【社長と労基】2【空白の期間】

 ……しかし、これが大変だった。



 手紙が届いた場所が、営業所だったからだ。




 営業所にはポストが設置してある。しかし、普段は郵便物を取り出す習慣がないのだ。不要なチラシしか入ってないせいだ。



 会社からの書類や資料は、配送のトラックが豆腐といっしょに運んでくる。お客さんから何か郵便物を送られても、普通は本社に送られる。ポストを開ける理由がなかった。たまにだれかが、掃除目的で回収するくらい。これも気まぐれだ。


 それではまずい。せっかくやってきた手紙が、営業所のポストで腐ってしまう。


 一応、労基からは「返事が一定日以上なかった場合、別の対策を取る」とは言われている。しかし、これ以上余計なことで日数を重ねたくない。今すぐに何とかしてほしい。一日でも早く。



 かといって、普段は郵便物を取り出さないわたしたちが「あれ~? 労働基準監督署から手紙が届いていますよ~?」とその日配達の手紙を持ってきたら、さすがにあからさますぎる。ほぼ自白だ。



 どうする。どうする。



 ここで行動を起こしてくれたのが、川崎さんだった。彼女はいち早く行商を終えて一番に営業所に戻り、ポストに接近。手紙が届いていることを確認すると、その封筒をポストからべろん、と露出するように入れ直したのだ。すごくわかりやすく。



 おかげで、あとから帰ってきた人がその手紙に気付いた。「こんなん届いとったぞ」と営業所内の机の上に置いてくれた。



 よかった。上手くいった。これで、すぐに本社に届けられる……。



 しかし、三人でガッツポーズをしたのも束の間。次の問題が起きたのだ。



 先ほどちらりと触れたが、会社間の書類のやり取りには、豆腐の配送トラックを使う。本社行きのファイルが用意されている。そこに書類を入れておけば、配送の人が本社まで届けてくれるのだ。



 その本社行きのファイルに、手紙が入れられてしまったのである。



 これには慌てさせられた。いや、これを読んでいる人は「なんで?」と思うだろうが。本社行きになるならいいじゃん、と。確かにそのファイルに入れれば、翌日には本社に届く。間違いなく届く。


 が、届くだけかもしれない。


 社長の元まで届くかどうか、それがわからない。


 なぜか。書類のファイルは、まず総務が回収する。


 ……その総務が、よく物を失くすのだ。大事なものでも平気で失くす。何か書類を送る際、「失くされるかもしれんから、きちんとコピー取っとけ」と言われるくらいだ。ちなみにわたしは領収書を失くされた。通帳の写しを失くされた人もいる。全体的に物凄くいい加減だ。



 また失くされてはたまらない。なので、手紙をポストから出してくれた人が帰ったあと、こっそりと所長の机の上に置き直した。所長に確認してもらうためだ。……結局こうなるなら、最初からわたしたちが置けば良かった気もする。



 おかげで、手紙を確認した所長が「なんかこんなん届いてましたけど、どうします?」と幹部に電話をかけてくれた。さすがにそこまですれば、紛失も避けられるだろう。



 ほっと息を吐く。たかだが手紙一枚で、えらくドタバタしてしまった……。



 だが、計画通りだ。話が前に進んだ。間違いなく前進したのだ。労基が会社に接触を果たした!



 その日、わたしたちは本当に浮かれていたと思う。あぁこれでようやく、この状況も終わるだろう、と。「いつ呼び出されたのかな」「来週には行くのかな」とクリスマスが楽しみな子供のような心持ちで、その日を終えた。


 余談ではあるが。



 労基に申告する件を滝野さんたちに話したのは、客観的に見ればよろしくない行動だと思う。(就業規則が必要になる前から、彼らには話していた)



 労基にチクったことが会社にバレれば、風当たりが強くなるのは間違いない。特にうちのようなワンマン社長にバレれば、本当にどうなるかわからない。想像したくもない。



 秘密が漏れる危険性は少しでも小さくするべきだ。なのに人に話したのは、非常に迂闊な行動だと思う。



 一度、このことを友人に話したとき、「そこからバレたりせぇへん?」と心配されたことがある。その危険はあっただろう。本人にそのつもりはなくても、何かのきっかけで漏れたかもしれない。わたしたちは危ない橋を渡っている。人数が増えればそれだけリスクも増える。


 しかし手紙が営業所に届いたとき、話して良かった、と心から思った。


 ふたりがいなければ、ここまで上手く事を運べなかった……、というのももちろんあるが、それよりもっと精神的な話だ。人に秘密を話す。悪いこと(会社からは悪だ)を共有する。共犯者になる。……これはすごくストレスを軽減させた。本当に軽くなった。この秘密をひとりで抱えて仕事をしていれば、きっと精神的な負担は大きかったと思う。それを顕著に感じたのが、この手紙騒動だった。



 手紙が営業所に届いたとき、正直なところわたしは動揺した。自分でやったことに動揺したのだ。



 ついに引き金を引いてしまった、と実感した。冷や汗も出たかもしれない。『労基が動いた証明』の手紙を眺め、「本当に自分の選択は正しかったのだろうか」と自問したくらいだ。小心者だと笑うだろうか。しかし、自分の行動が会社を「これからどうなるかわからない」という状況に持って行ったかもしれないのだ。会社を変えてしまう。自分の行動で。社員全員を巻き込んで。憎い社長も、頼りになる先輩も、楽しい先輩も、幹部も、総務のお姉さんも。彼らの家族も含め、全員だ。全員巻き込んだ。



 その事実は、とてつもなく重かったのだ。それだけ手紙が重かった。狼狽えるほどに。自分でやったことに動揺するほどに。



 ただ、いっしょにいるふたりが無邪気に喜んでいるのを見て、落ち着いた。落ち着けた。動揺を飲み込むことができた。



 わたしたちはただ単に、まともな人の生活をしたい、働かせるならその分お金が欲しい、と訴えているだけなのだ。ごく普通の要求だ。悪者はあっちだ。それを思い出すことができた。



 本当に、ふたりの存在には救われていたと思う。




 さて。次に労基から電話が掛かってきたのは、翌々週のこと。5月の13日だ。申告からおよそ1ヶ月後の話である。



 手紙には「責任者が監督署まで来て、労働環境等について説明するように」と書かれていた。連絡がきた、ということはきっと呼び出しが済んだのだろう。どういった指導をして、会社はどういうふうに動くつもりなのか。焦点はそこだ。その話を監督官はしてくれるはずだ。


 そのはずだった。



 労基からの電話にわくわくして対応したわたしは、その内容に愕然とした。



 労基が責任者を呼び出した日。その日、その時間には――だれもこなかった。欠席の連絡すらなかった。



 会社に直接電話を掛けたが、社長は不在。代わりに事務が対応した。そして、社長からの言葉を労基に伝えた。



「営業所は人が集まっているだけのただの場所で、営業所のつもりはない。営業所じゃないから、そこでの労働環境について説明するつもりもない」


 ?


 ???


 ??????



 意味不明である。



 ……意味不明である! 全く以て意味がわからなかった。どういうこと? 人が集まっているだけの場所ってなんだ? は? わたしたちが普段仕事をしている場所は、営業所ではない……? ただの場所……?



 もしかして、わたしたちは、何となく毎日同じ場所に集まって、そこに偶然豆腐があったから車に乗って売りに行っている、と。社長はそう言いたいのか……?



 何言ってんだ。通るかそんなもん。パチンコ屋の換金システムかよ。わけわからんこと言うな。



 しかし、そんな無茶苦茶な説明でも、労基には「いいから来いやボケ」と強く言えないのである。なぜか。強制執行権がないのだ。これはこれから先わたしが、何度も何度も、気の遠くなるほどの回数を聞かされる言葉でもある。



 労基は強く出ることができない。権利を有していないからだ。今回もこれからも、するのはあくまで「お願い」であり、「命令」ではない。強制ではない。労働法に違反していても、労基ができるのは是正勧告。行政指導ができるだけ。あくまで〝指導〟だ。処分ではない。実のところ、社長がやったように突っぱねても問題はないわけではある。



 ただ、強制執行権はなくとも逮捕権はある。あんまりな態度を取り続けていると、逮捕しますよ、ということだ。社長が逮捕。そんなことになったら、会社としてのダメージは凄まじいはずだ。



 けれど、現状ではそんなところまで話は進んでいない。進んでいるわけがない。入り口で躓いた。



 結局、労基は呼び出しを諦めた。



 そして、監督署の担当が移ることになった。わたしが申告し、会社に手紙を送った労働基準監督署は、わたしが働いていた営業所近くの監督署だ。そこから本社近くの監督署に担当が移った。これからは、本社近くの監督署が調査を行う。そっちが来ないのなら、こっちが行く。そういうことらしい。


 ……一見、話は進んでいるように見えるが、それを聞いたときは崩れ落ちそうになった。既に申告からは1ヶ月経っている。しかし、この1ヶ月間で起こったことは、



労基「ちょっと労働環境聞きたいから、こっち来て」


社長「いややけど」


労基「じゃあこっちから行こうかな。ちょっと準備するわ」



 これだけだ。これで既に1ヶ月を費やしている。ここから労基が社長と接触し、行政指導を行い、社長が従い、ようやく劣悪だった環境が終わる。



 ……それは一体いつになるというのだろう。そもそも、本当に社長はそれに従うのか。労基は環境を改善させることができるのか。


 本音を言えば。


 労基にそこまでは求めてなかった。いずれは直してほしいが、すぐには難しいだろう。というか無理だ。現実的ではない。



 だが、現実的なラインで求めているものがあった。


 この会社は社長がひとりで方針を決めている。舵を取れるのは社長だけ。社長が一言何かを言えば、そういうふうに会社が動く。思い付きでもなんでもだ。


 だから、わたしたちの休みは平気で潰れるし、20時まで帰ってくるな、と言われれば従うしかない。社長の言葉で世界が動く。


 ならば、だ。


 ここで労基にビビらされて、「ちょっと〝8時行商〟はやめにしよか。もう少し早く帰ろか」という言葉を引き出してくれれば、わたしたちは翌日には早く帰れる。それを期待していたのだ。労働環境の改善には時間が掛かるだろうが、社長から弱気な言葉を引き出すだけならそうでもない。社長の暴走を止めてほしかった。これ以上の好き勝手を許さないでほしかった。まずはそれだけでよかった。



 しかし、それは叶わない。わたしたちはボロボロの身体を引きずりながら、早く何とかしてくれ、と呻くばかりである。




【空白の期間】




 本社近くの労働基準監督署に引き継ぎが行われた。新しい担当も決まった。これから長い付き合いになるこの人の名前を、仮に田上さんと呼ばせてもらう。


 田上監督官は、本社へ調査に行くことを視野に入れていた。けれど、ひとまずは再び呼び出しをかける。今度は本社近くの労働基準監督署にだ。「近いんだから来られるだろうが、オラオラ」ってことだ。


 しかし、社長は労基に行くことを拒んだ。忙しいから今は無理だのなんだと理由をつけて、だ。



 これがもし、最初から「誰が行くかボケ、労基がなんぼのもんじゃい」という態度だったなら、まだ労基側もやりようがあったらしい。だが、一応行く意思は見せているのだ。「今は無理、暇になったら行く」程度のものだが、行くとは言っている。そうなれば待つしかないらしい。



 担当が本社近くの労基に変わりはしたが、状況としては何も変わっていない。社長は動かない。労基も動けない。進展が一切ないまま、時間だけが過ぎて行く。辛い仕事をただこなすだけの毎日だ。労基を救世主と思っていたわたしたちにとって、環境が一切変わらない、というのはあまりにも辛かった。



 これは、ほかに何か新しい手段を考えた方がいいのでは……。



 わたしたちが再び、あれこれと話し合っている最中である。



 なぜか事態は急に動く。


 社長が労基に現れたのだ。



 ……なぜか、アポなしで。突然。


 理由はわからない。


 呼び出しを受けても「忙しいから今は無理」と断っていたくせに、連絡もなしに突然現れた。何を考えているのだろうか。常識がないにもほどがある。それとも、労基をお店か何かと勘違いしてらっしゃる? 「やってる?」って言う感じで行ってる?



 まぁ社長のダメ社会人っぷりはどうでもいい。元々ほうれんそうが致命的に苦手な男だ。それより、ようやく労基と社長が話ができた。これは間違いなく前進だろう。



 いろいろと話をしたようだったが、まず監督署が指示を出したのは、たったひとつだ。



 就業規則を提出すること。



 まずは会社の就業規則を提出させ、違法な箇所を就業規則の方から直していくのだという。まずは、問題のないちゃんとした就業規則を作ること。そこから会社の改善に繋げていく。


 ……という話を労基から受けて数日後。


「就業規則を作り直します」という社内連絡が回ってきた。「今後大きく発展するために~~~」といった文句が書かれていたが、ただ労基に怒られたから作り直すだけだ。事情を知らないほかの社員は「ふーん?」くらいの反応だったが、わたしたちはにんまりしていた。



 ようやく話が前に進んだ実感がする。労基が会社にしっかりとした影響を与えてくれた。これでようやく、この地獄のような状況が改善される。



 そんなふうに手を取り合って喜んでいたわたしたちは、能天気としか言いようがない。

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