【求人票は嘘を吐く】

【求人票は嘘を吐く】


 ある年の11月、わたしはこの豆腐屋に入社した。



 仕事内容に関しては、先に書いたとおり。では待遇はどうか。給与に関してはあとで詳しく書かせてもらうが、それ以外についてだ。



 当時の募集要項はこんな感じだった。


 勤務時間: 8時30分~19時


 休日: 土日祝


 週休: 毎週


 年間休日: 120日


 残業時間: 月に0時間



 序盤からツッコミどころ、というか、即矛盾がある。勤務時間 8時30分~19時、なのに残業時間は0。


 いやいや。


 法定労働時間は一日8時間、週に40時間が原則だ。8時30分~19時では、この時点で残業は発生しているではないか――となるだろう。



 しかし、そこは安心。休憩時間が150分に設定されている。2時間半。なので、実働は8時間で収まっているのだ。


 バカタレって感じである。


 もちろん、何度も言っているようにそんなに休憩できない。昼に1時間休憩していたのだって、それなりに勇気が必要だった。合計1時間以下の方が多いだろう。


 年間休日120日も嘘だ。完全週休二日制でもない。毎月、第一土曜日は会議がある。



 多分、この計算だと「会議は実質休み」みたいな扱いにしているんだと思う。社長も、「お前らは話聞いているだけやから、休みみたいなもんやろ」と思っているかもしれない。



 祝日が休みというよりは、「休みのときもある」だ。時々休み。出勤の日もある。会社カレンダー準拠……、と言いたいところだが、これも社長の思いつきで変わるので何とも言えない。「この日は出るべきやろ」と言われれば、出勤確定だ。会社カレンダーもあてにはできない。



 当時の会社カレンダーを見たが、年間休日数は104日。会議も休み扱いにすると116日。実際に休みが消えた日もあるはずだが、さすがにそこまでは覚えていない。まぁ休日数は100日前後ってところだろう。



 GW休暇あり(3日)、年始年末、夏期休暇あり(5日と4日)。賞与は年2回。



 正直、この求人票だけで怪しさムンムンである。まず、休憩時間150分の胡散臭さがえぐい。昼休憩1時間だとして、あとの1時間30分は何してんだって感じである。


 ただ、怪しさに目を瞑れば、この求人はとてもよい。年間休日数120日、土日祝休み、残業はなし。それを丸きり信じれば。


 そして仕事内容は豆腐の販売。ルート販売である。正直、それほど大変そうには見えないし、残業だってあっても多くなさそう。


 そう思って、ノコノコとわたしは応募してしまったわけだ。警戒という言葉を教えてあげたい。



 しかし、今思えば、ちゃんと引き返せるタイミングはあった。用意されていた。それをスルーしたのがよくなかった。


 例えば、最初の面接。そのとき、面接官はきちんとアラームを鳴らしてくれていた。


 こんなやりとりがあった。



「うちの仕事、かなり朝早いけど……、大丈夫? 実はみんな朝7時とかに出勤してくるんだけど……」


「はい! だいじょうぶです!」



 アホの子かな。まぁこう答えた理由に関しては後述する。 


 それより面接官の、「従業員が勝手に出勤してくるだけ」みたいなニュアンス、ポイント高くない?



 二度目の面接は社長相手だった。社長室で椅子にふんぞり返り、威圧的な態度で面接を進めていた。わたしが志望理由を長々と語っていると、「そんなことは聞いてないんや」と遮られたのをよく覚えている。(基本的に社長は人の話を聞くのが嫌い)



 客商売でこんな態度はいかんだろ、入社するかどうかわからん相手やぞ、と思ったものの、あっさり面接は通過した。



 次に待っているのは職場体験だった。



 実際の販売員といっしょに行商を行い、この仕事を己の身で知る。実際に体験する。それでもこの会社に入りたいと思った人間だけが、入社することができる。




 まず、この職場体験。電話で日時を指定されるのだが、「時間はゆっくりでいいですよ。7時半にきてください」と言われる。はええよ。いや、この仕事で7時半はかなりゆっくりなのだが。



「それと、お昼ご飯は持参してください。片手で食べられるものにしてくださいね」と言われる。手早く喰えるものにしろ、ってことだ。おにぎりにした。昼休憩は田んぼで10分だけだったので、おにぎりにしてよかったと思う。



 そして、20時ぐらいに営業所で片付けを手伝っていると、社長が本社からやってくる。そして、改めて訊くわけだ。「お前はこの会社で頑張るつもりはあるんか」と。


「はい! あります! はたらかせてください!」


 なんかこう書くと120%わたしが悪い気がしてきた。アホがアホな会社に引っかかっただけでは……?



 実際、引き返せるタイミングはいくらでもあったわけで。求人票に騙されるだけならまだしも、面接、職場体験ではきちんと晒している部分も多かったわけで。


 今のわたしだったら、裸足で逃げ出していたと思う。



 しかし、この頃のわたしは完全にアホの子だった。思慮の浅さが物凄い。まぁ仕事を「豆腐屋さんってなんか楽そう」で選んでいる辺り、本当にお察しである。言い訳のしようがない。ある程度は自業自得と言える。



 ただ、このときのわたしはこの条件でもいいと思った。本気で「土日休みだったらそれでいい。平日だったらいくら働いても構わない。サビ残だって、ほかの企業でもいくらでもやってる」と思っていたのだ。頭がイカれている。


 理由は簡単。


 恥ずかしながら――本当に、本当に恥ずかしい話なのだが……、前職もブラックだったのだ。



 前職は、建売住宅を販売する営業職だった。土日に住宅見学会をしているところがあるだろう。アレ。



 完全週休二日制の年間休日数は125日。土日に展覧会をする場合は、平日に代休を取る。そんな条件の会社だった。



 まぁ嘘だったのだが。



 休みは月に4日ほど。わたしの場合は水曜休みだった。「契約が水に流れる」から水曜日は縁起が悪い、だから休み。やかましいわ。残業は月50~70時間程度(みなし残業)。



 給与に関しては、ノルマさえ達成していれば、普通の企業で残業50~70時間やるのと変わらないくらいは貰える。達成しなかったら死ぬ。


 しかしまぁ、何より休みが少ない。



 この月に4日というのも、わたしが「はい! 一週間に一日は休みたいです! お願いします!」と主張したから貰えていただけだ。周りの人は「休みは特にやることがない」「家にいるだけで、気分が沈んでくる」などと言って、「休日って別にいらなくない?」というスタンスの人ばかりだった。多分人間じゃないんだと思う。勤労に憑りつかれた現代の妖怪。



 忙しいわけではないのに、突然40連勤し始める先輩や、展覧会も仕事もないのに、「まぁ土日は出とこか」くらいのノリで潰れる土日。という感じで休日が必要のない会社だったわけだ。妖怪の根城。わたしみたいな、普通に休日を欲しがる人間がむしろ異質だった。



 ある日、わたしが会社で午前1時まで仕事をしたあと、タイムカードを切って会社から出た。ほかの物件に車を走らせ、備品を回収してから帰宅した。帰宅時間は2時を超えていたが、その日は変わらず8時に出勤する。


 すると、所長がわたしのタイムカードを見て渋い顔をするのだ。



「お前、1時まで仕事はみっともないやろ……。やるなら、先にタイムカード切るくらいの頭使えや。労基がきたらどうするんや」


 労基が来たら潔く退治されろよ。



 とにかく、その言葉でぽっきり心が折れてしまったのだ。わたしは妖怪にはなれなかった。


 しかし、こんなスタンスなものだから会社は万年人不足。辞めると言えば引き留められた。


「そうやな、最近お前も頑張っとったしな……。特別に、ゴールデンウィークに休みをやろう。なんと……、2連休や!」


 わたしは辞めた。



 そんなことがあったせいで、すっかりアホの子になってしまったのだ。



 ただ、いくらアホでも、ヤバい面接、ヤバい職場体験を受ければ、「この会社ちょっとヤバない?」という危機は抱いた。しかし、それらに目を瞑れるほどの魅力がこの仕事にはあったのだ。


〝土日が休みの接客業〟、というところである。



 アルバイトで長くやっていたこともあり、わたしは接客業が好きだった。得意でもあったと思う。クレームの躱し方にはそれなりに自信がある。



 それと同時に、休みは土日がよかった。土日に休みたかった。しかし、接客業となるとそうはいかない。土日に休むのは難しい。



 そういう意味で、この豆腐屋は「土日休みの接客業」という非常に貴重な存在だったわけだ。



 この会社の待遇には非常に不安があるけれど、それは既にアホの子が飲み込んでいる。土日が休みなのだ。ならば、ある程度のことは我慢できるはず……! とこの豆腐屋に飛びこんだ。



 まぁ結果はこんなことになったわけだが。



 そんなわけで、わたしはこの会社に入社した。ある年の寒い冬の日だった。



 今だから思うことだが、周りにとっても自分にとっても、最低なタイミングの入社だったと思う。

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