第17話 伊織の料理教室
ある日のこと――。
静かなリビングに、ページをめくる音だけが響く。
「…………」
恵はソファーの上で、伊織がローテーブルの上に置きっぱなしにしていた料理本を眺めていた。
なんとなく手に取ってみたのだが、いつの間にか読むのに夢中になっていた。
本の内容は、表紙がお弁当の写真ということもあって、卵焼きや唐揚げ、ごぼうのきんぴら、といった定番から脇役までの様々なおかずのレシピが紹介されていた。
………………。
恵はページを眺めながら、ふと伊織が料理を作っているところを思い返した。
ふと頭に浮かんだ伊織は、自前のエプロンを着て、流れる動きで具材を切り、それを手際良くフライパンで炒めていた。
……かっこいい。
うまく口に出して言うことはできないが、楽しそうに料理を作っている伊織を眺めている時間が、実は至福のひと時だったりする。
前に一度だけ、伊織に休んでもらおうと思い家事を交代したことがあったけれど、それはもう大変なことになった。
不器用が邪魔をしているとしか言いようがない。
「……むぅ〜」
と珍しく恵が唸っていると、
「ん? 恵、どうしたの?」
洗濯物を洗濯機に入れるために脱衣所に行っていた伊織が、リビングに戻ってきた。
「……ねぇ伊織、これ作るの、難しい?」
そう言って恵は、伊織にジューシーな唐揚げが特集されているページを見せた。
「え? うーん……。まぁ作り方はいたってシンプルだから、下味と揚げ方さえ間違えなければ、作れると思うよ。と言っても、実は僕自身、唐揚げを作ったことないんだけどね」
「……なら、頑張る」
「え?」
恵が言った一言に伊織が首を傾げていると、広げていたページにデカデカと載っていた、唐揚げの写真を指さした。
「これ作りたい」
「!」
これまた予想外の一言だったのか、伊織は恵の顔を見た。
「ちょっとごめんね」
許可を取っておでこに手を当てたが、熱はないようだ。
その間、恵の頬がさっきより赤くなっていたような……気のせいかな。
一応了承を取ったとは言っても、やっぱり恥ずかしかったようだ。
……あ、今はそれどころじゃない。
「急にどうして作りたいって思ったの?」
「…………」
それから話を聞くと、どうやらいつも作ってもらってばかりなので、たまには自分が作ってあげたいと思ったらしい。
その気持ちはとても嬉しいのだけれど。
「恵、料理作りはまた今度にしよう」
「どうして?」
「えっと……。め、恵にはまだ料理は早いというか……」
「早くないよ? もう大学生だから」
「それはそうなんだけど……」
どうやら恵の頭の中では、料理を作ることが決定しているようだ。
その決定を覆すのは容易ではないだろう。
すると、
「……伊織、私は真面目だよ」
「そ、そっか、ごめん」
僕が『恵×家事』という組み合わせを思い出して慌てて止めようとしたのだけれど、恵はやる気満々な顔でレシピ表に目を通していたのだった。
その後。
いつものスーパーで買いものを済ませて、早速キッチンで唐揚げの下準備を始めようとしたのだけれど……
「…………」
恵は包丁を右手に持ったまま、まな板の上に置かれた鶏むね肉をじーっと見ていた。
まるで、にらめっこでもしているかのような光景だった。
「…………」
「め、恵……?」
鶏むね肉から目を離さない恵に声をかけると、
「ひぃぃぃ!?」
「ん?」
恵はこちらに向くのと一緒に、なんと包丁の先を向けてきたのだ。
お腹との距離は僅か数センチ。
危ないにも程がある。
「……あ」
すると、恵は包丁を持つ手を下ろした。
これは料理を作る以前の問題だから、今のうちにきちんと注意しておいた方がいいな。
「包丁の先を人に向けるのは絶対にダメ! 危ないからっ!」
「……ごめん」
つい怒り口調になってしまった。
しょぼんとした顔で謝った恵の手には、まだ包丁が握られていたので、思わず額から汗がこぼれる。
……こうなったら、早く終わらせるしかない。
「ふぅ……。じゃあ改めて始めよう」
恵は「うん」と頷いてから、徐に包丁を持つ手を高々と挙げると――
――バンッッ!!
「!!? ちょっ、ちょっ!!」
まな板の上の鶏むね肉に包丁を振り下ろした恵を、僕は慌てて止めた。
「そ、そんなに力を入れなくてもちゃんと切れるからっ!」
まさか、ここまでひどいとは……
「はぁ……。僕が一度見本を見せるから、ちゃんと見てて」
そう言って、僕は恵が持っていた包丁を使い、むね肉の大きさが一口大になるように切った。
「ほら、全然力なんて要らないでしょ?」
「うん」
「よしっ。じゃあもう一度やってみよう」
恵に包丁を渡し、指を切らないか心配しながら見守った。
ちなみに、手の中にいつでも使えるように絆創膏を用意している。
「伊織、これでいいの?」
「そうそう、そのままゆっくり手前に引いて――」
今回は見本を見せたこともあって、時間はかかったが、なんとかむね肉を切り終えることができた。
「ふぅ……」
緊張から解放されてほっと息を吐く恵。
よしよし、ここまではなんとか順調だ。
ここまで来れば、後は唐揚げの下味を作っていくだけだ。
ここで、これからにんにくの匂いがキッチンに充満するので、換気扇を回しておくことも忘れない。
よしっ。
まず、切った鶏むね肉を、醤油、酒、塩、塩コショウ、おろししょうが、おろしにんにくの入った袋に入れる。
それができれば、下味を染み込ませるために少し袋を揉み、入口を閉めて冷蔵庫で寝かせる。
これで、唐揚げの下準備は完了だ。
後は、夕食の前に冷蔵庫で寝かせた鶏むね肉を油でカラッと揚げれば、味の染みたジューシーな唐揚げの出来上がりだ。
本当は一日味を染み込ませておきたいところだけれど、まぁ今日くらいはいいだろう。
恵が早く食べたそうにソワソワしているし。
(……ふっ)
恵のその姿に、思わず口から声がこぼれる。
その後、流し台でまな板と包丁を洗っていると、横にいた恵がふと尋ねてきた。
「……ねぇ伊織、料理のコツってある?」
「コツ? コツかぁ……なんだろう……」
深く考えたことのない問いに、思考を巡らせる。
うーん……。
そういえば、考えたこともなかったなぁ。
いつもチャレンジ精神で作ってたし。
「……まぁ強いて言うなら、一番忘れがちなことだけど。……自分の料理を食べてくれる人を思って作ること、かな……」
簡単そうで一番難しく、そして料理の上達には一番大切なことだと、僕は思う。
「食べてくれる人……」
と呟いた恵は、チラッとこちらを見た。
「?」
「……」
僕が見たときには、恵は目を合わせないまま、リビングに行ってしまったのだった。
それから気づけば、夕食の時間。
リビングテーブルには、揚げたての唐揚げと千切りキャベツ、ご飯、味噌汁が並んだ。
唐揚げから香るにんにくの匂いが、鼻孔をくすぐる。
どうしてにんにくの匂いって、こうも食欲のそそるのだろう。
おかげで、さっちからお腹が鳴りっぱなしだ。
「伊織、早く食べよう……」
「あ、ああ、そうだね」
早く食べたそうな恵に促されて手を合わせる。
「「いただきます」」
と言うなり、恵は真っ直ぐ箸を唐揚げに向けた。
「あっ。揚げたてだから気を付け――」
「――熱っ」
すると、案の定、恵は揚げたての唐揚げの熱さに顔を歪めた。
あぁ……言わんこっちゃない。
「ふぅー、ふぅー」
すると、次はさっきの反省を踏まえたのか、唐揚げを少し冷ましてから、ぱくっと口に運んだ。
「美味しい……」
「ならよかったよ。味付けはどうかな?」
「……にんにくが効いてて、ご飯が進む」
そう言って、もぐもぐとご飯を頬張る恵。
リスのように頬を膨らませるその様子を見て、思わず笑みがこぼれる。
あはは。これは作った甲斐があったな。
ちなみに、僕がキッチンで揚げ物用の鍋と油を用意していたら、恵がじーっとこちらを見ていたので、一つだけ揚げてもらったのだけれど、見事に焦げ焦げになったところで交代した。
どうやら、まだ恵には難しかったようだ。
「伊織」
「うん?」
呼ばれて顔を向けると、恵が僕の目を見て言った。
「……今度、私が作ったら、食べてくれる?」
…………ふっ。
「うんっ、楽しみにしてるよ」
僕の返事を聞くと、恵は微笑んで次の唐揚げに箸を伸ばしたのだった。
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