【辞めるための交渉】【労働基準監督署】
【辞めるための交渉】
9月。
所長に「ダメー」と言われたからと言って、「そうですか、じゃあ辞めるのやめまーす」とはならない。
後日、時間を取ってもらって退職の話を切り出した。
ところで。
仕事を辞める際、何ヶ月前に言えばいいと思われるだろうか。
法的には二週間前に伝えればいいそうだが、さすがにそれは急すぎる。迷惑甚だしい。わたしはすぐにでも辞めたかったが、退職日は3ヶ月後にした。まぁまぁ常識的な設定だろう。今は9月なので、11月の末までに辞めさせてくれ、と言ったのだ。
それに対して、所長の返事はこうだった。
「3ヶ月は……、急やな……」
急だった。え、急か?
3ヶ月余裕を持ったのに急扱いされ、わたしは戸惑う。その間に、所長は重々しく口を開く。
「3ヶ月やったらちょっとキツいやろ……、そうやな、せめて……。1月の末までは居て欲しいんだが」
まさかの5ヶ月。5ヶ月ってあなた……。
さすがにそれは間が空きすぎではないか……? とは思うものの、実は時期が悪かった。
前にも書いたが、この仕事は12月、年末はバカみたいに忙しい。『お祭り』『年末』だ。「みんな疲労と睡眠不足でわけわからんくなり、ハイになる」あの『お祭り』だ。
『お祭り』は1ヶ月の間、入念な準備をしなくてはならない。残業は増え、休憩時間は減る。そして、本番は7連勤(去年はカレンダーの都合で8連勤だった)。人によっては朝5時に出社する。新人さんは4時台に出社していた。わたしは去年、出社時間は8日間ほとんど6時台、退社時間はすべて22時23時だった。
わたしが11月末に辞めると、引継ぎを終えたすぐに年末の準備をしなくてはならない。非常に慌ただしい。所長はそれを避けたかったのだろう。
しかし、わたしはその『お祭り』を避けたい。
冗談ではない。なぜ、手当ても残業代も出ないのにアホみたいに働かなくてはいけないのだ。歩合だって辞めるのなら関係がない。完全に働き損だ。無料7連勤だ。
なので、年末を避けるために今のうちに辞めておきたい。3ヶ月後に辞めるとは言ったものの、それより早くに辞めることは大歓迎だ、という旨も伝えた。何なら今辞めたい。普通なら引継ぎはせいぜい1ヶ月、川崎さんは2週間で済ました。1週間で終えた人もいたらしい。本来、3ヶ月も必要ではない。それでも気を遣って3ヶ月と言ったら、まさかの5ヶ月と返って来たわけだ。
けれど、所長は結局良い顔をせずに、その日の話し合いは終わった。
そして、翌日、朝の準備中に所長にこう言われる。
「やっぱり3ヶ月で辞めるのは無責任やと思うぞ……、辞めるなら年末をしっかりやって、そのあとにゆっくり引継ぎをした方がお互いのためちゃうかな……」
だからその年末をするのが嫌なんだって!
去年は12月だけで199時間の残業をしている。完全にオーバーキルだ。さすがに今回はそこまでいかないだろうが、7連勤は確定だ。残業だって増える。なのに給料は変わらない。お互いのため、とは言うけれど、わたしは今すぐにでも辞めたいのだから、メリットはひとつもない。
わたしに得るものがない、一方的な交渉だ! いや、自分の要求を押し付けるだけであって、交渉とすら呼べない。ひどい話だ!
……ただ。
所長に、「そうすれば、みんなだってそこまでしんどくならんやろ」と言われてしまうと弱かった。
確かに1月は比較的暇だ。引継ぎをするのには丁度良い。11月に引継ぎとなると、年末進行と引継ぎが重なってかなり忙しない。望まれないのはわかっていた。
しかしそれは、会社側の都合だ。引継ぎ相手をもっと早く回してくれれば済む話だ。3ヶ月の猶予があってそれができないのは会社の責任であるし、そのしわ寄せをわたしに擦り付けるのはおかしい。わたしに非はない。恨むなら会社を恨め。
そう切り捨てるのは容易い。
けれど、社長に対しては純然たる殺意を持っているわたしでも、同じ営業所の人たちにはそうではない。感謝していることも多かった。こんなヘビーな環境でも持ち堪えていたのは、人間関係が良かったからだ。
かける迷惑が少なくなるのなら、その方が確かに良い。
1日考えてくれ、と言われた。その日はぐるぐると色んなことを考えた。辞めたい。でも迷惑が。年末は行きたくない。でも。でも。やっぱり嫌だ。
だが、この1日、というのが実に上手い。「5ヶ月残って! ネ!」という話を聞いたとき、わたしは反射的に「じょ、冗談じゃねー!」と物凄く拒否感があった。絶対にノウ。しかし、そのあと「そうした方がみんなも助かる」と別アプローチを掛けられ、さらに1日漬け込まれた。
うーん、うーん、と悩んでいるうちに、ゆっくりゆっくりと覚悟を決めてしまったのだ。いや、諦めかもしれない。どちらでもいいけれど。
最終的に、わたしは所長の条件を呑むことにした。
……しかし、どうも所長的には「言ってみただけ」という感じだったらしい。その日の終わり、「11月末に辞めるんだよな?」と言われ、「あぁ、いいですよ。1月末で」と返したときのリアクションが、
「!? ホントだな!? 本当に11月末じゃなくて1月末でいいんだな!?」
「後からやっぱり『11月末にします~』とかなしやで!? 取り消すのだけは本当にやめてくれよ!?」
「それが一番困るからな! 1月末でええんやな? ええんやな!? ぬか喜びさせないでくれよ!?」
と、怒涛のラッシュだった。「あ、これダメ元で言っただけだ。ぜんぜん期待してなかったやつだ」とわかったときにはもう遅い。言葉は取り消せない。
自分の意見を押し通せば良かったかな……、とは思ったものの、年末を懸念していたのも事実だ。喜んでもらえたならいいだろう……、と自分を納得させることにした。
予定外の延長戦に入りつつも、とにかく退職の意は告げた。残り5ヶ月。……いや、正直3ヶ月後の退職でも「まだ3ヶ月もあるのかよぉ!?」と思っていたくらいなので、5ヶ月はそれなりにヘビィなのだが。
とにかく、辞めることは決まった。抜け出せることは確定した。それだけでも喜ぶべきだろう。
さて。
来たる9月。
川崎さんと滝野さんが退職し、わたしも5ヶ月後に退職が決まった。
この5ヶ月でやるべきことをやらないといけない。最後のひとりになったわたしが、この話に決着をつけなければならない。
この時点で、この会社の話を文章にすることは決めていた。意図したわけではなく、既に出来上がっている起承転結に腹を立てたものだ。ブラック企業に入ってしまう『起』、仲間を集めて労基に訴える『承』、しかし、労基に対して会社が抵抗する『転』。
残るは『結』。
話のオチは、つけなければなるまい。
【労働基準監督署】
9月に入ってからは大変だった。
滝野さんが退職し、愚痴を言い合う仲間がいない寂しさもあったが、増えた仕事に忙殺されていた。滝野さんの仕事を引継いだからだ。全員が以前よりも早く出社、出発をする。中には6時前出社が当たり前の社員もいた。一度、その人から6時半に電話が掛かってきたのをよく覚えている。別に緊急でも何でもなく、「油揚げ、在庫あるならもらってもいいですか?」と言った内容だった。メールだって6時に普通に送られてくる。6時は既に仕事の時間なのだ。
増えた仕事に四苦八苦していると、リタイアした滝野さんと川崎さんからのほほんとしたLINEが届き、ぐぬぬ、と羨ましくなったものだった。
わたしが退職することは周知されていたが、引継ぎ作業どころではない。今は滝野さんの仕事に慣れるのを優先し、『年末』の準備を進めていく。引継ぎは徐々にするしかない。
そして、労基の件。労働環境改善と残業代未払いの件。
社長と労基との決着を見たい。会社から離れる前に、何かしらの結果を見届けたいという思いがあった。
既に9月。労基に申告してから5ヶ月。労基が会社に接触して4ヶ月。多少波風は立てたものの、結局社長は絶好調に吠え続けている。わたしたちはボロボロの身体を引きずり働く。労基が介入してからも、どんどん仕事は増えていた。少しは社長を黙らせないと気が済まない。
さて。
現状、肝心の労基は何をしているかというと。
3ヶ月間、労働環境改善を行い、報告書を提出……、という話だったのだが、まずは就業規則を作りなおせ、と要求したらしい。前回できたトンデモ就業規則はボツになった。ちゃんとした就業規則をよこせ、と言っている。
つまり、今は新しい就業規則が提出されるのを待っている状態だ。
報告も何もない。そもそも、労働環境改善の段階まで進んでいない。結局いつもの展開だ。また就業規則を出せ、と言っている。再放送どころか巻き戻し。
新・就業規則の提出日は設けてある。
提出日になった。
どうなったか?
もう皆さんおわかりだろう。『期限を過ぎても持ってこなかった』。この展開もう見た。
当初の提出日は8月だったが、恒例の言い訳である「もうすぐでできるから待ってほしい」「今ちょっと社長が多忙で……」と先延ばしにし、時には総務部長が直接労基に行って「まだできていないんですよー」と言いに行く。そんなことを繰り返し、粘りに粘って先送りにした。
やり方は今までと同じだが、結局これで提出せずに済んでいる。彼らもこれが有効だとわかっているのだろう。
田上監督官は「普通、指導対象になってからこんなに時間が掛かることってほとんどないんですけどね……」とげんなりしていたが、げんなりしたいのはこちらも同じだ。話が全く進んでない。進む気配がない。いつオチに辿り着けるのか。
しかし、どれだけ喚いても労基に強制執行権はない。「今作ってるやん! 待ってよ!」と怒られたら、「あ、はい」としか返せない。これ以上の行動を起こすのなら、もう逮捕しかないと言っていた。『お願い』の次が『逮捕』しかない、って極端すぎやしないか。もっと刻んでくれ。
というかもう逮捕してくれよ……、と思いつつ、話が動くのを待つことしかなかった。
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