第15話 伊織ちゃん、再び?

 おと先輩の家でたこパをした、次の日の朝。


「んん〜……」


 夢の中で、僕はとても触り心地のいい大きなものに乗られていた。

 

 もちもちで、むにむに……。


 ずっと触れていたい、この感触。


 これは…――マシュマロ?


 けれど、この触り心地を味わう代わりに、一つだけ問題があった。


「ん〜……」


 寝返りをしようにも、体が金縛りにあったように自由に動かないのだ。


 わかることと言えば……重い、でも、どこか柔らかいことだろう。


 ただ……それは、不思議と幸せな重みだった。


「……んん?」


 そして僕がゆっくりと目を開けると、


めぐみ……?」


 なぜか、恵が僕の顔を覗き込んでいた。


 なに、この状況……。


 寝起きの頭を働かせて思考を巡らせる。


 すると、


「……伊織、おはよう」

「ん……おはよう……」


 そうか……さっきのあの柔らかい感触は……恵の――っ!?


 ハッとして慌てて飛び起きた僕は、恵から距離を取るように枕の方に後ずさった。


「め、め、恵……!?」

「……ねぇ、伊織」

「な、なに?」


 すると、恵は僕の逃げ道を塞ぐように、ゆっくりと体を近づけてきた。


 シャツの隙間から覗く魅惑の谷間が、脳を刺激する。


 こ、これは、色々な意味でマズイのでは……。


 それに、よりにもよって、どうして今日のTシャツ、『谷間警報発令!』って書いてあるんだよっ‼


『谷間警報発令!』って……なに?


 初めて聞く単語に頭がついていけない。 


「伊織……。一つ、お願いがあるんだけど」

「……え、お願い?」


 恵は「うん」と言って頷くと、さらに体を近づけてきた。


 顔に関しては、お互いの鼻がくっつきそうなほどの至近距離だった。


 ここまで大胆な行動を起こさせるほどのお願いとは、一体……。


 高鳴る心臓の鼓動を感じながら、返ってくる言葉を待っていると、恵は小さな口を開けた。


「……もう一度、伊藤ちゃんになって」

「…………」


 まぁ、薄々予想していたけれど……やっぱり、それしかないよね……。


 話を聞くと、どうやらもう一度『伊織ちゃん』を見たいとのことらしい。


『伊織ちゃん』のことを恵が異様に気に入っていたのは、昨日のあの光景を見れば、誰でもすぐにわかる。


 だからこそ、僕はここではっきり伝えた。


「伊織ちゃんにはならないよ」

「えっ。どうして?」

「どうしてもこうしても、僕はやらないよ。あれはあのときだけって決めたから」


 僕自身、“あれ”になってと言われれば、迷わずノーと答える。


 恥ずかし過ぎるし、それに……


 ここで、ふと昨日のことが頭の中に浮かんだ。


 ……。

 …………。

 ………………。


「や、止めてください! 先輩のお姉さん!」

「麗奈さんでいいわよ♪」

「れ、麗奈さん……。あの……その手にある物はなんですか?」

「え? なにって、制服と下着だけど――」

「それはわかりますよっ! 僕が聞きたいのは、どうして麗奈さんがそれを持って近づいてくるのかということですっ!」

「ああぁそれはね……ふふふっ」

「えっ――」


 ………………。

 …………。

 ……。


 思い出すだけで、ブルブルッと体が震える。


「と、とりあえず、僕はもう絶対女装しないからっ!」


 と言うと、恵はちょっと寂しそうな表情を浮かべていた。


 しかし、ダメなものはダメなのである。


「伊織ちゃん……」

「ちゃん呼びもダメっ!」


 その後はというと、恵のお願いをダメの一点張りでどうにか振り切ったのだった。




「伊織。本当にだめ……?」

「……ダメなものはダメっ!」


 いつも通り二人で大学に向かっている間も、恵の説得は続いていた。


 すると、


「むぅ……」


 恵は珍しく頬を膨らませていた。


 昨日といい、こういう意外な一面が見れるようになったのは、素直に嬉しく思う。


 もしかしたら、僕が知らない一面がまだまだあるのかもしれない。


 ふとそんなことを考えていると、


「伊織くん、おはよー!」


 後ろの方から先輩が声をかけてきた。


「おはようございます、乙先輩」

「……」


 ぺこり。


「お、おはよう……恵ちゃん」


 先輩は恵に挨拶を返すと、一瞬の間の後、一緒に大学へと向かって歩き出した。のだけれど……


「………………」

「………………」

「………………」


 流石に静か過ぎる……。


 あれ? いつもならもっと会話が弾むはずなのに、今日に関してはそれが全くなかった。


「と、ところで伊織くん」

「……あ、はい、なんですか?」 

「あの……その……実は、わたしから伊織くんに……お願いがあるの!」

「……お願い、ですか……」


 しどろもどろに言ったときの先輩は、どこか落ち着きのない表情をしていた。


 ……嫌な予感がする。


「もしかして、また『伊織ちゃん』を見たいとか、そんなことを言うんじゃ……」

「そうだよっ! よくわかったね」

「は、はぁ、どうも……」


 やっぱり……。


「そ、それで伊織くん。どうかな? なんだったら、写真を撮ってそれをスマホで送ってくれても構わないんだけど……」


「…………」


 じーっ……。


 無言の視線を送るが、先輩の期待の眼差しは変わらないようだ。


 これは、きちんと言っておかないといけないな。


「……先輩」

「うん!」


「却下です!!」

「ええぇぇぇー」




 それからも、二人の説得は大学に入ってから夕方出るまで続いた。


 流石にここまで来ると、断り続けるのにも疲れたのが今の本音だったりする。


 はぁ……。


 どうやら僕の知らないところで、『伊織ちゃん』の需要が高まっているらしい。


 僕の女装になんの需要があるのやら……。


 そんなこんなであっという間に時間も過ぎ、夕食の時間になった。


 のだけれど―……。


「うぅぅーんっ!! やっぱり、伊織くんの料理は美味しいねぇ!」

「そ、それはよかったです……」

 

 なぜ、先輩がうちで夕食を食べているのか。


 それは、先輩が今日の夕食は家で食べたいとお願いしてきたからだ。


 まあこっちとしても断る理由が特になかったので、今一緒に食べているのだけれど。


「伊織、この麻婆豆腐美味しい」


 そう言って、恵は皿に乗った麻婆豆腐をスプーンですくって口に運んだ。


「そ、そっか。なら作った甲斐があったよ……」


 ……おかしい。二人が異様に褒めてくる。


 チラッチラッ。


 先輩が時折こちらの様子を窺うところを見る限り、どうやら考えるまでもないようだ。


「ね、ねぇ、伊織くん」

「……はい?」

「……」


 そして、先輩は顔の前で手を合わせて言った。


「一生のお願いだから、もう一度、『伊織ちゃん』になってくれない?」

「ですからそれは――」

「――伊織、お願い」


 恵は、真っ直ぐな瞳で僕を見た。


「で、でも……」

「いいよね、伊織くん……」

「伊織……」


 二人はスプーンを皿の上に置くと、ゆらゆらとこちらに近づいてきた。


「……って、先輩……それは……」


 先輩の手には、なぜか、この前僕が着せられたワンピースと、メイクポーチがあった。


「えへへへっ。実は今日、お姉ちゃんから借りてきたんだぁ」


「なっ……!!?」


 ちなみに恵の手には、どこから持ってきたのか、一眼レフカメラがあった。


 いつの間に……。


「「ふふふふっ……」」


 ひぃぃぃ!?


 時折聞こえるその声に、僕の直感はすぐその場から逃げろと囁く。


 このままここにいたら、完全に二人に飲み込まれてしまう。


 ど、どうすれば…――


 そんなことを考えている間に、二人は両方から挟む形で僕の逃げ道を塞いだ。


「「ふふふふっ……」」


「あは、あはははは……」


 もうここまで来ると、笑うことしかできない。




「さぁ、一緒に楽しみましょう? ……伊織ちゃん」



「や、やめ……やめてえぇぇぇえぇぇー‼」




 追い込まれた伊織の叫び声が、リビングに響き渡ったのだった。

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