【社長渾身の奇策】2

 さて。


 社長の考えた策について話を戻そう。


 忘れもしない、2月22日の土曜日のことである。



 その日、わたしは友人たちとライブに行くため、東京に向かっていた。鞄には発注書と会社用携帯を入れて。



 電車に乗っていると、会社携帯にメールが入る。所長からだ。連絡事項の一斉送信メールだった。



 休日に仕事のメールなんて見たくもないが、見ないわけにはいかない。そして何より、そのメールを送っている所長が土曜日出勤の真っ最中だ。行商の合間に送ってくれたわけだ。お疲れ様です、と思いながらわたしはメールを開く。



 そのメールの内容には、本当に度肝を抜かれた。



 内容は、発注の数を増やせ、というもの。



 数を上乗せするよう指示されたのは、がんもだ。



 がんもの商品は大、中、小、と三種類あるが、今回増やすように言われたのは大がんも。この大がんもの数を多く発注しろ、と言われた。



 この大がんも、がんもにしては本当に大きく、具も8種類入っている。ひとりでひとつを食べるには大きすぎるので、半分か4等分にすると食べやすいくらいのサイズだ。


 がんもなのに、でかすぎる上に具がやたら入っているので、最後までどう食べていいかわからない商品だった。扱いづらい。ダントツで売りにくい。



 この大がんも、わたしのコースだと月曜日は大体20枚くらい売れる。これでも結構売れている方だ。ほかのコースでは一桁もザラで、1枚も売れないこともあった。まぁそれくらい人気のない商品だ。ほかの人だってちゃんと売れていない。



 20枚くらい売れるので、発注は余裕を持って25枚。妥当な数字だと思う。余ることはあっても、売り切れることはないだろう。


 25枚。この数字に間違いはない。妥当も妥当。全く困らない。


 だというのに。


 メールはこんな内容だった。


「大がんもの発注を100枚にしてください」


 100枚。


 100枚である。


 普段の発注の4倍、売れる数に対して5倍の数である。


 指示はそれだけではない。


 同じく大、中、小、と三種類ある油揚げ。これの大油揚げ。


 普段40枚程度の販売数なのに、その倍の80枚を発注しろ。


 厚揚げ。


 これは普段30枚程度しか売れないのに、80枚で発注しろ。



 なんてことが書かれている。何かの間違いのような数字だ。というか、最初は間違いだと思った。



 何せ、意味がわからない。「発注しろ」と書かれているだけだ。とにかく数を増やせ。……な、なぜ? しかも、その数が尋常ではない。



 別にわたしたちは、おかしな発注をしているわけではない。数は適正だ。売り切れることはないけれど、余りすぎないよう注意した数字だ。それがなぜ、5倍の発注になるんだ……?


 電車から降りた瞬間、すぐに所長へ電話を掛けた。


 冗談ですよね? 何かの間違いですよね? と確認するためだ。もしくは、わたしが何か勘違いしている。そうに違いない。そうであってくれ。



 しかし答えは、「月曜日までにどうやって売るか、考えておくように。……頑張ろうな」といううんざりした声だった。間違いではなかったのだ。


 そう。


 これが社長、渾身の奇策。


『いっぱい持っていけば、いっぱい売れるやろ』作戦である。


 売上が足りないのはわかる。売上を戻したいのもわかる。しかし、その解決策が「いっぱい持っていけば、いっぱい売れる」という、何がどうなってそうなったのか、全く以て理解しがたい結論だった。


 なぜそうなる……。売れるなら、最初からそれだけの数を持っていく。計算して発注している。売れる数に応じて持っていく。多く持って行っても余るだけだ。え、言わないとわかりません!?


 先ほど説明した通り、厚揚げ類は売れ残ったら翌日に持ち越しとなる。


 ある先輩を例に出そう。


 大がんもを100枚発注したが、その人は12枚しか売れなかった。在庫は88枚。


 そして翌日、新たな100枚の大がんもが届く。そうなると先輩の大がんもは、売れ残り88枚+今日の分100枚の合計188枚。月曜日は12枚しか売れていないのに、火曜日は188枚持っていくことになる。


 188枚……。どうあっても売れるわけがない。


 100枚以上のがんもを綺麗に並べ、車に乗せるだけでも物凄く時間が掛かる。準備に余計な時間が掛かってしまう。そのせいで、いつもより早く出社して、準備をしないと間に合わなくなった。


 どうせ売れないとわかっているのに。5倍以上の数を持っていったら、5倍近く売れました、なんて奇跡が起こるはずもないのに。


 わたしたちはいつもより朝早くに来て、決して売れないだろうがんもを詰め続ける。


 既にこの100枚発注のせいで、てんやわんやになっている営業所。しかし、事態はさらに悪化する。


 月曜日に100枚、火曜日にもう100枚のがんもが届いた。当然ながら、皆の売れ行きは良くない。それもそうだ、売れるわけがない。普段あんまり売れない商品をたくさん持って行っても、あんまり売れないだけだ。


 うんざりとした空気が流れる中、幹部が営業所に現れた。


 社員を集め、今度はこんなことを言い出す。


「せっかく大がんもの数を増やしたのに、あまり売上枚数が芳しくありません。あれだけの数を作るのに、工場の人たちは眠らずに頑張っています。それに応えるためにも、頑張って行きましょう。


 そこで、新しい作戦を考えました。


 がんもの枚数を、250枚に増やしましょう」


 250枚である。


 ……250枚である。


「がんも100枚持って行っても売れなかったので、250枚にしました!」



どういう判断だ。


いや、ほんと。どういう判断だ。


 わたしの月曜日の元の発注数は25枚。その10倍の数、250枚持って行けと言う。ほかの曜日だと10~20枚くらいしか売れないのに、250枚。いやもう本当に、どういう計算したの?



 多く持っていけば売れるわけではない、というのは既に証明されている。全員で証明している。なのに、なぜさらにそこから倍プッシュを繰り出す……?



 木曜日に250枚届くとしても、木曜日に販売するのは水曜日の在庫である。火曜在庫100枚が売り切れているはずがないからだ。そして、その木曜日も間違いなく水曜日の在庫100枚を売り切ることはできない。



 そのうえ、金曜日に250枚が追加で届く。木曜日の在庫250枚+金曜日の分250枚で500枚! いや、500枚も詰める箱なんてねーよ。普段20~30枚しか持って行かんのやぞ。



 全く以て意味不明だ。何を考えているかさっぱりわからない。きっと幹部もわかっていない。社長の頭の中だけに、成功のイメージがある。



 営業所内の「おい、マジかよ……」という異様な空気は本当に忘れられない。お互い顔を見合わせていた。


 この時点で既に唖然としていたのだが、さらに幹部は信じられないことを言う。


「しかし、これだけたくさんのがんもを作るのは、今の工場では難しいです。なので、豆腐や油揚げ類の商品数を最低限まで減らします。もう、この大がんもを売ることだけに専念してください。豆腐は売らなくていいです。このがんもで売上を上げてください」


 正気か?


 とんでもないことを言い出した。豆腐の数を減らす。売れなくてもいいから。このがんもさえ売れればいい。


 いやいやいや待て待て待て。


 いつからこの店はがんも屋さんになったんだ。豆腐屋だろうが。豆腐屋から豆腐を消してどうする。


 いや本当に、豆腐屋から豆腐がなくなるってなんだよ。なぞなぞか何かか?



 これが本当に最悪だった。最低の悪手だった。豆腐屋から豆腐が消える。わけがわからない。豆腐屋さんに豆腐が売ってなかった、ってお客さんどんな気持ち?



 幹部の言葉通り、翌日の豆腐はごっそり減った。油揚げも消えた。豆腐の数は実に少なく、すぐに完売してしまう。お豆腐完売。


 残るのは巨大ながんもだけだ。


「お豆腐屋さーん! すみません、お豆腐下さい」


「いえ、豆腐はありません。代わりにこのがんもを買ってください」


「えぇ……、いや、いらんけど……。豆腐ないなら、厚揚げでいいからちょうだい」


「いや、厚揚げもないんです。このがんもを買ってください」



 という会話が繰り広げられるわけである。



 最悪、大がんもが大量にあるのはまだいい。しかし、ほかの商品がないのはダメだろう。豆腐がないのは本当にダメだ。お客様に迷惑かけるな。



 豆腐はないわ、やたらと大きいがんもを勧めてくるわ、もうやりたい放題である。本当に豆腐屋としてボロボロだった。何度「豆腐がないなら、もういいわ」と言われたかわからない。それっきりになったお客さんだっている。勘弁してほしい。


 それに加えて愉快だったのが、がんもの数だ。



「がんもを250枚作るために豆腐を減らす」という話だったのだが、結局作れなかったのだ。営業所に届かなかった。届いたのはひとり80枚程度。もちろん、80枚でも十分多いし、昨日の在庫もあるから困らないのだが……。



 なぜ250枚作れなかったのか。多分、工場の人が途中で力尽きたんじゃないだろうか……。彼らもまた被害者だった。可哀想に。



 この『いっぱい持っていけば、いっぱい売れるやろ』作戦は一週間で終わった。終わってくれて本当に良かった。何と言っても、失った信頼が大きすぎる。そりゃそうだ。お客さんは豆腐を買いに来ているのに、その豆腐がない。なんやこいつってなるのも仕方がない。豆腐屋だけど豆腐はありませーん、じゃジョークにもならない。



 ただ、豆腐自体が売り切れることは稀にある。行商終了間際になら。さすがに、木綿豆腐、絹ごし豆腐、寄せ豆腐、どれも売り切れになることはほとんどないが、どれかが無くなることはある。それほど珍しいことではない。


 だが、それならやりようはあるのだ。


「木綿豆腐ちょーだい」


「あぁ、ごめんなさい、お母さん。今日木綿切らしちゃったんですよ~。絹だったらあるんですけど……」


「あぁそう? じゃあしょうがないなぁ。絹でいいよ」


「ありがとうございます! 来週は必ず持ってきますんで!」


 こんなやり取りも何度かやった。人によっては厚揚げを代用品にする人もいる。もしくは、近くにいるほかの社員に電話をかけ、余っている豆腐を譲ってもらう。わたしはそこまではできなかったが、翌日にその人の家まで豆腐を届ける社員もいたくらいだ。


 上記のやり取りの「来週は必ず持ってくる」という約束は必ず守った。きちんとメモを残し、その人のために売り切れないよう確保しておく。そして翌週会ったときに、「先週は切らしちゃってすみませんでした」と詫びの言葉を入れて、豆腐を渡す。何とか信頼を繋いでいく。



 普段なら、売り切れてもやりようがあった。しかし、今回はどの手法も使えない。どうしようもない。全員豆腐がないのだから。がんもしかないのだから。



 それどころか、会社の方針がわからないので「来週は必ず持っていきます」という約束さえできない。そりゃあ客も離れるってものだろう。



 本社への苦情の電話が凄かった、という話はあとから聞いた。



「なんで豆腐屋さんなのに、豆腐を売ってないの!?」



 全く以て仰るとおりである。ぐうの音も出ない。

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