【川崎さんのリタイア】
【川崎さんのリタイア】
彼女は入社して2年目、6月に退職した。
実は1月の時点で辞めたいと言っていたが、実際に会社に伝えたのは4月のこと。4月の初め、所長に退職の旨を伝えた。退職日は6月中旬。てっきり止められるかと思いきや、「そうか、それなら仕方ないな」とあっさり言われたらしい。
元々入れ替わりが激しい職場だ。これだけ過酷な労働環境で、長く続く若者の方が珍しい。おそらく、前々から「辞めるだろうな」と思われていたんだろう。わたしも思われていたし。「2ヶ月持たないと思ってた」と言われた。ひでえ。
まぁ所長に理解があるのはありがたい。辞めやすい。引継ぎもスムーズにできるだろう。
しかし、本社の意志は所長と真逆だった。
「引き継ぐ相手がいないから、今辞めさせることはできない。どうしてもと言うのなら、社長に直談判するように」
……別に今すぐに辞める、と言っているのではない。辞めるのは丸2ヶ月後の話だ。だというのに、引き継ぎ相手がいない……? いや、知らんがな。知らんがな選手権開催だ。川崎さんからすれば、本当に知ったこっちゃない。おらんのやったら用意せえや、という話だ。川崎さんに責任はない。
どうやら社長に直談判するしかないらしい。仕方なく川崎さんは退職願を直接、社長に手渡した。
そのときの返事がこれである。
「辞めさせるつもりはない」
は?
いろいろと説教を喰らった挙句、こんなことを言われたのだという。知らんがな選手権第二幕開催。つもりはない、とはどういうことなのか。どういう権限?
いやまぁ、会社側の言いたいことはわかる。辞めてほしくないのだ。今は尋常ではない人手不足で、販売員だけでも随分と人が辞めている。にも関わらず、入ってくる人はひとりもいない。減る一方だ。未だ13連勤組は土曜日出勤を続けている。
しかし、それならそれで言い方があるだろう。なぜそこまで威圧的なのだ。素直に頭を下げろ。それとも、「辞めさせるつもりはない」と言ったら、「えぇ!? そうなんですか? じゃあしょうがないですね、続けます!」とでも言うと思ったのか。人間との会話は初心者でいらっしゃる?
だが、もしも頭を下げられても、川崎さんの意志は変わらなかっただろうが。川崎さんもとっくにブチキレている。
結局、彼女は退職願ではなく退職届に書き換え、郵便局で内容証明を付けて本社に送った。ゴリゴリの喧嘩腰。そこまでしてようやく、退職届が受理されたわけある。
川崎「やめます」
総務「ダメです。どうしてもと言うのなら、社長へ直談判して下さい」
川崎「やめます」
社長「ダメです」
何やこれ。
何がひどいって、この無駄なやり取りのせいで時間がかなり浪費されてしまった。そのしわ寄せがわたしたちの営業所に来るのである。
社長が素直に退職願を受け取っていたら、引き継ぎに2ヶ月以上使えた。十分な時間だ。
しかし、散々揉めたせいで、実際に退職が確定するまで時間が掛かった。その分、引継ぎに使える時間が減ってしまったのだ。
引継ぎに残された期間、なんと13日。
元々は2ヶ月以上あった引き継ぎ期間が、13日まで減ってしまった。
そこからは引継ぎの突貫コースだ。これがまた大変だった。
一応、一週間で引継ぎを終えたケースがないわけではない。
たった一週間で五日分の全コース、全顧客、全部の場所を暗記させるというド変態引継ぎコースがないわけではない。
月曜日から金曜日、たった一度の相乗りで、「全部覚えろ」と要求された人は実際にいた。しかし、その悪魔のような方法ですら今回は使用することができない。
結局、引継ぎ相手が見つからなかったからだ。
「一回で全部覚えろ」というド畜生引継ぎも、丸々フリーの人がいるからできることだ。今回は使用できない。会社は引継ぎ相手を用意しなかったし、川崎さんを引き留めることもできなかった。普段何してんの? お昼寝?
さて、大変だ。
尻拭いの始まりである。
川崎さんが辞めると、営業所の人間は8人になる(元々は10人だったが、ひとり異動した)。その8人に、川崎さんのコースを分配することが決まった。お客さんを割り振りするのだ。これは言葉で言うほど簡単ではない。むしろマジでキツい。場所、時間、曜日、お客さんはすべてバラバラだ。それらのお客さんを、我々は普通に仕事をしたうえで、プラスアルファで負担しなければならない。単純に仕事量が増えている。
何より、引継ぎが非常に厄介だ。バラバラに点在する500人以上のお客さんを、だれが拾うか拾えるか、話し合いで決めなければならない。「わたしはこの地域の近くを走っているから、このお客さんを拾えるよ」「僕は隣町を回っているから、そこまで行くよ」と言った感じに。
これがまぁ難しい。面倒くさい。ぐちゃぐちゃのパズルをやらされている気分になる。
その引継ぎの話だけで、いったいどれだけの時間が使われるのか。実際にお客さんを引継ぐのに、どれほどの苦労をしなければならないのか。想像したくもなかった。
だからある日、所長から「今日は通常業務を終えたあと、川崎さんの引継ぎについて打ち合わせをします」と全体メールが来たときは戦慄した。
「今日帰れるのは23時半くらいと見た」
「ええ。俺、23時には帰れると思ってたんですけど……」
そんな会話を滝野さんとするくらい、易々と解決する問題ではなかった。この日はいつ帰れるのか、というか、本当に引継ぎができるのか……。
しかし、そんな予想は意外にも大きく外れることになる。打ち合わせはすぐに終わった。本当にすぐだった。およそ30分程度だろう。
理由は簡単だ。
土曜日出勤を覚悟した社員が、4人いたからだ。
前に書いた、13連勤組を覚えているだろうか。突然社員が辞めたせいで、その人の5日分のコースを5人の土曜日に割り振った営業所だ。
それと同じことをしたわけだ。
平日に組み込むことは難しいと判断したベテラン勢が、土曜日を使って回ることにした。それなら確かに簡単だ。渡された1日を、そのまま土曜日に持っていけばいい。
残ったひとりは自分のコースに何とか押し込み、ほかの4人が土曜日出勤できないときに代わりに出る、代走役を買って出た。
休出するのは全員ベテラン勢。新人に無理をさせられない、という先輩たちの配慮によって、わたしを含めた新人3人は何も変わらなかった。先輩たちがすべて負担を引き受けた。ありがたい話だった。もし、わたしも土曜日出勤していたら、とっくの昔に発狂していただろう。
しかしそう思う反面、なぜここまでの無理をさせられなきゃいけないのだ、という気持ちがどうしても浮かぶ。だってそうだろう。会社側がひとり、引継ぎできる社員を用意すれば解決した話だ。川崎さんにいちゃもんをつけ、引継ぎ時間を減らした挙句、土曜日出勤というこの仕打ちだ。尻拭いは全部社員任せ。今回の尻は相当汚いぞ。
そもそもだ。
社員がひとり辞める。代わりの人はいない。でも仕事は減らせない。平日はもういっぱいいっぱいだ――そうだ、毎週休日を使えばいいんじゃね? という考えに至るあたり、本当に気が狂っている。狂人だ。まともな人間の思考じゃない。いや本当、「時間足りないなら休まなきゃいいじゃん」っていう考えは、ブレーキぶっ壊れた人間の思考だと思う。薄給でやっていいことじゃない。
これをだれが言い出したかは知らん。だが、社長だろうが先輩だろうが、どっちにしろ問題だ。これに関しては先輩たちにも非があると思う。休出をやってもらってるくせに生意気言うな、と言われたらそれまでだが、そもそもこんなクソみたいな無茶ぶりに付き合うから社長が図に乗るんだ。「なんや行けるやんけ」と思われるんだ。子供のわがままは際限がない。これはしつけを怠った側も問題あると思う。
ちなみに。
今回の土曜日出勤に対する、休日手当はきちんと用意されている。
「これ、土曜日出勤するといくらもらえるんですか? まさか前と同じ5000円?」
「いや、売上によって変動するみたい。平均5万円以上の売り上げなら、一日1万円つきます」
「4日行ったら、4万円か……、んー……」
「4万以上、5万以下なら7000円」
「ん?」
「3万以上、4万以下なら、5000円」
「……一応聞くけど、3万以下は?」
「…………………………」
「えっ、ゼロ!?」
「頑張りましょう」
あ、アホらしすぎる……。会社に無理やり土曜日出勤させられた挙句、それがタダ働きになる可能性があるというのだ。しかも、最高でも4万円。土曜日を4日潰して、月一で13連勤して最高4万円。その売上によって歩合で給料が上がるかもしれないが、それでもとても割に合わない。やってられない。
若い先輩が、「本当はいやだけど、やらなきゃいけないんなら、やるしかないでしょう」と苦虫を噛み潰すような顔をしていたのが印象的だった。
ただ、彼らがこの話を引き受けた理由に「限られた期間だから」というものがある。
川崎さんが辞めるのは6月中旬で、土曜日出勤は8月までと予定されていた。理由は簡単だ。新入社員が配属されるのが8月なのである。
今年入社した新卒社員は4人。彼らの新人研究は7月末で終了し、そこからそれぞれの部署に配属される。新人がひとりでもこの営業所に配属されれば、それぞれがコースをその人に引き渡し、晴れて土曜日出勤から解放されるというわけだ。
しかし、ひとつ問題がある。とてもとても大きな問題が。
この時点で土曜日出勤をしている営業所が3箇所、さらに「辞める人がいるので、引継ぎできる社員を寄越してください」と要望している営業所が2箇所。5人必要だ。対して新入社員は4人。その中のひとりは以前書いた通り、2ヶ月を待たずに辞めている。残っているのは3人だけ。この3人を各営業所で取り合わないといけないのだ。
どこの営業所が土曜日出勤をやめられるのか。
辞めたいと言っている人は、本当に辞められるのか。
命を懸けた(シャレになってない)新人争奪戦である。
それをドキドキしながら観戦していたのだが、結果は予想外の方向に転がった。
どの営業所にも、配属されなかったのだ。
ひとりは総務、ふたりは工場に配属された。
3人とも、営業所に配属されることはなかった。土曜日出勤続投のお知らせである。
「まぁ2ヶ月だから……」と仕方なく土曜日出勤を始めたうちの営業所、何ヶ月も土曜日出勤を余儀なくされているほかの13連勤組。同じく休出をしている別営業所。引継ぎを欲す営業所が二ヶ所。
彼らはどう思ったのだろう。
8月になれば救われる……、と思っていたのに、それがなくなった。次に人が入るのはいつかわからない。入ってくるかもわからない。
希望を見せてから絶望させる。心の折り方を心得ている。社員にダメージを与えることに関しては、相変わらず超一流である。
「工場も人がいないから仕方がない。工場が最優先だ。物が作れないと、そもそも売ることができないのだから」
幹部がそう言っていたが、それなら中途でも何でもいいからさっさと人入れろよ、という話である。
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