【心が折れるそのときは】
【心が折れるそのときは】
話は少し前後してしまうが。
滝野さんの退職が決定した8月ごろ。いつも通り7時過ぎに出社して、せっせと朝の準備をしているときだ。ふと思った。
「あぁ、もう辞めよう。それを伝えよう」
特になにかきっかけがあったわけではない。ずっと辞めたかったは辞めたかったが、なかなか言い出せなかった。機が来たら。そう思いながら仕事をしていたのだが、決意したのが何てことはないいつもの朝の準備、というのは自分でも意外だった。
折れるときは強い衝撃のときばかりではない。押し潰されるようにゆっくりと折れることもある。そういうことだったんだと思う。
実際、このとき既に心身ともに限界を超えていた。身体へのダメージが凄まじかったのだ。
この頃のわたしの平均睡眠時間は4時間から4時間半。残業が100時間超えるほど働いているのに、その程度の睡眠時間で走り続けていた。身体も悲鳴を上げる。いつも、頭の中は泥が詰まったかのようにどんよりしていた。身体は重い。全身はガチガチに凝り固まっていた。頻繁に頭が痛くなるので、痛みや熱を感じたらすぐにロキソニンをぶっこむ。昼は必ず栄養ドリンクを一本。朝がしんどいときは、そのときも一本。疲労がどうしても取れないときは、滋養強壮効果のあるドリンクを寝る前にもう一本。栄養ドリンクとロキソニンに生かされた身体だった。
起きている時間が長いから、朝昼晩の食事はもちろん、間食もする。そのうえ、夜ご飯を食べるのは22時以降だからぶくぶく太る。今の体重より10kg以上太っていた。背中と腹の肉が凄かったです。当時、「痩せなきゃなあ」という思いはあったが、「こんだけ働いてるのに、食べるものまで我慢したらストレスで爆発する」という気持ちに容易く潰されていた。結果太り続ける。
この会社は、忙しくて食事を取らずに痩せるタイプと、わたしのように太るタイプがいる。滝野さんは前者だ。仕事を終わったあとに食事を取る気力が湧かず、ろくに食べない。朝食べない昼食べない夜食べない。よくそう言っていた。
同じ営業所の人で、入社から10kg以上痩せた先輩もいる。「豆腐ダイエットのおかげやわ」と言っていたが、やつれているだけだ。豆腐関係ない。だれだってメシも食わずに働いていれば痩せる。社畜ダイエットだ。
しかし、確かにこの仕事は忙しいが、さすがに睡眠時間が4時間は短い。短すぎる。これは単に、わたしに問題があった。
この頃は22時、早いと21時半くらいに帰れることもあった。起床時間は6時半。さっさと眠れば睡眠時間は確保できただろう。しかし、そうはしなかった。やりたくなかったのだ。
帰宅後の生活はこうだ。本を読みながら風呂に入り、テレビをゆっくり見ながら食事をし、そのあとは漫画やパソコンを眺める。友達とスカイプで話すことも多かった。夜遅くまで起きていて、寝るのは2時かそれ以降。そして、6時半にのっそり起きる。その結果がこの睡眠時間だ。
愚かだと思うだろうか。忙しいからさっさと寝ろ、と思われるだろうか。
けれど、違う。違うのだ。ここまで起きているのは、忙しいからにほかならない。あまりに忙しくて忙しくてストレスが溜まり、寝ることより遊ぶことを優先してしまうのだ。
もし、帰宅してから必要最低限のことをこなし、さっさと眠れば身体は楽だ。6時間7時間は眠れる。けれど、そうなればその日はもう仕事だけだ。仕事だけ、仕事しかない一日になる。……それに耐えられないのだ。
マジで耐えられん。死ぬ。死んでしまう。心がイカれて狂って死ぬ。死ぬのは嫌だ、だから遊ぶ。
キツすぎる仕事だけをこなし、毎日を過ごす。仕事だけの毎日。それでは頭がイカれてしまう。気が狂ってしまう。ストレスを溜めすぎてしまわぬよう、自分の時間を作って毎日少しずつガス抜きをしている。22時に帰ってきても、就寝時間を2時にすれば4時間は作れる。内の何割かは自分のために使える。そうすることによって、わたしは自分の心を守っていた。睡眠時間を削ってストレスを発散していたわけだ。
結局のところ、どちらにするか、という話なのだ。
身体を気遣って、心を壊すか。
心を守って、身体を壊すかの二者択一。わたしは後者を選んだだけという話。
忙しい人ほどよく遊ぶ。
そうでなきゃやってられないからだ。
同じように多忙で、わたしと全く同じ考えの人がいたのをよく覚えている。その人は海外ドラマにハマっていた。仕事から帰ってきて、深夜まで海外ドラマを観る。早く眠れば身体は休まるだろうが、そうすれば精神が先にぶっ壊れる。だから観る。途中で寝落ちすることも多かったらしいが、それはわたしも同じだった。晩御飯を食べたあと、そのまま意識が飛ぶことはよくあった。脳がスイッチを切っていたのかもしれない。
そうやって途中で力尽きるのはどうしようもないが、わたしたちは眠ることに恐怖を覚えていた節がある。眠りたくない。一日を終えたくない。そういう気持ちがあった。
眠ってしまえば、その日が終わる。次の瞬間に朝がくる。そうなれば仕事だ。またあの辛く長い一日が始まってしまう。それが、わたしたちにとって恐怖なのだ。
眠らなければ、朝は来ない。
起きていれば、仕事に行かなくてもいい。
そんなギリギリの状態で仕事をしていたが、ここでギブアップだ。もう限界、と白旗を上げた。
滝野さんと「俺もう辞めるって言いますわー」「あぁ、そうせいそうせい」なんて会話をしながら、それを上司に伝えるタイミングを計っていた。
しかし、それが難しい。タイミングとしてはかなり厳しい。川崎さんが抜けて土曜日出勤の社員が数名に加え、滝野さんの仕事は全員が引っかぶる。ふたりの穴が埋まっていない。既にカツカツなこの状況で、だれかが抜ける余裕などありはしない。
とはいえ、「辞めたい」と口にしなければ辞められないのも確かだった。
そんな思いを抱えながらの8月。
ビッグニュースである。なんと、待望の新入社員が入社したのだ。
全営業所で人手不足が嘆かれ、ずっと人を入れろ入れろと言われていたが、ついに!
正確な数字を出すのは難しいが、わたしが入社してから10人近くは辞めている。元の販売員数は40人。そこからごっそり10人も消えたら、そりゃ忙しいのも当然である。幹部が全員現場に戻されても、まだぜんぜん足りなかった。
わたしが11月に入社し、ようやく人が入ったのが8月。およそ9ヶ月もの間、人は減り続ける一方だったわけだ。とんでもねえ。
さて。
ウン十万の広告費を使い、求人サイトや求人誌に広告を載せ、ひと月で30人もの応募者を落とし、ようやく来てくれた新入社員。
どんな歴戦の猛者かと思えば――、50歳にもなるおばちゃんだった。
う、うーん?
不安になるのも仕方がないだろう。何せ、この仕事は体力勝負だ。クソ激務だ。冬は空が暗いうちに出社し、帰ってくるのも暗い夜。16時間働いて睡眠不足でも、翌日にはぶぅんと車を飛ばす。
この人は大丈夫なんだろうか。不安に思って見ていたけれど、意外にも元気に働いていた。笑顔が素敵な人で、冗談もわかる話しやすい人だった。すぐ職場にも溶け込んでいたし、そういう点ではこの仕事は合っていたんだろう。
ただまぁ、体力はやはりなかったようで、居眠り運転で事故を起こしてはいたのだけれど。
閑話休題。
そのおばちゃんが入社し、うちの営業所にやってきた。ようやく川崎さんの穴が埋まり、晴れて13連勤組は解散となる。
わたしはこのとき、少し前のことを思い出していた。19時間の寝坊で無断欠勤をした●●先輩だ。
あのとき、わたしはどさくさに紛れて辞められないだろうか、と考えていた。もし●●先輩が本当にバックレていて、土曜日出勤をさせられそうになったら、その場で退職願を叩きつける。そうしたかった。しかし、もし本当にそうなったとしても、実際には動けなかっただろう。戸惑っているうちにチャンスを逃していたと思う。辞められず、ずるずると地獄に引きずり込まれていた。
「幸運の女神は前髪しかない」という言葉を思い出した。そうだ。チャンスは決して見逃してはいけない。ここだ! と思ったときにいかなければチャンスは逃げていく。
そう。例えば、今。今だ。今がそうなのだ!
新入社員が入った。川崎さんの穴は埋まった。ならば、ここから離れるのは今しかない……!
新入社員が帰り、ほかの社員も帰る中、わたしは営業所に残り続けた。
所長と滝野さんは退職の件で話があったらしく、営業所に残っていた。その話が終わるのをわたしは待った。
時刻は22時半ば。
滝野さんとの話し合いが終わり、帰ろうとしている所長を捕まえ、わたしは言った。このチャンスを逃してはならない!
「新入社員の方が入ったので、その人に僕の引継ぎをしてもらって、僕を辞めさせてください」
「え。ダメだけど」
ダメだった。
ダメだった。
「あの人は土曜日出勤の人を救うための補填であって、お前の引継ぎをさせる余裕はないんや……」
ぜんぜんチャンスじゃなかった。ただわたしの心証を悪くしただけだった。「こんな帰り際にそんなこと言わないでくれ……」とげんなりとした顔で所長は言い、ふらふらと帰って行く。これ所長の立場からするとホンマ最悪やな。
そのあと滝野さんと「ダメでした……」なんて話をして、23時前に退社した。
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