【時間稼ぎ】【群雄割拠】
【時間稼ぎ】
就業規則を作り直し、提出するように言われた社長。その就業規則の提出〆切日は、5月の末日だと伝えられた。
その間、わたしたちはただ待つことしかできない。
しかし実を言うと、この頃にはだいぶ状況が落ち着いていた。〝8時行商〟に慣れつつあったのだ。以前のような、退社時間が23時24時ということもなくなった。21時30分から22時の間で帰れることが多くなった。出勤時間も、7時20分前後で安定していたと思う。
とはいえ、もう無理だった。既に心はへし折れていた。「21じはんにかえれるなんて! うれしいなあ!」と思えるアホの子はいなかった。限界だったのだ。労基に助けてほしい、できれば一秒でも早く、という思いは消えなかった。
何せ、結局はサービス残業110時間である。辛いに決まっている。
仕事はしんどかったが、就業規則の提出日を楽しみにして、3人で愚痴を言い合いながらなんとか耐えた。
しかし、ここでおかしなことが起こる。
5月をまたいでも労基から連絡が来なかったのだ。
進展したらすぐに電話をくれると言っていたのに。就業規則が提出されれば、それは間違いなく進展だろう。なのにどうしたと言うのか。
仕方がないのでこちらから電話を掛けた。しかし、電話に出た田上監督官の声は暗いものだった。
就業規則の提出日、5月末日。
その日、労基にだれも来なかったのだ。もちろん提出もない。欠席の連絡すらなかった。会社に電話をしたが、社長は不在で連絡が取れなかったという。
すっぽかしである。社長お得意のすっぽかし。
さすがに頭を抱えた。
労働基準監督署から目をつけられ、就業規則を出せと言われ、きちんと期限も区切られたというのに。そのうえで完全無視だ。無敵か? 怖いもの知らず過ぎない?
田上さんは言う。社長がここから完全な無視を決め込むのであれば、労基は違う選択肢を取れる。取る。
しかし、約束をすっぽかした翌日、事務から連絡があった。曰く、「もう少しで完成だが、まだ出来上がっていない。なので、もう少し待ってほしい」。あくまで提出する意思はある。まだ作っている。そう言い張っていた。
そう言われれば、労基は待つしかない。提出すると言っているのだから。
……いや、この展開さっき見ただろ。再放送かよ。早すぎるだろ再放送。
勘弁してほしかった。
田上さんは「じゃあこの日までに提出してくださいね!」と新たに〆切を設けたが、それもどれほど効果があるのやら。社長は無敵だ。完全に味を占めている。このまま理由をつけてズルズルと〆切日を伸ばすつもりではないか。ベテラン作家か?
結局のところ、就業規則を作り直す気なんてないんじゃないか。そうとしか思えなかった。何せ、社長は人から指図されるのが大嫌いなのだ。
実際、滝野さんがこんな話を聞いてきた。彼はほかの営業所に知り合いがいるので、いつも情報をもらってきてくれる。情報屋みたいな人だ。これから先、何度もお世話になる。
幹部が「あの就業規則はとても直せない」と言っていたらしい。
元の就業規則はひどいものだ。残業代や有休について全く書かれておらず、それ以外でも必要な記載が抜け落ちている。かといってそれらを機能させる気はない。直す個所が多いのに、直せる個所が少なすぎる。手詰まりだ。とても直せない。だから、いつまで経っても完成しないのだ。
話は進まないまま、時間だけが過ぎていく。「早く就業規則出せ」「ちょっと待って」というやり取りは、1ヶ月も続いた。
ここで思い出したのは、一度だけ電話で話した、アレな労働基準監督官の言葉だ。
「『公務員は動きが鈍い』なんてことをあなた方は仰いますが、決してそんなことはないんです!」
わたしはそんなことを言っていないのだが、言いたくなる人の気持ちはわかってしまった。嫌でも頭に浮かんでしまう。
わたしたちは現状の労働環境に耐えきれずに、労基に助けを乞うた。けれど、結果はこれだ。何も変わらない。何ひとつ変わらない。魔法のように問題が解決するとは思っていなかったが、少しはまともになると思っていた。社長を大人しくさせることはできると思っていた。
環境の改善どころか、まともに接触できたのは一度だけ。この時点で2ヶ月経っている。こんな調子で大丈夫なのだろうか。そう思わずにはいられなかった。
しかし、わたしたちがこの状況に気落ちしている中、ひとつのことが表面化してきた。
裏で労基に助けを求め、情報を流していたのがわたしたち。そのように社長の寝首をかこうとしているのは、我々だけではなかったのである。
【群雄割拠】
20時まで帰ってくるな、と言われてしばらく経つ。〝8時行商〟が続いている。これによって、わたしが労基に助けて! と言ったように、鬱憤が溜まった人たちが現れたのだ。浮かび上がった。
当然と言えば当然だ。働く時間は伸びているのに、給料は増えない。疲労ばかりが溜まる。正直、めちゃくちゃシンドイ。
そもそも、売上を上げるための作戦が、「従業員をいっぱいタダ働きさせよう」というのが最初からおかしい。不満も溜まる。当たり前だ。
もしも社長が、「本当に申し訳ないけれど、売り上げを上げるために長く働いておくれ。給料は出せないけど、今が踏ん張りどころだから」とぺこぺこ頭を下げるような人だったら、話は違ったかもしれない。しかし、相手はどこまでも高圧的に命令するヒゲのおっさんだ。腹立つだけだ。
辞めていく人も増えた。
そしてそれに呼応するように、社長に反抗する社員も現れ始めたのだ。
ケース1 あわや暴力事件
ほかの営業所の話だ。
〝8時行商〟は続いているが、中には適当な時間にこっそり帰っていた社員もいたらしい。(もちろん定時後だし、20時~21時の話だ)だが運悪く、そこを社長に見つかった。早く帰った日に、社長が営業所に来訪したのだ。
既に退社した社員がいると聞いた社長は怒り狂い、「帰った奴を全員呼び戻せ!」と怒鳴り散らした。
帰った社員は大人しく営業所に戻ってきたものの、どうしてもそれが許せなかったようだ。
社員のひとりが、社長に殴りかかったのである。
寸でのところでほかの社員が抑え込んで止めたので、大事には至らなかったそうだが……。手が出るって。止められなかったら、普通に事件だ。社会人生活もかなり長い、成人男性が経営者に殴りかかるって、よっぽどのことじゃない? 当然、この会社には喧嘩っ早い人などいない。悪そうな人は採用されない。
ついに手が出てしまう社員まで出てきた。本当に限界だったんだろう。気持ちはわかる。いやだって、我々はお金をもらっていない。何の権限があって、会社に戻ってこい! なんて言えるのか。帰るな、と言うなら金を払え。ボランティアに文句言うな。
ちなみにこの殴りかかった社員……、ではなく、それを止めた社員は後にこの会社を辞めた。なんでやねん。
喧嘩に発展したのはこの営業所だけではない。別の場所でも発生した。
同じように社長が営業所を見回りで訪れた際、社員のひとりが社長にブチキレた。何が原因だったかは定かではないが、みんなの前で怒鳴り合いになったそうだ。
「あんたはいつもそうや! 言うだけ言って、やることなすことブレとる! 社員に対してもそうや、本当に社員のことを考えとるんか!? あんたの存在自体がパワハラなんじゃッ!」
と、その社員は怒鳴り散らし、同じように社長も怒鳴り返していたそうだ。
地獄。
酔っぱらいの喧嘩じゃねーんだぞ。
殴りかかった人も怒鳴った人も普段は温厚なのだが……、やはりストレスは人を変えてしまうのだろうか。
ちなみにこの怒鳴り合いをした社員は、すぐに別の営業所に異動させられてしまった。本社から遠く離れた場所にだ。恐かったのかもしれない。
ケース2 マスコミを味方に
突然、社長が弁護士に会いに行った。そんな話を滝野さんが聞いてきた。幹部→ほかの営業所の社員→滝野さん、という流れで情報が廻ってくる。
先日、辞めた社員から会社に電話があったそうだ。この会社に強い恨みを持っているらしく、
「この会社がいかにブラック企業なのかを全部マスコミに流してやる!」
と幹部に言ったそうだ。
なかなか面白い叛逆の仕方だ。その発想はなかった。なるほどなあ! と素直に思った。
この会社がいかに面白ブラック企業といえど、田舎の小さな会社をマスコミが取り上げてくれるとは思えない。けれど、発想は面白い。とても良い。労基がダメなら、どうすれば会社にダメージを与えられるのか……、と考えていたわたしたちにとって、「そういう方法もあるのか!」と感心させられるやり方だった。
それに、社長も無視できなかったようだ。弁護士を頼る羽目になっている。
一体どんなふうに相談するのだろう。「元社員がうちの悪行をマスコミにバラすて言うてんねんやけど……、どうすればええんやろか……」とでも言ったのだろうか。弁護士の答えが気になるところ。
この話がどういう結末を迎えたのかは、残念ながら知ることはできなかったが、当時は仲間内で盛り上がったのだった。
ケース3 労働基準監督署
わたしたちは労基に助けを求めた。ブラック企業に苦しむ人が、駆け込み寺に労基を選ぶのは自然だと思う。
わたしたちがそうであったように、同じように労基へ救難信号を出していた人がもうひとりいたのだ。
5月に、わたしの営業所近くの監督署から、本社近くの監督署に担当の引継ぎが行われている。
その際、田上監督官に「実は別件で既にあの会社を調査している」と教えられた。内容を話すことはできないが、とにかく調査している最中だ。そう言われたのだ。これは後々わかることだが、どうやら「パワハラ・セクハラの問題」だったらしい。
この豆腐屋の社員数は100人程度。だというのに、労基に駆け込んだのが現時点でふたりもいるという。
労基から突かれる回数も2倍だと考えると、なかなかに頼もしい。
そう、頼もしかった。
この会社にはわたしたち3人を除くと、従順な社員しかいないと思っていた。だから、反抗する社員はとても頼もしく見えた。真っ向から仕掛ける人もいる。わたしたちは裏で動いていただけに、余計頼もしく感じた。ひとり、またひとりと暴れる人が現れ、「今度はこんな人が出てきたよ」と滝野さんに教えてもらっては、そのたびにわくわくしたものだった。
そして。
わたしたちの仲間のひとり、川崎さん。彼女もまた、会社に真っ向から反旗を翻したひとりである。
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