【6月】【死角からの一撃】

【6月】


 6月。


 現状、労基の要求は「早く就業規則を作りなさい」というもの。



 それに対し、「はいはい、もう少し待ってくださいね。今作ってますからね」と躱す会社。



 そんなことを繰り返すせいで、よもやこのまま完成しないのでは……、とわたしたちが不安になる中。



 6月の中旬、ようやく就業規則が出来上がった。



 申告から二ヶ月後のことだった。



「できたから労基に持っていくね」と連絡が入ったそうだ。労基の田上さんからそう電話をもらった。



 ようやく。本当にようやく、だ。5月の時点で既に発狂しかかっていたけれど、これでようやくこの状況から解放される。改善に向かう。



 社長が労働基準法に屈する。それを川崎さんといっしょに見られなかったのは残念だったが、まぁ仕方がない。そんなことを考えながら仕事をしていたら、会社携帯に電話が掛かってきた。



 社長からである。



 社長から直々の電話だ。とても珍しい。



 いやまぁ本当にごく稀であるが、平社員にも電話を掛けてくることはある。100%説教と罵声なのだが。



「お前昨日、豆腐めっちゃ残してきたな! ふざけんなよ! 今日は完売するまで帰ってくんなッ!」



「おい昨日、なんであんなに客減ったんや。言うてみろ。言い訳すんなっ! 普段からちゃんとしてたら客数は増えていくもんやろうが。今日は売上が先週超えるまで帰ってくんなよ、わかっとるな!」



 大体こんな感じだ。その電話効果あんの?



 ただ、今回の電話の内容はわからない。今は労基から「お前ええ加減にせぇよ」と注意されている最中だ。パワハラでも既にお叱りを受けている。ならば、今までのような罵声ではないだろう。しかし、それ以外にわたしへ電話を掛ける理由がない。



 なぜ、社長がわたしに電話を掛けてくる……?



 バレた、のだろうか。



 わたしが労基に申告したことが社長にバレていて、そのことを問い詰められるのだろうか。それくらいしか心当たりがない。



 手に汗を握りながら、社長からの電話に出る。



「おいお前! 最近売上が下がってきてんのはわかっとんな! 自分でもわかっとるやろ! 今日はしっかり売れよ! 先週超えるまで帰ってくんなよ! わかったな!」



 ……いつも通りだった。



 バレていないのは安心したが、ならばこの電話は一体なんだ。いつもの帰ってくんな電話。しかし、これは労基的にはNGだろう。「売上を達成するまで帰ってくるな」なんてパワハラの手本みたいな言葉だ。


 社長はいつもと変わらず怒鳴り散らしている。


 そう、いつも通り。


 労基と対峙しているにも関わらず。


 まるで、労基のことを完全に無視しているようで。


 嫌な予感がした。


 ……その予感は的中する。


「就業規則を持ってくる」と約束した当日、現れたのは社長ではなく、総務部の部長だった。その手には何も持っていない。そして、部長が足を運んだ理由はひとつ。


「実はまだ、就業規則はできていない。でも作ってはいる。だから、もう少し待ってはもらえないだろうか」


 と言いにきただけというのだ。


 できたから持っていくって言うたやんけ。何が、実は、だ。ひとりどんでん返ししてんじゃねーよ。


 もううんざりだ。


 どれだけ同じやり取りを続ける気なのだ。勘弁してくれ。本当に勘弁してくれ。


 このときの力の抜けようと言ったらなかった。申告から2ヶ月、手紙が届いてから1ヶ月、結局状況は何ら変わっていない。変わる気配もない。



 会社の労働環境を改善するどころか、社長の気持ちも変わっていなかった。労基から目を付けられていようと何だろうと、社員にはガンガン圧力はかける。就業規則は作らない。労基は基本的に無視。やりたい放題だ。



 結局のところ、社長は労基を歯牙にもかけていないのだ。意識していない。適当にあしらっとけ、くらいに思っているのかもしれない。



 しかし、そこまで社長がナメた態度を取っていても、「今やってるから待っててー」と言われれば、やはり労基は従うしかない。言うことを聞くしかない。


 あぁ。ここから話が動くのはいつになるのか。


 けれど、わたしが再放送にげんなりしている間に、会社にはひとりの伏兵が忍び寄っていた。



【死角からの一撃】


 その伏兵とは、辞めて行った川崎さんだ。


 辞めるときに揉めに揉めて、「損害が出たら損害賠償を請求するから」とまで言われた彼女が、残業代請求を引っ提げて帰ってきた!



 何とか急場は凌いだものの、会社に余裕があるわけではない。残業代を請求され、数百万を支払うことになれば大きなダメージになる。


 会社側が恐れるのは、川崎さんの残業代を支払ったあと、ほかの社員にも請求されることだろう。


 既に有給の件で実績がある。「なんか川崎が請求したらもらえたらしい。俺もためしにやってみよう」なんて社員が出てくる可能性は十分にある。しかも、有給と違って、残業代は辞めた社員も請求できる。



 ひとり数百万の請求が重なれば、資金難の現状ではかなり厳しい。たかだか300万の黒字なんて容易く吹き飛ぶ。



 川崎さんが残業代請求に利用した機関は、労働基準監督署だった。労基に「残業代未払いがあるので、会社に支払ってもらいたいのですが」と相談したのだ。



 労基に申告した場合、弁護士のように費用が掛からない。裁判になることもない。労働環境改善については全く話が進んでいない労基だが、上手くいけばそっくりそのまま、残業代を取り返せるかもしれない。



 労基に相談すると、「まずは会社へ正式に請求して、それでもダメだった場合にご相談ください」と返答される。



 川崎さんは言う通りにした。ざっくりと残業代を計算し、その請求書を会社に送りつけた。もはやお馴染み、内容証明郵便である。意外にも返答は早かった。総務部長から電話でこう言われたのである。



「あのねぇ、社長は『払うつもりはない』って……」


 まぁ予想通りではある。払うつもりがあるはずもない。むしろ清々しかった。


 しかし、社長も考えなしに言っているわけではない。彼は彼なりに意見があった。それは川崎さんに伝えられた。


「こちらも誠意ある対応をしたっていうのに、なんやあの請求書は」


「残業代を請求、っていうけど、それだけの働きをしたか? 利益を出したか? そんなことないやろ?」


 とのこと。さすが。見事としか言いようがない。この返答は100点だと思う。さすがです社長。



 ちなみにこの『誠意ある対応』はどれを指しているのか全くわからなかった。川崎さん本人もわかっていない。もしかして、有給を許可したことだろうか。めっちゃキレてたやんけ。



 なかなかに社長も煽ってくるが、重要なのは『払うつもりはない』という一言だ。社長は残業代を払わない。言質を取ったので川崎さんは改めて労基に相談し、正式に申告という形となった。



 このときに持って行ったのは、給与明細に勤怠記録、就業規則。それできちんと受理されたようだ。

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