第20話 伊織と白のリボン

 月曜日の朝。


「はぁ……」


 朝食のサンドイッチを頬張るめぐみは、どうにも月曜日が苦手だった。


 特に、日曜日の夜にこの三文字を見ようものなら、今すぐにでもベッドに戻りたいという欲に負けそうになるほどだ。


 そんな恵が、布団から出てこうやって朝食を食べられているのも、この、伊織特製のたまごサンドのおかげだろう。


 リビングの壁にある時計の針は、十一時を指していた。


 十一時は朝? それともお昼?


 ふとそんなことを考えていると、


 ピロリンッ。


 テーブルの上に置いていたスマホから通知音が鳴った。


 手に取って見てみると、伊織いおりからだった。


『体調は大丈夫? なにか買ってくるものがあれば帰りにコンビニに寄るけど』


 この文字を見るだけで、心配そうな顔の伊織が目に浮かぶ。


 本当なら、月曜日は伊織と同じく午前の講義に出るはずだったのだけれど。


 ………………。


 正直に言うと、思いっ切り午前の講義をサボってしまったのだった。


 とは言っても、体調が悪かったのは本当だ。


 元々、貧血気味なところがあり、朝はなかなか起きられないでいたのだった。


 ただ症状は軽いようで、先程まで眠っていたおかげで、今はこうやって朝食を食べることができている。


『大丈夫。午後の講義までにそっちに行く』


 と送ってから一分もしないうちに返信が来た。


『大丈夫と言っても無理はダメだよ?』


 ……ふふっ。


『無理はしない。こう見えて頑丈だから』

『……ならいいけど』


 と伊織とのやり取りを楽しんでいる間に、絶品の卵サンドがなくなってしまった。


 ……まだ食べたかった。


 ピロリンッ。


 恵が空になった皿を見つめていると、返信の続きが来た。


『お昼ご飯だけど、朝作ったお弁当がキッチンにあるから食べて』


 ! お弁当……。


 恵は席を立ってキッチンに向かうと、曲げわっぱのお弁当箱を見つけた。


 あまり表情を表に出さない恵だが、今の彼女は、幸せに満ちているのが一瞬でわかるほど頬が緩んでしまっていた。


「…………」


 チラッと中を見てみようとしたが、最初を大切にしたいと思い、ここは我慢することにした。


 それから恵は、いつもより軽い足取りで皿とコップをシンクに運ぶと、部屋に戻った。


 外着に着替えるためだ。


 一人でお弁当を食べるよりも、お昼休みに学食に行って伊織と一緒に食べたいと思った。


「♪」


 Tシャツとショートパンツの姿から、あっという間にいつもの外着に着替え終えた。


 ……のだけれど。


「うーん……。どれにしよう……」


 恵は、枕元に置いていたピンクのリボンを見る。


 このリボンは、小さい頃、母親の香が誕生日にプレゼントしてくれたものだ。


 ちなみに、これと同じものを茉奈も持っている。実際に、この前来た時も付けていた。


「あ」


 そのリボンを恵が結ぼうとしたとき、ふと机の上に置かれたある物に目が止まった。




 お昼休みの食堂――。


 テーブル席やテラス席は、あっという間に学生でいっぱいになっていた。


 楽しそうな会話が次々と耳に届く。


 そんな賑わっている学生たちの中に、私、伊織くん、しーちゃん、悠くんはいたのだけれど……


「へ、へぇー……。も、もう一人の妹さん、ねぇ……」

「はい。急に来たんでびっくりしました」

「ふ、ふーん……」


 伊織くんが話を始めたのでなにかと思い聞いていると、実は彼にまさかまさかのもう一人の義妹がいたことが発覚したのだった。


 き、聞いてないんだけど……。


 それも、義妹で、ツインテールで、JK?


 属性のオンパレードに、脳がついていけない。


 早く列に並ばないとランチプレートを頼む前に行列ができてしまう。


 だけど、今のわたしにはそんなことを考えられるほどの余裕はない。


 今日くらい、お昼を抜いたって大丈夫でしょう。


 伊織くんの話では、どうやら自分はそのもう一人の義妹に嫌われているとのことらしい。


 ここで、気になることがもう一つ。


 それは、『嫌われている』という言葉の裏に、なにかが隠されているかもしれないということだ。


 つまり、伊織くんの言う義妹が……ツンデレという可能性だ。


 ツンの部分ならまだいい。でも、もしそのツンの部分が何かの拍子でなくなったとすれば……?


 ……これは、強敵の匂いがプンプンする。


 そんなことを考えていると、話を聞いていた悠くんが興味津々な顔で言った。


「なぁ、その……なんだっけ?」

「? 茉奈ちゃん?」

「そう、その茉奈ちゃんって子、どんな感じだったんだ?」

「どうって言われても、元気いっぱいなツインテール少女、かな」

「ツインテールかぁ、ロマンあっていいじゃねぇか」


 悠くんは、胸の前で腕を組んでうんうんと頷いていた。


 一体、なにがわかったのやら。


 そんなことを思っていると、突然、ピロリンッとスマホの通知音が鳴った。


「あ」


 隣にいた伊織くんは、徐にズボンのポケットからスマホを取り出した。


 どうやら、伊織くんのスマホから鳴ったようだ。


「誰から?」


 と尋ねるしーちゃん。


「恵からです。もうすぐこっちに着くと言ってます」

「あれ? そういえば、体調が悪そうとか言ってたけど、大丈夫だったの?」

「はい。聞いた限りでは大丈夫みたいですよ。お弁当も忘れずにちゃんと持ってきたみたいですし」


 ……ん? お弁当?


「へぇー。ならよかったじゃん。元気が一番だからねぇ〜」


 おっと〜……?


「お弁当……?」

「はい」


 ここで伊織くんは、恵ちゃんのためにお弁当を用意したことを話してくれた。


「いいなぁ……お弁当……」

「そんなに落ち込まないでくださいよ。先輩が言ってくれたら、また作りますから」

「えっ、ホント!?」

「はい」

「ッ!!」


 こ、これは、またあの美味しいお弁当が食べられるチャンスっ!


「じゃっ、じゃあ今度はねぇ――」




「――お待たせ」




 そのとき、わたしたちがいるテーブル席に、恵ちゃんがやって来た。


 ……あれ? なんだろう……?


 なんとなく、いま目の前にいる恵ちゃんは、いつもとどこか雰囲気が違う。


 服装は、いつもと特に変わったところはない。


 うーん……。


 だが、その謎はすぐに解けた。


「あっ、その白いリボン可愛い~」


 リボン? あ、そういうことか。


 いつもと違う違和感の正体。それは、恵ちゃんの髪を結んでいたリボンが、いつものピンクではなく白だったことだ。


 ツヤのある黒髪と相まってとても際立っていた。


(くっ、悔しいけど、可愛い……っ)


 チラッと隣の伊織くんを見ると、まるで、見惚れているかのように恵ちゃんを見つめていた。


 ぐぬぬぬぬ……。


 わ、わたしだって、もう少し髪を伸ばせばあれぐらい結べるようになるんだからっ!


 と頭の中で熱く語るわたしなのであった。


「伊織。どうかな……?」

「………………」

「伊織?」

「……え。あ、うん。とっても似合ってるよ……」


 ? どうしたんだろう?


 いつもの伊織くんらしくないその様子に、心がザワつく。


 すると、そんなわたしの内心に気づくことなく、しーちゃんは尋ねた。


「ねぇねぇ、そのリボン初めて見るけど、どうしたの?」

「……この前、真奈から貰った。お母さんから私に渡して欲しいって頼まれてたみたい」

「へぇー。じゃあそのリボンは元々、恵ちゃんのお母さんのだったの?」


 しーちゃんからの質問に、恵ちゃんは首を横に振った。


「お母さんがこのリボンをしているところを見たことがない」

「え? そうなの?」

「……」


 コクリと頷く恵ちゃん。


「………………」


 伊織くん……?




 それから、数日後。


 今日の『喫茶ヒマワリ』は、お客さんの数はまばらで、そのほとんどが常連のお客さんだった。


 どうやら、世間話やご近所話と話題は尽きないらしい。


 カランカラン。


「あっ、いらっしゃいませー」


 …――なぜだろう。


 バイトをする手に、力が入らない。


 今も、来店したお客さんをテーブル席に案内して、注文を取ったのだけれど。


 どうにも集中力が欠けているとしか言いようがなかった。


 あのときの伊織くん……いつもとは違って見えた……。


 恵ちゃんがあの白いリボンを付けてきてから今日まで、大学での伊織くんは、どこか上の空だった。


 あの日以来、恵ちゃんは白いリボンを付けて来なくなったし。


 ……やっぱり気になる。でも、急にこっちから聞いても教えてくれそうにないし。首を突っ込みすぎるのもよくないよね。


 今はそっとしておいた方がいいのかな……。


 と恋心を抱く男の子のためになにもできないことを悔やんでいると、鈴の音と共に扉が開いた。


 いけないいけない。今は仕事中。考えるのは後にしないと……


「いらっしゃいま……んん!?」


 といつも通りの接客を心がけて挨拶をしたとき、わたしの瞳は真っ直ぐと、ある人物を捉えた。


 い……伊織くんっ!!?


 咄嗟にわたしはカウンターに隠れた。


 カウンター席にいたお客さんに変な目で見られたけれど、この際だ。気にしている場合じゃない。


 それよりも……


(だ、誰っ!? あの綺麗な人……)


 そう。わたしの瞳は、伊織くんの隣にいる、謎の美人に向けられた。


 ツヤのあるロングの黒髪。透き通った肌とぷるんっと弾力のありそうな唇。そして、一度見たら目を離すことができなくなるほどの、整った顔立ち。


 まさに、美人顔と言ったところだろう。


 悔しいけれど、文句の付け所がなかった。


(あ、あの伊織くんが、年上の女性を弄んでいるとか……ま、まさか、ねぇ……)


 で、でも、それはそれでギャップがあって……いいかも……。


 時に、乙女の妄想はあらぬ方向へ向かうこともあるのである。


 すると、


「乙葉ちゃん」

「は、はい……っ!?」


 カウンターでコーヒー豆を挽いていたマスターが声をかけてきた。


 慌ててその場で立ち上がったわたしを見て、マスターは言った。


「お客様を案内してほしいな」

「わ、わかりましたぁぁぁっ!!!」


 我ながら威勢のいい声を上げて、急いで二人の元へと向かう。


「い、いらっしゃいませ……」

「……あ、先輩。どうも」

「え、ええ……」


 伊織くんがこちらに気づいたのと同時に、彼と一緒にいた謎の女性の視線がわたしへと向けられた。


「あらっ。先輩ということは、もしかして同じ大学の……?」

「そ、そうでふゅっ」


 ………………。


『そうです』と言うはずが……恥ずかしい……。


 穴があったら入りたいとは、まさにこのこと。


 ううぅぅぅぅぅ……。


 そんなわたしを見て、謎の女性は「ふふっ」と笑みを浮かべていた。

 

「先輩? どうしたんですか?」

「へっ!? な、なんでもないよぉ!?」


 ふぅ……。一旦落ち着こう。


 伊織くんが女性を連れてお店に入ってきたからと言って、わたしが今することはなにも変わらない。


 つまり、二人を接客することだ。


 今はお仕事、お仕事。


 話は後で聞いてもいいんだし。


 よぉ〜しっ!


「こ、こちらにどうぞっ!」

「乙葉ちゃん。お冷とメニュー、忘れてるよ」

「!? は、はいぃぃぃ……っ!!」




 あの後。空いているテーブル席に二人を案内してから注文を取り、わたしはその場を離れた。


 ちなみに、伊織くんはアイスティー、謎の女性はホットコーヒーを注文した。


「…………」


 他のテーブル席でコップに水のおかわりを入れながら、チラチラっと二人の様子を観察する。


 前にもこんなことがあったような……。


 これを俗に『デジャブ』って言うのかな。


「………………」

「………………」


 二人のいるテーブル席は、どっと重い空気が漂っていた。


 これは、ただごとじゃないと見た。


 うむ……。


「……乙葉ちゃん」

「は、はいっ!!!」


 ジト目のマスターから受け取ったアイスティーとホットコーヒーを運んでいると、徐々に二人の会話が聞こえてきた。


「……どうして、こっちに来たんですか? 連絡もなく」

「ごめんなさい。あなたと一度、きちんとお話がしたいと思ってね」

「話すことなんて、なにもないですよ……」


 思わず、わたしは進めていた足を止めた。 


「………………」

「………………」


 ……ゴクリ。


 緊張の糸がピンッと張ったこの空気に、思わずつばを飲み込む。


 い、行きにくい……。


 ……でも。


「お、お待たせしま――」




「――僕は、まだ認めてませんよ。あなたが……義理の母親になるのは」




 ……えっ、えええええぇぇぇぇぇえええっ!!?

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