【7月】【就業規則】
【7月】
7月。
川崎さんの残業代請求が会社に忍び寄る中、状況がわずかながら前進する。
いつまでも躱し続ける会社に対して、労基の田上さんが業を煮やしたのだ。社長が「今は忙しい」「今作っている」「もうちょいだから待ってくれ」、と2ヶ月間言い続けた結果、
「わかりました。じゃあ空いている時間を教えてください、僕が会社に行きますから!!」
と言われてしまう。田上監督官が会社に訪問することになったのだ。本当は忙しくない社長は、受け入れるほかない。
ちなみにこの時期、社長は労基に忙しい忙しいと言い続けながら、宮崎県にきんぴらごぼうを買いに行ったりしていた。万死に値する。
田上監督官が会社に行き、ようやく社長と腰を据えて話ができた。ついに接触を果たす労働基準監督署。
田上さんと社長は話し合った結果、労基は新たな条件を設ける。
この会社が抱える、長時間労働の問題、それに未払いの残業代支払い。
これらを期間内に改善するように言ったのだ。期間は3ヶ月。3ヶ月間、どういった改善をしたのか、これからどう改善していくのか。報告書にまとめ、毎月労基に報告するように指示をした。
さすがに。
さすがに。
そこまで言われれば、会社として改善せざるを得ないはずだ。何せ報告書まで作る。これまでどおり、「実は何もしていませんでしたー」じゃ通らない。それこそ、「改善の意思なし」と労基に判断され、強行策を取られかねない。
残業代の未払いに関しても、社員が名乗れば支払うよう指示すると言っていた。……在職中のわたしたちは無理だが、既に請求している川崎さんは安心していいのだろう。
さて。
この辺りで、この会社が労基から指摘された案件をおさらいしておこう。
まず、わたしの『長時間労働・および残業代未払い問題』の件。
川崎さんの『未払いの残業代支払い請求』の件。
少し前に書かせてもらった、労基が「別件で調査している」と言っていたもの。『パワハラ・セクハラ問題』の件。
そして、この時期に判明した最後のひとつ。
ほかの営業所に、労基から監査が入ったというのだ。どうも前に病気で辞めた社員がいて、その人と労災の件で揉めているらしい。退職後に労基に訴えたとのこと。例によって滝野さんが情報を掴んできた。
それによって社員や営業所内に調査が入った、『労災保険』の件。
長時間労働・残業代未払い・残業代請求・パワハラ・セクハラ・労災と、もうこれは問題という問題をコンプリートしたのでは? と思えるラインナップだ。
ここまで問題が重なり、労基側も社長をこっぴどく叱った。らしい。田上さんがそう言っていた。さすがに反省している様子だったいう。……あの社長が反省することなんてあるのか? この時点では半信半疑だった。
しかし、なんと驚くべきことに、社長が反省していたのは本当だったのである。
滝野さんが、本社やほかの営業所の社員から話を聞くと、怒られた日は本当に元気がなかったという。いつもの覇気がまるでなかった。怒られてショボンとしているようなのだ。
それを聞いたわたしたちは歓喜した。ついにあの傍若無人な王を黙らせることに成功したのだ。いくつもの問題が立ち上がり、社長を取り囲むことによって、ようやく彼は己を見直すことになったのだ、と。
こうなってくると、20時まで帰ってくるな、というのも撤回されるのではないか。もしかしたら、早く帰れ、って言ってくるんじゃないか。わたしたちはきゃいきゃいと盛り上がり、定例会議を初めて楽しみにした。
そして来たる、7月の定例会議。
わたしたちは、社長の姿を見て笑いそうになった。
社長が本当に大人しくなっていたのだ。
いつもは、会議の初めから全開だ。精神論と説教を延々と披露する。社員を煽りまくる。それを会議始め、中盤、会議締め、で毎回する。会議といっても、そのほとんどは社長のトークショーである。
しかし今回は、始まりから大人しかった。いつもは声を張り上げながら、社員を延々煽るというのに、今日は声も小さい。覇気がない。借りてきた猫のようだ。こんな社長は見たことがなかった。きっと、ほかの社員は困惑していただろう。
これは本当に、わたしたちの勝利が確定したのではないか。そう思えるほどだった。
……しかし。
しかし。
それも長くは続かなかった。
最初こそ大人しかった社長だったが、しゃべっているうちに興が乗ったのか、それとも最初からそういうつもりだったのか。だんだん熱の入った演説に切り替わったのだ。そこからはいつも通り。途方のない精神論と説教を延々と展開する、いつも通りの会議に戻った。
始まりはおかしかったが、終わりは普段と変わらなかった。
わたしたちはてっきり、「これからは早く帰るように」だとか「残業代についてだが……」なんて話が始まると思っていたのに。肩透かしだ。なんだよ、もう終わりかよ。そう野次を飛ばしたくなる。
まぁでも、まだ始まったばかりだ。3ヶ月間の報告も始まっていないし、最初はこんなものだろう。きっと今から変わっていくはず。そう無理矢理納得して、その日の会議を終えた。
そして。またひとつ前進する。
ずっと作れ作れと言われていた就業規則が、本当に完成したのだ。
【就業規則】
ある日、行商中に連絡が入った。
総務部長から、「就業規則を変更することになったので、一度説明をさせて欲しい」と言われたのだ。
あれだけ時間が掛かっていた就業規則がやっと完成した。やっと。やっとだ。大変喜ばしい。だが、その説明を業務終了後にされるのだから堪らない。未だ〝8時行商〟は健在だ。いつ帰れるか見当がつかない。しんどすぎる。
とはいえ、総務部長も業務終了後に1時間半かけて営業所に来るのだから、お互い大変ではあるのだが。
さて。
ようやく。
ようやく。
本当にようやく、待ちに待った就業規則の変更である。待ち侘びた。一体どれほど、このときを待っただろうか。既に退職した川崎さんと、この瞬間を迎えられなかったことを残念に思う。
これでわたしたちは解放されるのだ。〝8時行商〟なんてバカなものは消え、サービス残業が100時間を超えることもなくなり、残業にはきちんと賃金が支払われる。有給だって明文化される。そうだ、そうに違いない。……まぁでも、最初からガラっと変わるのは無理だ。田上さんも言っていた。徐々に徐々に、だ。しかし、これは大きな前進だ!
……。
……まぁ、当然というか、なんというか。
そんなことにはならなかったわけだが。
今までの社長と労基のやり取りを見ていれば、「これですべて解決する!」とはとても思えない。信じられるはずがない。
だが、多少は改善されるだろうと思っていた。ほんのわずかでも。何せ、労働基準監督署の検閲が入る就業規則だ。どう考えてもおかしなことは書けないはず。そして、就業規則を完全に無視するのは、労基に睨まれている状態では無理なはずだ。
だから、少しは改善されるはず。
そう思っていたけれど、そうはならなかった。
何も変わらなかったのか?
違う。
むしろ、悪くなったのだ。
大きな変更点は3つ。
そのうちのひとつは、純粋な改善だった。
『遅刻の罰金』の規則が消滅したのである。
この会社は遅刻すると罰金が発生する。一度目の遅刻で3000円。同じ月に二度目の遅刻をすると、1万円。三度目になると3万円引かれてしまうのである。三度遅刻をすると、その額なんと4万3000円!
……まぁ1ヶ月でそう何度も遅刻をする社会人もどうかと思うが。
言うまでもなく、『遅刻の罰金』は違法である。それが消えたのは、当たり前といえば当たり前だ。
ちなみにわたしは、慢性的な寝不足のせいで何度か寝坊したが、遅刻をしたことは一度もない。
簡単な話だ。わたしは始業時間の1時間半から1時間前に出勤している。たとえ1時間寝坊しても、始業時間には間に合ってしまうのである。遅刻にはならない。
変更点、その2。
残業代について。
なんと、残業代が出るようになった。早出手当、遅出手当、早朝手当夜間手当、基本外手当、という名目で。
しかし、『事務所外での仕事が多く、労働時間を把握することは難しいから』という理由から、あらかじめ額を決め、それが残業代として支払われることになった。『みなし残業』というやつだ。
わたしと滝野さんは、「どうせ残業代も、お得意の5000円で済ませる気じゃねーの?」と話していた。休日出勤でさえそれだ。残業代がそれだけでも何ら不思議ではない。
けれど、それは全くの的外れであった。
支払われる残業代の額、なんと9万円。9万円である。それだけの額が、毎月残業代として出ることになったのだ。
これはかなり意外だった。ひとり9万円というと、かなりの額だ。人件費が跳ね上がってしまう。今までの体制が異常ではあることは間違いないが、まさかここまでしっかり改善されるなんて。
確かに、残業時間が最低でも100を超える環境で、9万円はかなり足元を見られている。残業代が時給900円以下はあんまりだ。けれど、今まではゼロだった。とても満額出るとは思っていなかったし、この額ならかなりの進歩ではないだろうか。
……と、思ったのも束の間。
あの男がそう簡単に、残業代を支払うわけがなかった。これにはしっかりと理由があった。
彼らの言い分はこうだ。
「残業代は支払う。支払うが、給与を上げるとは言っていない」。
わたしがもらっている給料は、総支給22万円。
この給与の内訳なのだが、基本給がわずか11万円なのだ。皆勤手当てや無事故手当てなど、手当てで給料を22万まで引き上げている。(歩合がある場合は、そこからプラスされていく)
基本給をイジるのはややこしい。けれど、手当てはそうでもない。
もうお分かりだろうか。
この皆勤手当て等の名前が、基本外手当、つまり残業代に名前が変わった。
基本給11万円に、みなし残業代9万円を乗せ、あとは残った手当てを適当にくっつければ完成だ。総支給22万円、内残業代が9万円となる。給与は変わらず、残業代は支払ったことになる。
再び炸裂する社長の錬金術。社長が生み出した言葉のマジックだ!
いやいや。
いやいやいやいやいやいやいやいや。
ちょっと待てと言いたい。ふざけるなと言いたい。そんな言葉遊びがまかり通ってたまるか! それがアリやったら何でもアリやんけ!
この時点で相当頭は痛かったのだが、変更点はまだひとつ残っている。
有給の話だ。
川崎さんは有給を消化しきってから退職している。このとき、「こういうやり方をすれば有給が使えるらしいぞ」と広まり、有給申請が流行った、というのは前に書いた通り。
社長はこれが気に喰わなかった。どうにかしたいと思っていた。
そこで、元々はなかった有給の項目を明文化した。
部長の説明はこんな感じだった。
「現在、行商の皆さんは平日の5日間出勤し、土日の2日は休日になっています。これからは土曜日も出勤日、とさせてもらいます。
でも、安心してください。6日間出勤になるわけではなく、土曜日は有給消化日になります。皆さんには有給を使ってもらって今まで通り休んでもらいます。有給がなくなったら特別休暇扱いになります。
今までと何も変わりません。給料も変わりません。今まで通りです」
……………………。
いやいや。
いやいやいやいやいやいやいやいや。
正直なところ、その発想力には舌を巻いた。
「有給は使わせたくない。でも使うな、とは言えない」→「そうだ、勝手に有給が消化されるシステムにしよう!」
画期的である。
画期的すぎて時代がついていけない。有給自動消化システムって。
一日多く働くなら、その分お賃金は発生する。
一週間の法定労働時間は40時間、条件によって44時間と定められているので、それ以上の労働は時間外労働になり残業代が発生してしまう。この土曜日は丸々残業代が発生する。
しかし、みなし残業代として9万円を支払っている。よって、何も問題はない。
有給も勝手に消える。残業代も支払ったことになる。
完璧だ。
問題をすべて解決した、完璧な就業規則だ。
……と、本気で社長が思っていたかはわからないが。一応、そういう理屈なのだろう。
頭が痛くなる思いだった。会議中に、何度も滝野さんと顔を見合わせた。本気で、こんな言葉遊びで上手くいくと思っているのか。労基がこれで「オッケーです!」と言うと思っているのか。
……ただまぁ。
いくら無茶苦茶で、納得のいかないことであっても、真っ向に文句は言えなかった。この状況では。
部長から説明を受けていたほかの社員の反応は、鈍く静かなものだった。はぁ!? と声を出しそうになり、何度も顔を見合わせていたわたしと滝野さんに比べると、リアクションは実に少ない。
もちろん、理解していないわけではなく。単に興味がないのだ。
「結局のところ、元々なかった有給が本当になくなった。残業代も同じ。名前が変わっただけで、これから変わりはないのだろう?」
と、そういうことだ。元々なかったものが本当になくなるだけ。それくらいの認識だったようだ。最初からないものの話より、今は明日に備えて早く家に帰りたい。そっちの方が重要だった。
実際、しつこいくらい総務部長は「今までと何も変わらないから!」と連呼していた。まぁ表面だけ見ればそうなのだろうが……。
うーん、と心の中で唸っていると、追撃のように部長は言う。
「実は今、辞めた人に有給のことで裁判を起こされています。正直に言います」
これは知らなかった。珍しく滝野さんも知らなかったらしい。ふたり揃って驚いた。この会社を訴えるなら自分たちだろう、と考えていたこともあり、訴訟まで踏み切る人がほかにいたことが意外だった。
しかし、それはこのタイミングで言うことなのだろうか……、と訝しんでいると、部長は「なるほど」と唸りたくなる言葉を付け加える。
「で、これから先揉めることがないように、有給の件は社長がこういう対処を取ったわけです」
有給で揉めるのがいやなら、その原因を失くしてしまえばいい!
戦争を失くすために争う奴ら全員殺す、みたいな考え方だ。相変わらず思考回路が人のソレを凌駕している。
さて。
目を覆いたくなるこの新しい就業規則。説明でおよそ1時間を使い、時刻も22時を回った頃、部長は新しく用紙をわたしたちに配る。
「じゃ、この新しい就業規則の同意書にサインをもらえるかな?」
お断りです。バカじゃねーの。2000回読み返してこい。
こういう状況になっても、わたしはサインするつもりはなかった。だれが同意できるものか。一目でおかしいとわかる就業規則に。バカも休み休み言え。
説明が始まる前、滝野さんと「絶対にサインしない。それで辞めさせられたら、むしろありがたいわ」と笑い合っていたくらいだ。
しかし。
しかし。
空気と言うのは恐ろしい。
わたしは絶対にサインなんかしたくなかった。絶対にだ。なぜこんなものに同意しなくてはならない。ふざけるなと言いたかった。
けれど、周りは同意書を配られると同時にサインし始める。何の抵抗もなく、さらさら書く。どの先輩もだ。それがごく自然のことのように、無感情に名前を書いた。そして、部長が延々と「何も、今までと何も変わらないから! あとはそこに名前を書いてもらったら、今日は帰れるから!」と執拗に念押しをする。何も変わらない、というワードも小癪だが、書き終わるまで帰れない、と暗に言ってくるのがえげつなかった。
これを読んでいる人に問いたい。
いくら自分が納得のいかないものだろうと、周りの先輩社員が一斉に同意書に書き込んで静かになる中、自分だけ「僕は書きません」と言えるだろうか。表向きは会社に反抗せず、普通の社員として働いている中。自分が一番後輩という環境で。言えるだろうか。22時を回り、全員の疲労がピークに達し、『早く帰りたい』という思いが狭い事務所内に充満する中、自分の意思を貫ける人はどれだけいるのだろう。
わたしには、無理だった。
結局、わたしは悩んだ末に同意書へサインした。滝野さんも同じだ。
後に、それはもうどうしようもないくらいに自己嫌悪した。これほどまでに自分が嫌になったのは、こんなにも後悔をしたのは、この日が初めてだ。それほどだった。なぜ書いてしまったのか、と何度も何度も後悔しながら、「だが、あの場で書かないという選択肢はあるのか……?」とぐるぐるぐるぐる考えた。
そして、その後悔は正しい。わたしは絶対に同意するべきではなかった。勇気を出して、「僕は書きません」と言うべきだったのだ。
だれもが一笑に付すような、明らかにおかしい就業規則。後に労基の人が見て、呆れてものが言えなくなっていた、この就業規則。こんなものが通るなら何でもありだ。有給自動消化システム、名前を変えただけで払ったことになる残業代。これらが認められるはずがない。
しかし、サインをした。
同意のサインをしてしまった。
わたしは後に思い知ることになる。サインがいかに効力を持っていて、縛る力があるということを。
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