第4話 いつものようにバイトをしていたら……

「恵……」

「ダメだよ……こんなところで……」


 誰もいない教室。窓にもたれながら、伊織は恵を後ろから抱きしめていた。


 空からの眩しい光が、重なる二人の影を映し出す。


「伊織……」

「大丈夫、優しくするから……」


 優しい声が、恵の耳に響く。


 不意打ちの声と耳にかかった吐息に、恵の鼓動は高鳴る。


 頬は赤く染まり、燃えるように熱い。


 伊織の手がゆっくり恵の身体を撫でていく。


「んんっ……。あっ……」


 そして…――




 ――――――――――。




「ッ!!? はぁっ、はぁっ、はぁっ……」


 わたしは慌てて飛び起きた。


 それから呼吸が少し落ち着いたところで、今の状況を確認する。


 見慣れたベッド、机、クローゼット。


 間違いない。わたしの部屋だ。


「はぁ……。夢でよかった……」


 だがここで、抱き合う伊織くんと恵ちゃんの光景が頭に浮かんだ。


 誰もいない教室であんな……。


 思い出すだけで、夢の中の恵ちゃんと同じように顔が赤くなる。


 ドキッドキッ。


 胸に手を置くと、心臓の高鳴る鼓動を感じた。


 ………………。


 それにしても、どうしてあんな夢を…――


『~~~♪』


 すると、枕元に置いていたスマホの目覚ましのアラームが鳴った。


 標準アラームが部屋中に響き渡る。


「………………」


 わたしは、少し不機嫌な顔でスマホのアラームを止めて再びベッドに寝転がり、ぼーっとスマホの画面を見つめる。


 今の時刻は朝の九時。


 バイトは十時から始まるから、起きるには丁度いい時間だ。

 

 いつもなら寝惚ねぼまなこでいるか二度寝をしてしまうところだけれど、今の夢で完全に目が覚めてしまった。


「うぅ~……」


 悔しさ以上に、まさかあんな夢を見てしまった自分に無性に腹が立つ。


 もう一度寝直そうかと考えたけれど、今日はバイトがあるため仕方なく起きることにした。


 はぁ……。


 わたしは被っていた毛布を足元に寄せ、ベッドから下りて部屋を出た。




 浴室でシャワーを浴び終え、濡れた髪をささっとドライヤーで乾かす。


 それから、出かける用の服に着替えて、わたしはリビングに向かった。


 わたしのうちは、両親と姉とわたしの四人家族。


 両親は共働きで、姉は大学一回生の時にタレント事務所にスカウトされて、モデルとして活動している。


 まぁ、あの恵まれたルックスなら、スカウトされるのも頷ける。


 その姉は、今日は仕事のためか、家にはいない。


 と思いながらリビングテーブルを見ると、母親が用意した朝食用のサンドイッチが乗った皿が置かれていた。


 実家暮らしのメリットがここにある。


 自分で作らなくても出てくる三食の食事に、いつもきれいに洗って畳まれている服の数々。


 伊織くんに一人……いや、二人暮らしをしている時の話を聞いていたので、改めて母親には頭が上がらない。


 いつかのために、花嫁修行を始めないとな……。


 まずは、カップラーメンが得意料理という自慢を払拭しなければならない。


 日々精進ひびしょうじんあるのみ。


 よぉ〜し! 頑張るぞ〜!


 と心の中で叫ぶものの、中々始められないのだった。


 まずは三日坊主解消、ってね。


 そんなことを考えながら、コップに牛乳を入れ、皿に被せてあるラップを取る。


「いただきます」


 そして、感謝の気持ちを込めて、手を合わせたのだった。




 わたしがバイトをしているお店は、家の近くにある喫茶店『喫茶ヒマワリ』だ。


 元々、お店の店長である初老のマスターが、一人でやっていた。


 白髭と、白髪のオールバックが似合うダンディーな人で、自分のことを年老いた爺さんと言っていたけれど、常連の女性客のほとんどが、実はマスター目当てだったりするほどの人気ぶりだった。


 それもそのはず、マスターは、時々お客さんから悩み相談を受けたりする。


 人生経験豊富なマスターの言葉に救われた人は、数えきれないほど。


 まぁ、わたしもその内の一人だったりする。


 主に恋愛面についてだけど。


 その時、入り口のドアに付いているベルがカランカランと鳴った。


 どうやら、お客さんが来たようだ。


「いらっしゃいませっ♪」


 満点の笑顔でお客さんを迎え入れる。


 今日は日曜日ということもあって、いつもよりお客さんの数が多かった。


 いつも見慣れた風景ではあるけれど、わたしがこのお店で働き始める一年前までは、一人で切り盛りをしていたと思うと、凄いとしか言いようがない。


 そんなことを考えていると、またベルからカランカランと音が鳴った。


「いらっしゃいませっ♪」

「あっ、おとはおねえちゃんだぁー♪」


 お店のドアを押し開けて入って来たのは、この喫茶店の近くに住んでいる幼稚園児の鈴ちゃんと、その子のお母さんだ。


「鈴ちゃん、いらっしゃい♪」

「乙葉ちゃん、今日も元気いっぱいね」

「それだけが取り柄ですから」


 鈴ちゃんのお母さんは、元々この喫茶店の常連で、学生の頃から通っていたらしい。


 すると、


「ねーねー、おねえちゃんっ!」


 鈴ちゃんが、わたしが着ているエプロンの裾を引っ張ってきたので、彼女と同じ目線になるようにしゃがんだ。


「なーに?」

「あのね、きょうはおねえちゃんにプレゼントがあるの! これっ!」


 そう言って鈴ちゃんが渡してきたのは、ハートの形をした折り紙だった。


「えへへっ。きょうようちえんでつくったんだよ♪」

「へぇー、上手に出来てるね。でも、ほんとにわたしが貰っていいの?」

「うんっ! ようちえんのせんせいが、それをもっておねがいをすると、こいがかなうっていってたの!」

「えっ!?」


 わたしは、鈴ちゃんの言葉に驚いた。


 こい……恋が叶う?


「ママがいってんだぁ。おねえちゃんがこいをしてるって♪」

「こらっ! それは内緒って言ったでしょ! ごめんなさいね、つい口を滑らせちゃって」

「い、いえ……」


 実は恋愛の先輩として、鈴ちゃんのお母さんに相談したことがあった。


 どうりで鈴ちゃんが知っていたわけだ。


「………………」


 わたしの恋が叶うように、作ってくれたんだ……。


「ありがとう。これ、大切にするね」

「うんっ♪ こい、かなうといいねっ!」

「……そうだね」


 その後、二人をテーブル席に案内してから、さっき鈴ちゃんから貰ったハート型の折り紙に視線を落とす。


「………………」


 なんだろう。これを持っていると、不思議と力が湧いてくる。


 ……………よぉ~し!


 お守りに見立てたそれを、ぎゅっと両方の指で握ると、祈るように呟いた。


「どうか、どうか、伊織くんと結ばれ――」


 その時、


 カランカラン。


 ベルの音と共に、ドアが開いた。


「あ、いらっしゃいま――」




「――あ、先輩」




 そこにいたのは――


 …――っ!!? い、伊織くん!?


 幻を見ているかのような錯覚に陥りそうになる。


 でも、間違いない。


 伊織くんだ……!


「ど、どうして伊織くんがここに……あ」


 わたしの目は、伊織くんの後ろの方へと向けられた。


 め、恵ちゃん……。


 そう。伊織くんは一人ではなく、恵ちゃんと一緒にやって来たのだ。


 ………………。


「しー先輩から聞いたんです。ここで先輩がアルバイトをしてるって。興味があるなら、二人で行ってみたらって言われたので来てみたんです」

「あ……なるほど、そういうことだったんだね。どうりで、一緒にいるわけだ……」


 ちなみに『しー先輩』とは、名前の通りしーちゃんのことである。


 そんなことよりも、今は…――


 ………………しーちゃんめぇ!!


 どうして伊織くんだけじゃなく、恵ちゃんにも言ったの……っ!!


 ここにはいない親友に思いをぶつける、わたしであった。


 ………………。

 …………。

 ……。


「へっくしゅ! ……んん?」


 ……。

 …………。

 ………………。


「いらっしゃいませ」


 コーヒーを淹れていたマスターが、伊織くんに声をかけた。


「二人は、乙葉ちゃんの知り合いかい?」

「はい。同じ大学の後輩です」

「ほぉほぉー」


 マスターは伊織くんの説明を聞くと、


「そうかい、せっかく来てくれたんだ。ゆっくりしていってくれ」


 と言ってマスターはコーヒーに視線を戻して、


「乙葉ちゃん。二人をテーブル席に案内してちょうだい」


 カップにコーヒーを注ぎながらマスターが言う。


「!? に、二名様ですね。こちらにどうぞー!」


 わたしは、自分がバイトの途中だということを思い出して、慌てて伊織くんと恵ちゃんを席まで案内した。


「ご注文は、い、いかがなさいますか?」


 落ち着け……落ち着くんだわたし……。

 

「先輩、注文いいですか?」

「は、はいっ‼︎」

「? 僕は、特製ミートソースパスタをお願いします。恵は?」

「伊織と同じものでいい」

「じゃあ、さっき注文したものを二つお願いします。……先輩?」

「……はっ。か、かしこまりました!!」


 乙葉は、二人の様子がカップルのデートのように見えてしまい、急いでカウンターに戻った。


 それからというもの、他のお客さんのコップに水を注ぎながら、時折、チラッと二人の様子を眺めていた。


 うぅ~……伊織くん……。


 そんな時間がしばらく続いていると、


「おぉーい、乙葉ちゃーん」

「あっ。は、はい!」


 二人が注文したミートソースパスタができたので、二人の元に運んだ。


「お、お待たせしました」


 そう言ってわたしは、パスタの乗った皿をテーブルに並べた。


 マスターの特製ミートソースが乗ったパスタからは、食欲をそそるいい香りがしていて、ついお腹が鳴ってしまいそうになる。


 後は、パスタを注文したら一緒に付いてくるアイスティーも一緒に並べた。


「ありがとうございます。先輩」

「いえいえ……。どうぞ、ごゆっくり……」


 どうにか強張っている表情がバレないように誤魔化しながら、テーブルを離れた。


 うぅ~……。


 それから再び、お水のおかわりがいらないか聞いて回っている間も、二人の様子は常に視界に捉えていた。


 だが。


「伊織、口にソースが付いてる」


 と言うなり恵ちゃんは、紙ナプキンで伊織くんの口元をぬぐった。


「拭いたよ」

「あ、ありがとう……」


 ムキぃぃぃ!!


 傍から見れば、なんとも微笑ましい光景だろうと思うだろうが、わたしは全くそうは思わなかった。


「ぐぬぬぬぬーっ」

「乙葉ちゃん。他のお客さんがいるからほどほどにね」


 すると、カウンター席のお客さんと会話をしていたマスターが、笑いながら言った。


 ………………。


 わたしは、「ふんっ」と拗ねた子供のように顔を逸らしたのだった。




 その日の夜。


「はぁ~……」


 わたしは湯船に浸かりながら、今日のことを振り返っていた。


 ………………。


 喫茶店での伊織くんと恵ちゃんの仲睦まじい姿に、思わず嫉妬してしまう自分がいた。


 それは、バイトが終わって家に帰るまで……いや、今も続いていた。


 お風呂に入れば、このモヤモヤした気持ちを少しでも落ち着かせることが出来ると思っていたけれど、どうやらそれは違っていたらしい。


 ……うぅ〜……。


 悔しさの余り、わたしは、ゆっくりと湯船に顔を埋めていき……




 その結果、思いっきりのぼせてしまったのだった。

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