第5話 お見舞いという名の特効薬

「えっ。おと先輩が風邪で大学を休んだって本当なんですか?」

「ええぇ。そうよ」


 朝。大学の教室にやって来た伊織に声をかけた詩織が、乙葉おとはは今日、大学に来ないことを伝えた。


 それから伊織いおりは、詩織しおりに事情を聞いた。


 どうやら昨日、乙葉はお風呂に浸かりながら考え事をしていると、つい眠ってしまい、母親に起こされ気づいた時には、湯船の中で一時間以上眠ってしまっていたらしい。


 その結果、のぼせてしまい風邪を引いてしまったという。


 熱もあるようで、今日は大学を休むと詩織に連絡があったのだ。


「そう……なんですか……」


 詩織の話を聞いて、落ち込んだ表情を浮かべる伊織。


 その様子を見て、詩織はニヤッと不敵な笑みを浮かべた。


「おう? なになに、乙葉がいないと寂しいのかな〜?」


 すると、


「――はい。乙先輩がいないと寂しいです」

「……!」


 伊織の真っ直ぐな瞳に、詩織は思わずたじろいでしまう。


 ふーん……。


 なるほどねぇ。


 眠気がまだ残る朝でも、詩織の頭は冴えわたっていた。


 感謝してよね。乙葉。


「ふふふっ。そんな少年に、私がいいことを教えてあげよー!」

「え?」




 もうすぐ昼の一時を過ぎようとしていた頃、本来なら大学に行っていた筈のわたしは、今、家の二階にある自分の部屋にいた。


 それも、ベッドの上。


「はぁ……」


 肩までかけられた毛布と、おでこに置かれた冷えたタオル。


 部屋の真ん中にあるローテーブルには、水の入った桶が置かれていた。


 これは昨日、お母さんが用意してくれたものだ。


 お母さんは、わたしの事が心配で今日の仕事を休もうとしたけれど、自分はもう大学生だから大丈夫と無理矢理断ったのだった。


 ほんとは……少し寂しいけれど。


 お父さんもお姉ちゃんも仕事でいないし。


 誰かがそばにいないだけで、ここまで寂しくなるものなのか。


 ……それにしても。まさか、お風呂で寝落ちするなんて……。


 それも、最悪なことに風邪を引いて寝込んでしまう始末。


 どうしちゃったのかな……わたし……。


 熱で意識が朦朧とする中、頭に浮かんだのは一人の少年……と少女の姿だった。


 ………………。


「はぁ……」


 わたしがふとため息をこぼしていると、


 ピンポーン。


 ?


 下の階から微かに聞える音。これは……


 ピンポーン。


 なに? もしかして、宅急便?


 これは間違いなく、インターホンの音だ。


 ぼーっとしていたこともあって、うまく聞き取れなかったようだ。


 ふと誰かを呼ぼうとしたけれど、自分以外の家族はみんな仕事で家にはいないことを思い出して、仕方なくベッドから起き上がることにした。


「はいはい……今出ますよー……」


 部屋を出ると、少しフラフラする足取りでどうにか階段を下り、インターホンに付いているモニターを確認した。


 すると、


「あ」


 わたしの口から素っ頓狂な声がこぼれる。


 モニターに映っていた人物。それは――



 ……伊織くん……?



 え? どうして伊織くんがここに……?


「……は、はい」

「あ、あの、おと先輩……乙葉さんの後輩の黒瀬伊織と言います。今日はお見舞いで来たんですけど……って、今の声は」

「あははっ、伊織くん。わたしだよ」

「!! 乙先輩!」


「今、玄関の扉開けるから、ちょっと待ってね」


 わたしは、インターホンを切って玄関に向かった。


 玄関のドアを開ける前に、ボサボサだった髪を整える。


 ………………よし。


 最低限の身だしなみを整え、わたしは玄関のドアを開けた。


「えへへ。お見舞いに来ちゃいました」

「伊織くん……」


 彼に会えたことにホッとしたのか、思わずその場にしゃがみこんでしまう。


「先輩、大丈夫なんですか!? 早く横にならないと……」

「だ、大丈夫だよ……。これくらい……」


 立ち上がろうにも、足にうまく力が入らない。


「先輩……っ!」


 伊織くんは、慌てた顔でこちらに駆け寄って来た。


 ……伊織く……ん……。




「ん……」


 目が覚めると、そこは玄関ではなく自分の部屋の中だった。


 あれ? 伊織くんを家に入れようと玄関の扉を開けて……それから、どうしたっけ?


 すると、


「あ、先輩。目が覚めたんですね」


 ベッドの上で横になっていたわたしに、伊織くんが声をかけてきた。


 夢でもなければ幻でもない。


「伊織くん……。うぅ……」

「!? 先輩、大丈夫ですか!?」

「大丈夫だけど……大丈夫だけど……っ」


 わたしの目からうっすらと涙がこぼれる。


 熱のせいで、心が不安定になっていたのかもしれない。


 伊織くんにお願いして、ローテーブルに置いていたティッシュ箱からティッシュを二枚取ってもらい、涙を拭いた。


 なんとも恥ずかしい姿を見られてしまったものだ。


 これじゃあ、年上のお姉さんキャラを築き上げてきた意味がなくなってしまう。


「…………よっ」

「! だ、ダメですよ! まだ横になっていないと……」


 起き上がろうとするわたしを慌てて止める伊織くん。


「せっかく来てくれたんだから、寝ているのも……って、あれ?」


 わたしは、ふと視線を自分が今着ている服へと向けた。


 なぜなら、さっき自分が着ていた服とは違う服を着ていたからだ。


 最初に着ていたのは、可愛い猫ちゃんの絵がプリントされた白のTシャツだった。それが今は、別の猫ちゃんの絵がプリントされたピンクのTシャツに変わっていたのだ。


 ?


「あ、あの……先輩……」


 名前を呼ばれて顔を向けると、伊織くんが申し訳なさそうな顔でこちらを窺っていた。


「? どうしたの?」


「あの……実はさっき、先輩をこの部屋に運んでいたときに、先輩が『汗をかいたから服を着替えたい』と言っていたので、その……こっちで勝手に服を着替えさせていただきました!!」


「え。それってつまり……」


 もしかして……わたし、気がつかないうちにとんでもないことになってた!?


 だから、着ていたシャツが変わっていたんだ。


 ……って、確か伊織くんは、勝手に着替えさせてもらったって言ってたよね……。


「伊織くん……もしかして……見た……の?」

「!? き、着替えさせてる間はずっと目を瞑っていたので、見てません……!!」

「……ほんとに……?」

「ほ、ほんとです!! 信じてください!!」

「ふーん……」


 伊織くんの目を見る限り、彼の言っていることは本当のようだ。


 顔を真っ赤にしながら、わたしにTシャツを着せている情景が目に浮かぶ。


「……まぁ眠っていたといえ、わたしが言ったのはほんとみたいだし」

「……」

「だから、その……特別に許しますっ!」

「! 先輩……」


 でも。


 ……少しくらいなら、見てもよかったのに……。


 恋する乙女は複雑なのである。


「……あ。そういえば、ここに来る途中のコンビニでポカリとゼリーを買ってきたんですけど」

「え、ほんとに? ありがと……」


 伊織くんは持っていたトートバッグからポカリとゼリーを取り出し、テーブルに並べた。


 わたしはその内のポカリを受け取ると、伊織くんにキャップを開けてもらい、一気に飲んでいく。


「あ、先輩。そんなに一気に飲んだらこぼしちゃいますよ」


 すると。


 案の定、飲んでいたポカリを少しだけ毛布にこぼしてしまった。


「ほら、言った通りだったでしょ?」


 そう言って伊織くんは、ポカリで濡れた部分をティッシュで拭いてくれた。


「……ありがと……」

「どういたしましてっ」




 その後はというと、時折、伊織くんは乾いてしまったタオルを水で濡らしておでこに乗せてくれた。


 ひんやりとしていて、とても気持ちがいい。


 本当なら色々な話をしたかったのだけれど、熱が下がらない以上、それは当分お預けだ。


 はぁ……。


 早く風邪治らないかな……。


 でも、もう少しだけこのままでいるのもよかったりして……。


 とわたしが思いを巡らせていると、


 ぐうぅぅぅぅ。


 突然、お腹から自分の空腹を知らせる音が鳴った。


「………………」


 は、恥ずかしい……。


「あ、あの」

「ひゃっ、ひゃい!?」


 思わず声が裏返ってしまった。


「もしかして、今日はなにも食べてないんですか?」

「う、うん……。あまり食欲がないというか……」

「ダメですよ。ちゃんとご飯を食べないと、すぐに治りませんよ?」

「うっ……」


 確かに、伊織くんの言う通りだ。


 でも、どうしても食欲が湧かないのだ。


 すると、


「僕、これからちょっとスーパーに買い出しに行ってきますね」


 伊織くんは徐に立ち上がり、トートバッグを肩にかけた。


「え。いいよ、そんな。悪いよ」

「なにを言ってるんですか。先輩は病人なんですから、ゆっくり休んでいてください」

「でも……」

「大丈夫ですから」

「あっ、伊織く――」

「――それじゃあ、行ってきます」


 わたしが言い終える前に、伊織くんは買い出しのためにスーパーに向かったのだった。




 それからスーパーで目当ての食材を買ってきた伊織くんは、早速さっそくいえのキッチンで調理を開始した。


 えへへっ♪ 楽しみだなぁ〜♪


 それから数十分後。


 蓋の隙間からグツグツと蒸気が出ている小さな土鍋を乗せたトレーが運ばれてきた。


「すごーいっ!」

「えへへ。やっぱり風邪を引いたときに食べ物と言えばおかゆだと思ったんで、作ってみました」


 そう言って伊織くんは土鍋の蓋を開けると、一緒に持って来た取り皿におかゆを入れた。


 至れり尽くせりとは、まさにこのことだ。


「あの、皿とか勝手に使っちゃったんですけど」

「いいの、いいの。気にしないで」

「ならよかったです。先輩。はいっ、どうぞ」

「ありがとう……」


 伊織くんからおかゆの入った取り皿を受け取る。


 温かい……。


「熱いですから気をつけてくださいね」

「はぁ〜い。いただきま~す」


 あむっ。


「……っ!? 熱っ!」

「大丈夫ですか!?」

「うっ、うん。大丈夫だよ……」


 思った以上の熱さにびっくりして、慌てて伊織くんから貰ったコップの水を飲む。


「……はぁ。先輩。スプーンと皿を貸してください」

「え?」


 わたしは促されるように、伊織くんにスプーンと熱々のおかゆが入った取り皿を渡した。


 ?


「ふぅー、ふぅー」


 !?


 え……えええぇぇぇぇぇっ!!?


 もしかしてもしかすると、このシチュエーションって、風邪を引いた彼女におかゆを食べさせるために彼氏が代わりに「ふぅー、ふぅー」と冷ましてあげるという……あの王道であり、伝説と思っていたあのシチュエーションを、まさか体験できるなんて……。


 つい自分が、今風邪を引いていることを忘れてしまいそうになる。


「…………」

「先輩。はいっ、あーん」

「あ、あーん……」


 ドキッドキッ。


 心臓の鼓動がいつもより強く感じる。


「……美味しい」

「えへへっ」


 おかゆを食べるわたしを見て、満面の笑みを浮かべる伊織くん。


 ああぁ、しあわせ……。


 それから、時折ときおり談笑を交えながら体を休ませていると、あっという間に時間は過ぎていった。


 ふと枕元にある時計を見ると、時間はもう夕方の五時を過ぎようとしていた。


 すると、


 プルルルルッ。


 テーブルの上に置いていたわたしのスマホから着信音が鳴った。


 それを伊織くんに取ってもらい、画面を確認する。


「……あ、お母さんからだ。もしもし」


 電話をかけてきた相手はお母さんだった。


 どうやら仕事を早く終えて、帰ってくるらしい。


 最寄り駅から出たところで電話をしてきたようなので、十分もしないうちに家に着くだろう。


 その後。


 会話を終えて電話を切り、伊織くんを見る。


「もうすぐ、お母さんが帰ってくるみたい」

「そうですか。なら僕は、そろそろ帰ります」


 そう言って、スーパーに買い出しに行ったときと同じように、立ち上がってトートバッグを肩にかけた。


「え。せっかく来てくれたんだから、晩ご飯でも食べていけば――」




「――恵がお腹を空かせて待ってるんで」




「あ……。そう……だよね……」


 返す言葉は、これが精一杯だった。


 伊織くんの言葉を聞いて、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。


 それはそうだよね……。


 だって、伊織くんと恵ちゃんは一緒の部屋で暮らしていて、料理の担当は彼なのだから……。


「……伊織くん、今日は来てくれてありがとう……。とっても嬉しかった」

「先輩、早く元気になってくださいね」


 そう言い残して、伊織くんは帰っていった。


 ………………。


 風邪を治すために眠らなければいけなくても、今日の夜は、なぜか眠れそうになかった。

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