第10話 オズワルド①
仕事場に戻ったオズワルドを待っていたのは、十二歳年上の姉エミリアだった。部下は彼女に追い出されたようで、姉は一人で何やら書類とにらめっこをしている。
ドアの開閉音に気づいたらしいエミリアは、顔を上げて弟を見るとニヤリと笑った。そのまま何も言わずにニヤニヤしているのでオズワルドは顔をしかめ、黙って机に戻ると仕事の続きを始めた。
「グレース嬢の店に行ってたんだな?」
声にまでニヤニヤが入っているような調子の姉を無視していると、今度は鼻歌が聞こえだしてきて呆れた。
「邪魔をしたいだけなら出ていっていただけますか?」
はっきり言って邪魔である。
「そう言うな。幸福そうな弟の顔を見て喜んでいるだけだ」
「幸福そう? たしかにお腹いっぱい美味しいものを食べてきましたが」
とぼけて見せるが相手には当然通じない。はあと大きくため息を付き、手にしていた書類を置いた。
「はいはい、たしかに幸福ですよ。わかったら黙って仕事をさせてください」
「ふむふむ。素直でよろしい」
再び書類に目をやるが、脳裏に浮かぶのはさっきまで一緒だった女性の姿だ。
最後に特別だと言って出してくれたコーヒー。
青い炎をうっとり見つめる顔はとても可愛らしく、彼女にバレないよう気をつけながらも懸命に目に焼き付けた。
グレースは不思議な女性だ。
誰からだっただろう? 珍しい店ができたからと教えられ、初めてぶらりと立ち寄った時には驚いた。店の雰囲気も変わっているが洗練されていて、コーヒーも珍しい食事も美味しくてすぐに気に入った。
だが給仕をしているグレースが、伯爵令嬢その人であることに気づいたオズワルドは内心唖然としたのだ。
彼女が本人だと気づいたのは、その数ヶ月前、ソリス伯爵の地位を長男が継ぐために、彼女とその弟が王宮を訪れているのを目にしていたからだ。
記憶をたどってもグレース嬢に覚えがなく調べたところ、大変体が弱く社交界デビューもしていないことが分かった。
だが父親の死で弟を助けるために、王都で店を開いたらしい。
笑顔を絶やさないグレースだが体が弱いのは本当らしく、時々心配になるほど頬がこけることがある。顔色も悪いのに、それを感じさせないほど元気に明るく働く姿に目を奪われた。
グレースは客が少ないときは雑談にも気軽に応じてくれるのだが、それがとても楽しい。
オズワルドは時々大学の講義を引き受けるのだが、出した宿題をグレースの店でしていた学生が、こっそり計算間違いを教えてもらったというから驚きだ。簡単な算数ではない。頭の体操を兼ねて、四桁から五桁の数字を十以上足したり引いたりする計算を計算機なしで行うものだったからだ。
計算ができる女性もいないことはないが、大きな数字のときは計算機を使用する。なのにそれらしきものを使った様子もなく、数秒見ていただけだと言うのだ。どの生徒の宿題にも苦労の跡が見て取れる課題である。
話を聞いた数日後。オズワルドも計算問題をあえて店の中でしてみた。計算機を用いて、だがあえて間違えてみたのだが、グレースはこっそりと計算が違うことを教えてくれた。
「レディ・グレース。もし今時間が大丈夫なら、この計算を手伝ってくれませんか?」
お礼はすると困った顔をして見せれば、なぜか彼女の右手の人差し指と親指が太もものあたりで忙しく動き、あっという間に正解を導き出す。
冷静を装って「計算が早いのですね」と言ったオズワルドに、
「頭の中で珠をはじいているから、計算してるって感じではないんですけど」
そう言いながら役に立ったかと聞かれ、勿論だと礼を言った。これは彼女特有の魔法だろうかと考えた。お礼に金を渡すことは断られたので代わりに何人か引き連れて、前にもまして店に通うようになった。
以前チラリと「大学って憧れます」と言っていたので、学ぶことが好きなのだろう。優秀な家庭教師がついていたのだろうが、彼女の発想はユニークだ。学者連中を連れて行っても騎士を連れて行っても、彼女は目を輝かせて話を聞いてくれる。小さな悩みでも耳を傾け、時に一緒に考えてもくれる。
また、例の学生が吹聴しまくったことで、密かに彼女のもとに悩みを抱えた者が通うようになったことを彼女はおそらく知らない。
スランプに陥っていた楽師が彼女の鼻歌をもとに歌劇を仕立て上げたり、なかなか順調に行かない郵便システムに悩んでいた時、「料金を着払いじゃなくて元払いにすればいいのに」と笑われ、実際そうしたら手紙を出す人が爆発的に増え、郵便業種がぐんと伸びたり。
もっとも彼女が言った、土地に番号を振るシステムはまだ実現できていないが、彼女の、どうやら自分では特別だとも思っていないであろう発想はすごいのだ。
エミリアも彼女の発想に助けられた一人だ。正確には姉の娘キャロルが。
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