。


「……」


 そんな怪しいものを見るような目で見られても……。


(か、完全に怪しまれてるよね……)


 と心の中で呟きながら伊織くんの視線を感じていると、カウンターからマスターがお冷とメニュー表を持ってきた。


「アイスティーをお願いします」


 慣れたように注文を伝える伊織くん。


 それを聞いて、マスターは無駄な動きのない身のこなしでカウンターに戻った。


 そんなマスターの背中を見送っているわたしに、伊織くんは言った。


「それで先輩、話ってなんですか? あと、どうして恵もいるの?」


 わたしの正面の席に座っている恵ちゃんを見た。


「…………」


 恵ちゃんは視線を伊織くんに向けたまま、口を開けようとはしない。


「そ、それより、今日は天気がいいよね〜」

「……思いっきり曇ってましたけど?」

「そうだったっけ〜? あれれ〜おかしいなー……」

「……先輩」

「はい……」


 すると、丁度いいタイミングで、マスターが伊織くんの前にアイスティーを置いた。


 た、助かった……。


「あ、そういえば店の前の看板、『CLOSE』になってましたけど」

「ほっほっほ。構わんよ」


 そう言ってマスターはさっきと同様、カウンターに戻って行った。


 本当はまだ開店時間だったけど、マスターが気を利かせて、『CLOSE』の看板を店の前において他の人が入ってこないようにしてくれた。


 本当に、マスターには頭が上がらない。


 わたしが心の中で感謝の言葉を伝えていると、伊織くんがアイスティーを一口飲んでからこちらに視線を向けた。


「それで、どうして僕をここに呼んだのか、教えてください」

「そ、それは…――」

「――私が、お願いしたの」


 すると、恵ちゃんのいつもとは違うはっきりとした声がわたしを遮る。


「え、お願い?」

「……」


 コクリと頷く恵ちゃん。


「伊織の本当の気持ちを知りたいから、私も協力させてほしいって」

「!」


 恵ちゃんの言葉を聞いて伊織くんは、今の言葉が本当なのかを確かめるために、こちらに尋ねてきた。


「先輩、そうなんですか?」


 それに対してわたしは、


「……うんっ。わたしも驚いたよ。まさか恵ちゃんからお願いされるなんて思ってなかったから」


「………………」


 伊織くんは恵ちゃんの気持ちを知って、コップに付いた水滴を見つめたまま黙ってしまった。


 そんな時間が少しの間続いていると、ふとコップの氷がカランと鳴った。


 すると、その音が合図だったかのように、恵ちゃんが口を開けた。


「……伊織にもお母さんにも笑っていてほしいから、私にできることがあるのならなんでもしたい」

「恵……」


 それから伊織くんは、わたしと恵ちゃんを交互に見て、


「……わかりました」


 そう言って、ゆっくりとアイスティーで喉を潤した。


 一度自分を落ち着かせるためだろう。


 興奮したままだと、自分の思いをちゃんと相手に伝えられないし。


 伊織くんは、恵ちゃんの思い、そしてわたしの思いを聞いた今、このままではいけないことに気づいたのかもしれない。


 自分の胸の内に抱えているだけでは、なにも始まらないし、なにも変わらない。


 だから…――。


 伊織くんの思いを、真っ正面から受け止めよう。


 それが、今のわたしにできることだと思うから。


「……」


 伊織くんはストローから口を離し、コップをテーブルの上に置くと、顔を俯かせたまま言った。


「…………香さんに、謝らないといけませんね……」




 伊織くんが言った言葉を、わたしは聞いた。はっきりと。


 ……謝るって、一体どういう……。


 と頭の中で考えを巡らせていると、


「……それは、どういう意味?」


 そう言って恵ちゃんは真っ直ぐな瞳で伊織くんを見た。


 それに対して、伊織くんはというと、コップに残るアイスティーを見つめながら言った。


「本当は、香さんが母親になることは最初からOKだったんです」


 ……え――?


 聞き間違いじゃないよね……?


 ふと正面を見ると、珍しく恵ちゃんと目が合った。


 恵ちゃんも、どうやらわたしと同様驚きを隠せないようだ。


「で、でも、確か伊織くん……」

「はい……。僕の勝手で家がギクシャクしてしまっていたのは、わかっているつもりです」


 ………………。


 ここで、一つの疑問が浮かんだ。


 伊織くんは、香さんを母親として認めないと言っていた。


 それなのに、どうして……。


「…――なら、どうして?」


 と恵ちゃんが、わたしが思っていたことを尋ねると、


「……母さんが死んで何ヶ月か経った頃、父さんから突然、紹介したい人がいるって言われたんです」

「それが……香さんだったんだね」

「……はい」


 伊織くんはコクンと頷き、どこか遠くを見るような表情で、


「……母さんがいなくなってからの父さんは、表情に隠せないほど辛そうだったんです。毎日、遺影の前で泣いて……。だから、父さんが一歩前に踏み出したことが、とても嬉しかったんです」


 でも、と伊織くんは口を止めることはなく、


「よく考えてみたら、母さんが死んでまだ半年も経っていないのに、もう相手を見つけてきたことが許せなくなって……。嬉しいことのはずなのに、素直に喜べなくなって……」


 そして、


「自分の中で整理が付かないまま、どうすればいいのかわからなくなってしまったんです……」


 伊織くんは、ゆっくりと口を閉じた。


 ………………。


 やっと、伊織くんが抱えていた思いを知ることができた。


 それに、香さんと話すときに嫌な顔をしていた理由も、今の話を聞いて納得した。


 要するに、思いの丈をぶつけるはずが空回りしてしまい、頭の中のモヤモヤを父親ではなく、香さんの方に向けてしまった、ということなのだろう。


 優しい心を持っている伊織くんだからこそ、迷惑をかけてしまうと思い、誰にも言うことができなかったのかもしれない。


「………………………………」

「………………………………」


 恵ちゃんは顔に出さないものの、内心では伊織くんの知らない一面を知ってびっくりしていることだろう。


 まぁ、それはわたしも同じだけれど。


 すると、


 伊織くんの口から予想していなかった言葉が告げられた。


「……恵には言ってなかったんだけど……。実は、あのリボンは――母さんの形見なんだ」


「「え」」


 と、ポツリと口から声がこぼれる。


 だがそれは、わたしだけではなく。


「恵ちゃん……?」


 わたしが声をかけると、恵ちゃんは呆然と伊織くんに視線を向けていた。


 すると、恵ちゃんは徐にポケットからあるものを取り出す。


 そう。あの白いリボンだ。


 それを見て伊織くんは顔を俯かせると、小さな声で言った。


「……父さんがそれを渡したと聞いたときは、正直に言うとショックでした。……だって、母さんが肌身離さず持っていたものでしたから……」


「伊織くん……」


 まさか、あの白いリボンがお母さんの形見だったなんて。


 いつもなら新事実発覚で驚くところなのだけれど。


 チラッと前を見ると、恵ちゃんは手の平にあるリボンをじーっと眺めていた。


 まるで驚きを通り越して、信じられないと言わんばかりに。


 余程驚きだったのだろう。


「………………」


 すると、伊織くんが隣の恵ちゃんを見てからわたしの方を見た。


「……話はここまでです。じゃあ僕はここで…――」


 そう言い残して伊織くんが席を立ったとき、店の奥からコツコツとヒールが地面を叩く音が聞こえた。


 コツ……コツ……コツ……。


 その音は、ゆっくりとわたしたちのところへと近づいてきて、


 コツ……コツ……コツ……。


 お店の中に響き渡るヒールの音。


 コツ……コツ……コツ……。


 伊織くんは音の正体が気になり、カウンターの方へと振り返る。


「――え」


 すると、伊織くんの口からポツリと声がこぼれる。


 …――あとは、お願いします。


 と、心の声で伝えている間に、謎の音はわたしたちがいるテーブルの前にやって来て…――


「こんにちは、伊織君」

「……っ!! どうして、あなたが……」


 口を開けて呆然としている伊織くんの視線の先にいたのは、首をちょこんと横に傾けて笑みを浮かべている香さんだった。

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