第19話 もう一人の義妹 -2-

「はぁ……」


 茉奈まなは、ソファーの前にある座椅子に座ってテレビを眺めていた。


 結局、あれからめぐみは起きて来ないまま、気がつけばもうすぐお昼。


 今もぐっすり夢の中なのだろう。


「それにしても……平和だなぁー」


 茉奈がここに来た理由は三つある。


 一つ目は、お姉ちゃんがきちんと生活できているのか。


 二つ目は……二人が、『そういう関係』になっていないか。


 赤の他人から家族になったとはいえ、同い年の男女が一つ屋根の下というのが、もうラブコメ過ぎて、何が何だか……。


 年頃の乙女には少々刺激が強いそのシチュエーションに、思わずドキッとしてしまう。


 ふとそんな妄想の世界に浸っていると、


「よいしょっと」


 伊織が、ベランダで干していた洗濯物をカゴに入れて部屋に戻った。


 洗濯もやるなんて、大変だなぁ……。


 これは一度、妹としてきちんと姉に言っておかないと……って、


「!? な、なにをしているのよーっ!!」


 茉奈は、慌てて伊織からカゴを奪い取ると、呆れた顔で伊織を見た。


「? なにって、洗濯物を取り込んだだけだけど?」

「じゃあ、今その手には、一体なにがあるのかなっ?」

「え? これは……下着、だね」


 それは、茉奈がカゴを奪い取ったときに伊織の指に引っかかった、恵のあの大きなブラだった。


 ブラのストラップが、指を中心にぷらんぷらんと揺れていた。


「!! ま、マジマジと見ないのっ!」


 茉奈は、伊織の手から奪い取った下着をカゴの底に押し込んだ。


 そのとき、


「おはよ……」


 自室で二度寝をしていた恵が、リビングにやって来た。


「おはよう、恵」

「お姉ちゃん……寝すぎだよ……」


 目を擦りながら欠伸をする恵。


「……ん? あ、茉奈、まだ居たんだ……」

「居ちゃダメなのっ!?」

「うん」

「えっ……」


 あまりの即答に、茉奈はガクリと床に手をついた。


「……こうなったらぁ!」

「ん?」


 茉奈は勢いよく立ち上がると、真っ直ぐな瞳で言った。


「わ、私っ、今日はここに泊まっていくことに決めたからっ!」




 その日の夜――。


 あの後、茉奈は、実家に今日はこっちに泊まっていくことを電話で伝えた。

 

 伊織たちのところに行くことは、元々伝えていたようで、連絡はすぐ終わった。


 そんな当の茉奈はというと、恵に借りたTシャツとショートパンツに着替え、恵の部屋のベッドの上で寛いでいた。


 来客用の布団を用意していなかったため、恵と一緒にベッドに寝ることになったのだ。


「……茉奈、私が寝転べない」


 歯を磨き終え、部屋に戻った恵の視線は、スマホの画面を眺める恵へと向けられる。


「………………」


 声をかけたが、茉奈からの反応がない。


「……茉奈?」


 もう一度、声をかけると、


「……ん? お姉ちゃん、な、なに?」


 今度は気づいたようで、茉奈は耳につけていた白のワイヤレスイヤホンを外した。


 どうやら、イヤホンでなにかを聞いていて恵の声が届かなかったようだ。


「なにを聞いてたの?」

「インスタライブを見てたんだよ~」

「……インスタ?」

「うん。え、お姉ちゃん、もしかしてインスタ知らないの?」

「言葉は知ってるけど、使ったことない」


 と言った恵に、茉奈はスマホの画面を見せた。


 そこには、こちらを見ながら話をしている女性と、次々と流れるコメントが映し出されていた。


 茉奈曰く、今テレビに引っ張りだこの大人気アイドルのうちの一人らしい。


 アイドルに疎く、女性のことを知らなかったことを恵が話すと、茉奈は目を丸くして恵の顔を見ていた。


 それからというもの、茉奈からインスタのいいところやアイドルの紹介を聞かされている間に、あっという間に深夜の一時を過ぎようとしていた。


「――だからっ、この曲は最高なんだよっ!」

「…………」

「あみあみがセンターになったときは、それはもう涙が止まらなかったよっ!!」


 そう言って、目に涙を浮かべる茉奈。


「……あみあみ?」

「佐藤あみちゃんのことだよっ! 来月に出る新曲のセンターの!」

「そ、そうなんだ……」


 恵の頭は、パンク寸前になるほどの多すぎる情報量に圧倒されていた。


(インスタ……あみあみ……センター……)


 人は自分のキャパシティを超えると、ここまで無力になるのかと思ってしまう。


「それでねぇ〜♪」

「……茉奈」

「なになに~♪ もしかして興味持って――」

「……寝るから電気消すよ」

「あ。はい……」


 元気だった声が、段々小さくなっていく。


 茉奈は画面を切ったスマホを枕元にある充電ケーブルに繋げた。


 それを確認してから、恵は部屋の電気を消してベッドに横になった。のだが……


「………………」

「………………」


 横に並んで同じ天井を見上げる恵と茉奈。


 二人の間に『会話』という二文字はなかった。


「……ね、ねぇ、お姉ちゃん」


 茉奈は、しーんと空気に耐え切れなくなり、恵に話しかけた。


「……なに?」


 恵は顔だけを横に向けた。


「えっと……その……あ、あいつとは、うまく生活できてるの……?」

「……あいつ? 伊織のこと?」

「うん……」

「楽しいよ」

「そ、そうなんだ……」


 迷うことなく即答が返ってきたことに、茉奈は驚いた。


「茉奈は今日一日、伊織と一緒にいて、どう思った?」

「えっ? うーん……。実は、かなり鈍感ってところかな……」

「鈍感?」

「だ、だって、お姉ちゃんの下着を、なんでもない顔で手に取ってたからっ!」

「……私は別に気にしないよ?」

「お姉ちゃんが気にしなくても、私が気になるんだよっ!」

「……そうなの?」

「そうだよっ!」

「……茉奈。顔が近い」

「え?」


 茉奈は自分が顔を至近距離まで近づけていたことに気づき、慌てて離れた。


「ご、ごめん」

「…………」


 それから、部屋に再び静寂が流れた。


 ――――――――。


「……私は、伊織に甘えてばかり」

「え」

「不器用だから、全部伊織にやってもらってる」

「ま、まぁ、お姉ちゃんの不器用さは昔からだけど」

「……気づいてたんだ」

「いやいや、流石に気づくでしょ。何年一緒にいると思ってるの」

「だよね……ふふっ」

「ぷふっ……あははははっ!」


 堪えきれず、笑みがこぼれる。


 それから、姉妹水入らずの時間は、ゆっくりと過ぎていったのだった。




 ふと茉奈は目を覚ました。


 枕元に置いていたスマホを見ると、深夜の三時と表示されていた。


 どうやら、喋り疲れて寝落ちしたらしい。


 横を見ると、恵が気持ちよさそうな顔で眠っている。


「…………」


 喋り過ぎてカラカラだったのどを潤すために、ベッドを降りてリビングへと向かう。


「あ」


 廊下を通って扉を開けて中に入ると、電気の消えた暗いキッチンに先客がいた。


「ん?」


 コップに入った麦茶を飲む伊織だった。


 伊織は、ポカンと口を開けた茉奈を見てなにか思ったのか、棚から同じコップを一つ出すと麦茶を入れた。


「はい」

「あ、ありがとう……」


 ひんやりとした麦茶が、乾いていたのどを潤す。


「………………」

「………………」


 恵のとき以上に、キッチンには静寂が流れていた。


「……一つ聞きたいことがあるんだけど、いい?」


 この静寂を切り裂いたのは、茉奈だった。


「? 聞きたいこと?」

「うん……」


 それから、茉奈は一度間を置いてから、言った。




「もしかして……ママを避けてる?」



「っ‼︎」




 伊織は、意表を突かれたと言わんばかりに、ただ一点を見つめたまま固まっていた。


(やっぱり……)


 それは、茉奈が予想していた通りの反応だった。


 初めて会ったときと全く同じ、目に見えないものを見るような。


 ここにやって来た理由の三つ目は、伊織自身になにがあったのか気になったからだ。


 だが、茉奈にはその理由がわからないでいた。ただ、一つだけわかっているのは、


 ……多分、ママのことをよく思っていない。


 ということだ。


「……一人暮らしを始めたのも、ただ大学に近いからじゃなくて……ママと距離を置きたかったからじゃないの?」

「そ、それは……」


 先程までの落ち着いた口調が嘘だったかのように、たどたどしい声しか発せなくなっていた。


 ……おかしい。間違いなく、なにかある。


「きゅっ、急にこんな話してごめんね」

「う、うん……」


 心ここに在らずと言わんばかりに、その声に覇気はなかった。


「おやすみ」


 茉奈は、空になったコップをシンクに置くと、部屋に戻ったのだった。




「避けてる、か……」




 それから夜は更けて、朝。


 朝食を食べ終えると、茉奈ちゃんが家に帰ると言った。


 なんでも、急な用事が入ったらしい。


 それなら仕方ないと思い、恵と一緒に玄関で茉奈ちゃんを見送ることにした。


 茉奈ちゃんは、ローファーを履いてつま先をトントンと蹴ると、こちらに振り返った。


「じゃお姉ちゃん。ケガとか風邪には気をつけてね」

「うん。茉奈も元気で」

「えへへっ、わかってるよ」


 すると、茉奈ちゃんは恵の隣にいた僕を見た。


「……今日のご飯も美味しかった」

「そっか、ならよかったよ」



「……あ、ありがと……」



「え」


「!! な、なんでもないっ!」


 聞き直した僕を振り切って、茉奈ちゃんは声を上げた。


 本人がなんでもないと言うのなら、自分の聞き間違いなのかもしれない。


 ……と捉えることはできるけれど、僕ははっきりと聞こえた。




『ありがと……』と。

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