【三人寄らば】【勤怠記録を探しに】

【三人寄らば】





 仲間というのは、わたしと歳が近いふたりの社員だった。



 入社3年目の男性と、2年目の女性。ともに新卒入社をしている。便宜上、男性の方を滝野さん、女性の方を川崎さんと呼ばせてもらう。滝野さんは違う営業所から異動してきて、川崎さんは研修を終えてこの営業所に配属となった。ともに9月ごろだ。わたしより2ヶ月ほど早く、この営業所にやってきた。



 歳が近いだけあって気も合い、いつも3人でこそこそと愚痴を言い合っていた。そういうグループだった。今思えば、こんなふうに愚痴を言い合える環境に、精神的にだいぶ救われていた。本当にそう思う。それはわたしだけではなく、きっとふたりも。ほかの社員は、社長自身やむちゃくちゃな経営に愚痴ることはあっても、長時間労働やサビ残については文句を出さなかった。タブーの空気さえあった。その中で、気にせずに愚痴を吐き出せる間柄は非常にありがたかった。






 労基に申告したい。



 そんなふうに相談したのはいつだったろう。





 この会社にうんざりしているのはふたりも同じで、わたしの考えに賛同してくれた。今回の相談もスムーズにできた。



 労基に申告するためには就業規則が必要だ。なので、持っていないか、と尋ねた。彼らは首を横に振る。偶然、わたしがもらえてなかったわけではなく、社員に就業規則を渡さないのがここでの普通らしい。どんな会社だよ。





 ふたりとも就業規則は持っていない。ただ、滝野さんには心当たりがあった。



 彼が移動販売で使用している行商車は、昔の所長(既に退職している)が使っていたもの。昔の所長はズボラな人で、所長が取り扱う書類も行商車に残していった。その中に、就業規則が紛れ込んでいたのだ。





 そして、川崎さんには同意書の心当たりがあった。





 この話をしていたのは4月の初め。既に新入社員がいる。全員大卒の新卒採用だ。



 ちなみに新卒採用を始めたのは3年前からで、滝野さんは2期入社、川崎さんは3期入社にあたる。1期入社の社員は4人ほどいたらしいが、既に全滅した。



 今年は4期入社にあたる。





 しかし、この会社が新卒採用をしていると聞いたときは、心底意外だった。メリットがない気がするのだ。何せ、この会社は離職率が凄まじい。1期入社は全滅だし、販売員はほとんどが勤続年数一桁。労働環境を改善しない限りは辞め続けるだろう。新卒を入れても絶対辞めるだろうから、あんまり採用する意味はないのでは?



 そう思って周りの社員に話を聞くと、全員が口を揃えてこう言った。「新卒採用は、ほかの企業がやってるからな」。そう、社長はほかの企業をマネするのが大好きである!



 三年前に、「これからは未来を見据えて会社を経営していかなあかん」と言い出し、新卒採用に踏み切ったらしい。未来を見据える前に、まずは土台を見据えてはいかがですかね。





 話が逸れた。4期入社の社員の話をしよう。



 今年の新入社員も、わたしたちと同じように同意書にサインをしている。本来なら、さっさとそれを回収されて終わりだ。しかし、彼らは先手を打っていた。なんと、同意書をスマホのカメラで撮って保存したのだという。全員がだ。何という勇気。何というタフネス。新入社員になかなかできることではない。少なくともわたしはできなかった。そして、なぜそこに居合わせた社員が黙って見ていたのか。スマホで写真撮らせるくらいならコピー取ったれよマジで。それとも、やはり渡したくない書類だったのか。



 だが、何より思うのは、なぜ入社前にその慎重さが発揮されなかったのだ……! その警戒心がもっと早く出ていれば、こんな会社に来なくて済んだのに……。




 そして、その新入社員のひとりが、研修でわたしたちの営業所にやってきた。



 そのときに川崎さんが「出身大学が同じだから」という理由で彼に接触し、同意書の画像を受け取ってくれた。





 ただまぁ、関係ないことではあるのだが。



 川崎さんもその新人も歳が近い。ふたりとも若い。その若い女性の先輩から、「ちょっと訊きたいことがあるから、LINE教えて?」とその新人くんは急接近されたわけだ。わたしなら絶対勘違いする。それは少しばかり、悪いことをしたなぁと思った。





 とにかく、滝野さんと川崎さんのおかげで、就業規則、同意書を手に入れた。本当に良かった。もし、彼らがいなかったら……、と思うとなかなか背筋が寒くなる。申告前に詰んでる。



 勤めている会社の就業規則を手に入れるために、なぜこんなにも苦労しなければならないのか、という話だが。






 余談になるが。



 中途採用と新卒採用では、新人研修内容が異なる。中途採用は職種が最初から決まっているが、新卒は研修後に配属先が決まるからだ。すべての部署に研修に行く。



 そして、新卒の研修は厳しい。普通、研修期間くらいは定時や早めに帰れたりするものだと思うが、そんな生っちょろいことはない。最初から激務だ。移動販売の研修なら最初からガッツリ13時間~15時間勤務。



 配送の研修に行けば朝4時に集合させられるし、土日にイベントがあれば新人だけで出店を回すよう指示される。そういう会社だ。しかも、入社初っ端から11連勤させられたらしい。先日まで学生だったのに、落差が激しすぎだ。



 会社の保険は入社して3ヶ月は入れてもらえないし、本当に新人を育てる気があるのか疑問である。「未来を見据えて会社を経営する」とか鼻で笑える。




 それに加え、初任給の少なさだ。



 入社が4月1日、締日が15日なのでその分給料は少ない。会社によっては満額支払ってくれるところもあるが、うちはもちろんそんなわけがない。



 そうなると初任給はいくらなのか。



 大事な大事な初任給。大学卒業して、一生懸命働いて得た初めてのお給料。いったい、いくらなのか。





 その額、なんと6万円。



 大卒の初任給が6万円なのだ。6万円。いや、6万円って。申し訳ないが、それを聞いたときは面白すぎて腹を抱えて笑ってしまった。15日間のうち13日働いていたのに、貰えるお給料が6万円って。休出も残業もしているのに6万円って。ちょっと面白すぎるだろう。日給5000円いっていない。





 そんなあんまりな環境に放り込まれているのだから、さぞかし参っているだろうと思った。なので研修に来ていた新人に「大丈夫? キツそうだけど、続けられる?」と尋ねてみた。すると、「いや、確かにキツイっすけど、長時間勤務はバイトで慣れてますから! 平気っす!」と頼もしい言葉が返ってきた。そいつは2ヶ月経たずに辞めた。





【勤怠記録を探しに】





 さて、就業規則は何とか手に入れた。ならば、次は証拠だ。長時間労働が事実である証拠。証拠があれば、労基もそれだけ早く動ける。



 一番手っ取り早いのは勤怠記録だ。勤怠記録があれば長時間労働を証明できる。出勤時間、退勤時間を書いた日記やメモでも効力はあるらしいが、勤怠記録なら確実だ。





 うちは社員証をカードリーダーにタッチし、勤怠記録をパソコンに保存するタイプだった。出勤、退勤時にこれを行う。



 パソコンを使っているのだから、中にデータが残っているはずだ。それがあれば十分な証拠になる。




 しかし、勤怠記録はパソコンのどこに保存されているのか、だれも教えてくれなかった。いや、知らなかった。だれも知らないのだ。見ることさえできない。



 例えば、「出社したけど、打刻したかわからなくなった」ということがあるとしよう。しかし、それを確認することはできない。見ることはできない。そういう場合は、「もう一度、社員証をタッチしろ」と指示されている。勤怠記録を確認できないのか訊いたところ、ハッキリと「できない」と言われた。目の前のパソコンに保存されているのに。



 自分が何時に出社したのか、退社したのか、労働時間はどれほどなのか、残業時間はどれだけなのか、どれも記録として手に入れることはできない。その術がない。給与明細には労働時間が書いてあるが、全員統一されている。全員同じ時間だ。デタラメな数字だ。こうなってくると、打刻する必要があるのかどうかもわからなくなる。何度かわたしも出退勤時に打刻し忘れたことはあるが、咎められたことは一度もなかった。







 勤怠記録は見えない。 



 だが、パソコンを使っているのだから、データはハードディスク内にあるはず。閲覧はできるはずだ。わたしもパソコンに詳しい方ではないが、探せば出てくるだろう。





 探せれば、だが。





 営業所には常に人がいる。不必要にパソコンをイジっていたら怪しまれる。わたしたちがパソコンを使うのは、せいぜい売上を入力するときくらい。それ以外でパソコンの前に座っていたら、「何してんの?」という話になる。それはいけない。怪しまれてはいけない。





 なので、休みの日に営業所へやってきた。セキュリティ上、営業所にだれかが入った場合は記録が残るが、普段からみんな好き勝手に入っている。休みでも営業所で仕事するときがあるから……。忘れ物を取りにきて、所長に出くわしたのも一度や二度ではない。ほかの人もしょっちゅう見かける。



 休日にだれかがいるのは珍しくない。問題はない。いつも通り営業所に入ると、わたしは早速パソコンを立ち上げた。



 軽くイジっていたら、怪しいファイルはすぐに見つかった。勤怠記録だ。やはり存在していた。拍子抜けするほど、あっさり見つかった。ファイルを開くと、きちんと打刻した時間が記されている。



 これがあれば、わたしたちが長時間労働をしている証拠になる。給与明細といっしょに出せば、残業代が支払われていないこともわかる。とてもわかりやすい証拠だ。



 わたしはそれを印刷する。





 ……さて。



 場所はだれもいない営業所。わたしは会社を告発しようとする裏切り者。パソコンの画面には、告発のための証拠が映っている。わたしは、パソコンの前に座り、それを見ている。



 聴こえてこないだろうか。危機感を煽るBGMが。



 パソコンがあるのは、扉のすぐ近く。だれかが扉を開ければ、丸見えになってしまう。隠す暇はない。一発でアウトだ。



 先ほども書いたが、やり残した仕事のために土日に営業所に来る社員は多い。遭遇する確率は十分にある。



 よく、映画などでスパイが敵のアジトに忍び込み、パソコンからデータを奪うシーンがあるだろう。データ移動のバーがゆっくりと増えるが、その間に敵がその部屋に近付いていて……、ドアノブに手を掛けて絶体絶命……! みたいな、ベタだが手に汗握るシーンだ。



 映画のワンシーンみたいだ、と思いながらパソコンの前に座っていた。シチュエーション的にそう思う。そして、その結果……。




 ……。



 ……いや、まぁ。何も起きなかったのだが。



 残念ながら、これは現実であって映画ではない。コメディだがリアルだ。特に何か起こるわけもなく、わたしは無事に勤怠記録を入手した。必要になるたびに何度かファイルを開いたが、結局一度も問題は起こらなかった。



 普通にラッキーだったと思う。このときにバレていたら、本当にえらいこっちゃである。






 就業規則も証拠も用意できた。残るは申告のための書類作りである。



 気合を入れて休みに作業したのだが、これが拍子抜けするほどあっさりできた。ネットで調べながら作ったが、出来上がったのはとても簡素なもの。「こんな簡単なもので大丈夫なんだろうか?」と首を傾げたくらいだ。



 労基にはきちんと受理されたので、問題はなかったようだけど。





 書類を提出したのは、4月14日の月曜日。豆腐を行商車に乗せて、営業所から出発したあと、そのまま郵便局に入った。社用車で労基への書類を提出しに行く。なかなかロックな行動だ。



 切手を貼ってポストに投函でもいいんだろうが、一日でも早く送りたかった。すぐに届いてほしかった。



 書類を郵便局に出す。もちろん速達だ。





 そして、「すぐに届いてほしい」という願いは叶う。



 なんとその日の夕方、労基から「申告は受理しましたので、また後日詳しく連絡します」と電話が掛かってきたのだ。何とも仕事が早い。その週のうちに連絡がもらえたら良い方か、と考えていたわたしたちは、その連絡に歓喜した。



 労基にきちんと動いてもらえれば、きっと状況は改善される。何せ完全にクロだ。巧妙に労基対策している会社ならまだしも、色んなところがガバガバのこの会社に、凌ぎ切れるはずがない。



 すべてが上手くいく。わたしたちは無邪気に喜んでいた。





 しかし、本当の苦難はここから始まるのだ。

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