【人件費は掛からない】
【人件費は掛からない】
3月。
社長から、新しく指示が入った。第3の策である。
後に社員から〝8時行商〟と呼ばれ、最も長く、最も社員に影響を与えた策だ。
この策を話す前に、販売員には二種類いることを説明したい。
ベテランと新人だ。
この二種類しかいない。中堅はいない。それ以外もいない。新人とベテラン、その二種類だけだ。
その二種類は、勤続年数で分けられる。
皆さんの会社では、『ベテラン社員』と呼ばれるのは、勤続年数が何年からだろうか。
二十年? 三十年? それは会社によって違うだろうが、かなりの年数を重ねなければ、そうとは呼ばれないだろう。
では、この会社は何年からが『ベテラン社員』と呼ばれるのか。
答えはハッキリしている。「勤続年数4年目」だ。これは社員の共通認識であった。3年以内は新人、それ以降はベテランだ。
勤続年数4年目。これでベテラン扱いされる。
高卒なら22歳、大卒なら26歳だ。若造も若造の彼らが、普通の会社で「いやぁ~、俺も4年目なんでベテランっすよ~」なんて言っていたら張り倒されるだろう。だが、この会社では4年目がベテランなのだ。
簡単な話で、それだけ続く社員がそもそも珍しい。
ここまで読んだ人ならわかるだろうが、この会社の離職率は高い。言うまでもない。いくら日本が社畜大国といえど、さすがにサビ残110時間は人を選ぶ。ガンガン辞めていくわけだ。
ひとり、なぜか昔から社長に付き合う超ベテラン社員がいるにはいるが、それ以外は勤続年数が短い人ばかりだ。何せ、2番目に長い人が9年目だ。所長でさえ5年目。
中堅がいないのも頷けるだろう。
さて。
では、社長の最後の策について語ろう。
今、この会社は売上が足りない。それをどうにかしないといけない。そのために、社長は『客数を増やすべきだ』という結論に達した。
そこで社長はベテラン社員――勤続年数4年目以上の社員に、新規開拓をするように言った。
新規開拓とは、まだ行ったことがない地域でラッパを鳴らし、お客さんを増やして新たなルートを作ることだ。
その新規開拓をいつやるのか。
通常の行商を終えてから――つまり、18時から19時。そのあとからやるように命じた。時間は20時まで。20時まで新規開拓をし、それを終えてから営業所に帰るように指示したのだ。
しかし、こうなると帰りが遅くなる。営業所に帰るのが20時以降になる。そこから片付け、売上集計となると、いったいいつ帰れるのか。
なので、先に帰った新人社員が、ベテラン社員の片付けを手伝うことになった。ベテラン社員の洗い物などを肩代わりし、その間にベテランが売上集計をする。協力して片付けをする。
そうして、みんな揃って21時に帰りなさい。
そう指示されたのだ。
これは素晴らしい。
いや、大変ではあるのだ。ベテランは20時まで行商しなくちゃならないし、新人も1時間で片付けを終わらせなくてはならない。かなり忙しない。正直疲れる。双方に負担がある。
だが、しかし。
21時に帰れるというのが何より素晴らしい。みんな一斉に退社するなら気兼ねもない。ベテランは売上も上がる。みんな早く帰れる。
良いこと尽くめだ。
少なくとも、わたしには嬉しい状況になった。喜ばしい結果になった。
そうだよ、こういうのを待っていたんだよ!
今までのトンデモ作戦に比べると、かなりまともだ。
しかも、急に21時まで帰れ、だなんて。何かあったんだろうか? たまに、「労基の監査が入ってから、残業続きだったのになくなった」みたいな話も聞く。もしかして、そういう展開なんだろうか。
背景は見えなかったが、それでもよかった。帰れるならそれに越したことはない。
社長の指示通り、わたしたちは揃って21時に営業所をあとにした。
ほくほくだった。
…………………………。
…………………………………………………………。
当然というか、なんというか。
あの社長が、こんな都合の良い話を持ち掛けるわけがないのであった。
それから3日後の話である。追加の指示があったのだ。
「新人も新規開拓を行え。20時まで帰ってくるな」
はっきりと、帰ってくるなと言われた。全員が20時まで営業所に帰るのを禁止された。わたしたちも新規開拓を行うことになったのだ。
そうなるとどうなるか。
新人も20時まで外にいれば、当然ベテランの片付けは手伝えない。
ただただ行商時間が延びただけ。帰る時間が純粋に遅くなるだけ。当然、退社時間はその分あとになる。
「21時までに帰れ」、という話は最初からなかったように消え失せた。「20時まで帰ってくるな」という言葉通り、わたしたちはその時間まで行商をさせられる。帰れないのだ。そういう指示だ。「帰ってくるな」。そう言われている。
一度、事情があって19時半に営業所へ戻り、運悪く社長に見つかったことがある。それはもう怒鳴り散らされた。めちゃくちゃに怒られた。言葉の綾でも何でもなく、本当に「20時まで帰ってはいけない」のだ。
退社時間は遅くなる。この〝8時行商〟が始まってからというもの、今までの穏やかだった時期は消し飛んだ。
ド新人時代を思い出す退社時間になる。
1日目:23時03分
2日目:22時05分
3日目:23時19分
4日目:23時30分
5日目:22時26分
6日目:22時05分
7日目:22時37分
8日目:24時55分
9日目:24時09分
出社時間は7時前後だ。8日目なんて、退社して6時間後にはまた会社に戻ってきている。もう会社に住めよ。
ド新人時代より退社時間が遅い。何より辛いのは、ド新人時代と違って終わりが見えないことだ。あのときはゴールを教えてもらっていた。「忙しいのは年末だけ」「『お祭り』が終われば楽になれる」「仕事に慣れれば早く帰れる」。先輩たちから何度も励まされた。
しかし、今回はそういう希望がない。ゴールがない。急にこんな状況に叩き落とされた挙句、社長がじっとこちらを見下ろしている。上がってくんなよ。帰ってくんなよ。そうやって見張っている。この苦しみは無限なのか有限なのか、それさえもわからない。
いや、一応ゴールはあったのだ。
この8時行商、売上が少ない3月4月だけと言われていた。だけと言うが、丸々一ヶ月以上残っている。こんな生活があと1ヶ月以上も続くのか? 死んでしまう。本当に死んでしまう。
それに何より、わたしたちは一度ちゃぶ台返しを喰らっている。「みんなで21時までに帰れ」→「やっぱなし。全員20時まで帰ってくんな」。こんなとんでもない仕打ちを受けている。
3月4月で終わるというのも、全くもって信用できない。
事実、延長した。
5月に入る直前、「5月も売上足らんから、やっといた方がいいな」。
6月に入る直前、「まだ売上キツいからあと1ヶ月だけやろか」。
7月に入る直前、「7月8月は日が長いんやから、やるべきやろ!」。
こんなふうに無限に伸びていく。
そして一応、9月には解除された。
「自分が十分売上を上げた、と思った奴だけ帰ってええぞ」。
そんな指示を残して。
……実質、帰るな、と言っているようなものだ。十分な売上。そんなのいったい幾らだと言うのか。普段から散々、稼ぎが足りない頑張りが足りないと言われ続けているのに、そんな言い方をされて帰れるわけがない。無限地獄の始まりだ。
ただ、うちの営業所では、帰るようになった人はふたりいる。
片方は売上トップの一番先輩。この人は帰っていいと思う。実際、売上は圧倒的だし、社長も一番先輩だけには頭が上がらない。文句も言わないだろう。
もう片方は毎週毎週、土曜日に出勤している先輩。あの任意の土曜日出勤をやっている人だ。その人は「俺は毎週、土曜日に出勤しとるんやぞ。なんで平日まで遅くまでおらなあかんのや」と言い、帰っていた。
特殊なのはそのふたりくらいだ。あとは帰れない。「売上はもう十分!」だなんて言えるはずもない。結局、みんなして20時まで外をうろつくしかないのだ。
問題はこれだけではない。
季節は3月。まだ日は短い。19時を回れば辺りは真っ暗だ。夜になってしまう。
夜は静かにするものだ。
19時~20時にラッパを鳴らして住宅街を走っていれば、苦情も出る。何せうるさい。昼間だって、ラッパは騒音の苦情が出るのだ。夜だったら当然だ。
本社に苦情がいくのはまだ良い方で、直接言われた人もいる。怖そうなお父さんに窓を叩かれ、「うるさいんじゃ! 時間考えろ!」と怒鳴られた人もいた。販売員には若い女性もいる。「危険だから何か対策をした方がいいんじゃないか」という話が出たが、当然のようにスルーされた。基本的に、社長は社員の安全には興味がない。
警察に通報された人もいる。行商車をパトカー二台で挟まれ、逃げ出さないようにされたらしい。「毎週、うるさくラッパを鳴らす豆腐屋が来るって通報があってねぇ」と警察官に言われた。
そのような苦情があっても、一切社長はやめなかった。
それどころか、警察に通報した人を指して、「世の中にはキチ〇イみたいな奴がおるんやな」とのたまっていた。反省も何もない。キチ〇イはお前じゃ!
別の営業所では盗難事件が発生した。
行商車の、ラッパだけが盗まれたのだ。だれかが悪ふざけでやったのか、それとも喧しさに耐えかねたのか。ラッパがなければ音は出ない。正直、ちょっと面白かった。ラッパだけ盗まれるって。こう言っちゃ何だが、「う、うるせぇ――!!! うわぁぁぁぁああああ――――ッ!」ってキレた人がラッパを奪っていく様は面白いし、ラッパのない無音の行商車も間抜けだ。営業所にいた社員も最初は気付かなかったらしい。しばらく経ってから、「あれ!? ラッパなくない!?」ってなったそうな。
そこからその営業所だけは監視カメラが設置された。いや、夜に回るのをやめろ。
そんな問題を起こしながら〝8時行商〟を行っても、客数に大きな変化は表れない。
時間が時間だ。もう真っ暗な住宅街、まだ寒い3月の夜に、新規のお客さんがわざわざ豆腐を買いに来るだろうか。いることはいるが、数はそれほど多くない。
客数が伸びたとは言い難い。社員の努力に見合っているかと言われれば、絶対にそんなことはないだろう。
ただ、数字は確かにゼロではなかった。
ならばやる。何せコストの方はゼロだからだ。デメリットがない。
会社に苦情を出す人は、そもそもお客様ではないし。
警察の厄介になっても、別に社長の時間が取られるわけでもない。
社員の働く時間が延びても、残業代は出さないから人件費は掛からない。
金を払わなくていいのなら、長く働かせた方が得だ。無から有を生み出す錬金術。普通は真似できない大魔法だ。
限界だった。
1日は24時間しかないのに、15時間も16時間も拘束される。その上で賃金は払われない。働き損だ。タダ働きだ。
どれだけ給料が良くても、これだけ働くのは御免だ。お金をもらってもやりたくない。なのになぜ、お金ももらえないのにここまでしなくちゃならないのか。
それに加え、社長の高圧的な態度にも我慢ならなかった。
給料を遅延させているにも関わらず、謝罪の言葉もなし。それどころか、「なんでお前らこんだけの売上しか上げられないんじゃ! さっさと行って上げて来い!」と怒鳴り散らす。会社がピンチなのは、販売員が売上を上げてこないから。そう言って責める。
しかし、社長のどんな横暴にも不満を訴える社員はいない。
言っても意味がないからだ。
社長にはうんざりしているけれど、皆諦めていた。受け入れていた。言っても聞かないのはわかっているし、下手なことを言えば怒らせる。社長と口論した結果、違う営業所に異動になった社員もいた。それくらい社長は叛逆に敏感だった。
そして力で抑えられているのは、わたしも同じだ。何もできない。従うしかない。
仕事を辞めれば済む話だが、わたしはこの仕事が嫌いじゃなかった。仕事内容もそうだし、土日も休み。それに営業所の人たちはみんな楽しくて愉快な人ばかりだった。皮肉でも何でもなく、笑いの絶えない職場だった。
それに何より、仕事を変えたくない。現時点でまだ五ヶ月目だ。辞めるには早すぎる。次の就職に差し支えてしまう。
仕事をそう簡単に変えたくないのは、ほかの人も同じだろう。この会社に長く残っている人は、多くが家庭を持っているお父さんたちだった。「家族のために頑張らないといけないからね」というような言葉を何度も聞いた。
家族のために。子供のために。
その魔法の言葉で、お父さんは奴隷になれる。いくらでも働いてしまう。社長はそれをわかってやっている。
会社はやめたくない。しかし、今の環境は辛すぎる。中からの改革は期待できない。ならば外だ。外に助けを求めるしかない。
この異常な状況を外に伝えれば、きっと助けてくれるはず。
わたしは、労基に助けを求めることにした。
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